第七話 橋の上で
僕は車のハンドルを握りながら、とあることを思い出す。
一か月前の四月、実家に帰ったときのことだ。
「ねえ、あの真ん中のベランダの木、切ったの?」
僕はリビングの椅子に腰かけ、背もたれの上に肘を乗せて、ガラスの引き戸越しにテラスを見渡した。僕が高校生だった時より、だいぶ寂しさを放っていた。以前はパンジーだったりコスモスだったり、様々な花が咲き、淡く華やかな色彩でこの庭が彩られていたように思う。バラのトンネルも、今はなくなっている。
「ああ、あの木もそろそろ寿命だったのよ。洗濯物乾かすときに使ってたんだけどね。もう物干しざおかけられなくなっちゃった」
お母さんはリビングで冷蔵庫を開けながら話す。
「ねえ、寒天作ったけど、いる?」
「いる」
僕は庭を眺めながらそう返した。テラスの床の木材と同じくらいの高さになっている切り株から、もう戻れないというような喪失感が放たれていた。今でもミニトマトだったりパセリだったりを育てているらしいけれど、それでもやっぱり、何かが足りないと思ってしまう。僕の目には、庭を飛んでいる蝶々やミツバチが、まるで公園の遊具がなくなったことを寂しがる子供のように映った。
外で温かい風が吹いているのだろうか、白い壁のツタの葉や雑草が微かに揺れた。
テーブルにお皿が置かれた音で僕は振り返り、お母さんの優しい顔を見た。
「私は、あんたがちゃんと勉強できてることが嬉しい」
そう言ってお母さんは席に着く。
テーブルクロスの上に置かれた白い小皿に、一見でグレープフルーツの味だと分かる色をした寒天が置かれていた。中には扇形をしたキウイが入っていて、口の中で咀嚼するといいアクセントになっていた。
「優君とは、上手くやれてる?」
母の質問に、僕は少しだけ吹き出す。
「カップルみたいじゃん」
「カップルみたいなものでしょ」
お母さんはにやにやした顔で言う。お母さんはよく僕を弄りたがる。どうやら、僕が劣っているところなんて一つもないように思えて悔しいらしい。お母さんに感謝している僕からしたら、なんだか変な心境だ。
「まあでも、いい感じだよ。売れ行きもそこそこらしいし」
精神的な面でも、経済的な面でも、優には感謝しないといけない。
「そう、良かったわ。あ、そうそう、昨日ね、お隣さんからジャスミン茶もらったんだけど……って、あんたは水の方が好きだよね」
お母さんはそう言う。味付きの液体を、僕は自分から積極的には飲まない。口の中にその風味がいつまでも残っている感じが、そこまで好きではないからだ。
「うん。でも、飲んでいこうかな。その後水飲む」
キッチンの方へと歩くお母さんは笑って、
「あんたのそのちょっと変わってるとこ、変わらないよね」
と言った。お母さんは続ける。
「小さい頃からそうだったね。おもちゃ欲しいーなんてトイザラスで叫んでたことなかったし、病院行って注射しても泣かなかったし、幼稚園の最後の一年のとき掛け算覚えちゃったし」
「そういうのやめて」
僕は単純に恥ずかしくなる。お母さんはまた笑った。
その後、僕とお母さんはジャスミン茶を飲みながら他愛のないことを話した。
***
「おーい、聞いてる? 光基」
助手席から優の声が飛ぶ。僕の意識は川を横切る橋の上に戻された。
僕は優の方をちらりと見る。頬に貼られた絆創膏は剥がされ、傷は癒えていた。
「ごめん、何だっけ」
「いやね、出版社に最近来た新人さんが怪しいって話」
「え、どんな話それ……」
運転に集中しながら、僕はそう返した。
「なんか、俺の生活事情を、俺の編集者から色々聞こうとしてたらしくて」
「ただのファンなんじゃないの?」
「いや、そういうのじゃないんだよ」
そう言って、優は面白おかしく一人芝居を始める。
「優さんって痛みを感じない病気なんですよね。そうですよ。やっぱ検査とか行くんですか? 知らない間に感染症とかかかる可能性があるらしくて、必要らしいですよ。え、じゃあ週一ペースとかで行くんすか? それは分からないけど、今週の土曜日に行くって言ってましたねえ~。って感じ」
「え、怪しくない?」
僕は優の方を向く。一人芝居の中にあった、今週の土曜。それは、まさしく今日のことだ。
「でしょ? 雰囲気で話してしまって、俺の編集者さんは違和感に気づかなかったらしいんだけど、話し終わってから変だなって思ったらしくて」
「え~、それはなんか変だね……」
僕はそう言って、乾き始めたフロントガラス越しの大学を見る。橋を渡り切ってすぐにそれは建っている。赤レンガのような色に、医学部という文字。その後ろにはさらに大きな大学病院がどっしりと構えるように建っている。屋上に、ヘリコプターが停まっているのが見えた。
雨上がりだからか、市全体がギラギラと光を放っているように見えた。
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