第三話 売れっ子小説家
「優、ご飯できたよ」
僕は共用の自室のドアを開けながら言う。優はパソコン画面の文字列をいじくりながら、はいよーとだらしない声で返事した。
僕達はリビングで席に着き、テレビも付けずに夕食を食べ始める。豆腐ハンバーグに、たらこパスタソースを混ぜたマッシュポテト。ぬるい温度に冷ましたコンソメスープ。即席にしては良く作れた方だと思う。
料理は、優が口内を傷つけないようなものを作るように心掛けている。食感の硬い物を食べさせたら舌を切る可能性があるし、熱を持った物を飲ませたら火傷をする危険性がある。痛みというのは人間に危険を知らせるための重要な感覚だ。優には、その感覚が備わっていない。この事実に、僕は何回も心を痛めてきた。当の本人は、今はあっけらかんとしているが。
「そう言えば、昨日の打ち合わせで新作の装丁が決まったぜ? いつか光基にも見せてやるよ」
マッシュポテトを飲み込み、優はそう言った。
優は結構の売れっ子の小説家で、彼が初めて小説を出版したのは高校生の頃だった。その小説の題名は、「パラフィリア」。僕にとっては、あまり思いだしたくない記憶を呼び起こされるものだが、それはまた別の話だ。パラフィリアと言うのは、いわば性的倒錯。優の描く登場人物の、どこか普通が分からない感覚の緻密な描写が評価され、優はかなりの知名度を上げた。
間違いなく、その登場人物のモデルは僕だった。優には、何か決まったような性的対象はなく、また、恋愛対象がどういったものであるかさえ分かっていない。これは、本人が口にしたことだ。公言をしているというわけではない。
「ありがと。そういや、僕が寝てる間に結構キーボードカチャカチャやってたみたいだったけど」
そう言うと、優は眉を下げ、はあっとため息をついた。
「やっぱり何冊か書いてると思うんだけどさ、推敲の作業が一番地獄だな」
何回か、優から小説家だからこその話を聞く。そのせいか、医学というまったく文学とは畑違いな分野を専門に勉強している僕は、そこそこ小説家の裏側に詳しくなっている。人一倍読書をしている矜持は、一応僕の中に備わっていた。僕も、優の立派な読者なわけだ。
「そういや、明日検査だよ。忘れないでね」
僕は少しだけにやっとした顔つきで優に言っておく。
「あーはいはい分かってますよー」
優はめんどくさそうに応えた。いつも優は大学病院での検査を嫌がるから、僕にはその様がいじけた子供みたいに思えて面白かった。
痛覚のない優は僕の通う大学の病院に定期的に検査を受けに行く。優の頬や左腕の指には、僕の貼った絆創膏がある。優の体の外側の痛みなら、僕は気付くことができるのだが、体の内側の痛みには誰も気付くことができない。知らない間に骨折していたり、感染症にかかっていたりする可能性があるのだ。
「まったく、うちの主婦は真面目さんで嫌になっちゃうねえ」
優はにやにやと皮肉的な声で言った。
「主婦言うな」
「俺の印税でここまで生活できてんだから、ありがたく思いな」
「おお、なんだ偉そうに。ここまでお前の世話してきたのは誰だよ」
そう言って僕は笑った。優も、にししという感じで笑顔になった。
僕は、僕達は知っている。
この幸せが、ありえないほどの奇跡の連続で成り立っていることを。数えきれないほどの選択で生まれていることを。
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