第二話 ルームシェア

 かたかたかた。

「ん……」

 重たい瞼を開けながら、妙に脳内に音が響き渡る。規則性はなく、急に止まったり、テンポが上がったりする。

 ああ、そうか、キーボードの音かと分かり、布団もかけずに眠っていた僕は上半身を起こす。ベッドから身を起こすと、小説を執筆している優の姿があった。優は黒いチェアーに座りながら、人差し指にキズパワーパッドの張られた、がっしりとした手でカタカタとキーボードを叩いている。優の左から見たステンレスパイプ越しの横顔を、僕は目を細めながら見つめる。

 頬に貼られた絆創膏。その上に据わっているきりっとした鋭い目。その眼には、電子的な光が映っている。

 何秒かしただろうか、ピタッと優の手が止まり、チェアーを少しだけ回して優は僕の方を向いた。

「おはよ、光基」

「おはよ」

 優は優しい目つきで僕を見る。左の頬に貼られた絆創膏が、一体彼がどういう性質を持っているのかを象徴していた。久しぶりに、優は頬を切ったのだ。どこで切ったのか覚えていないというのだから、対処のしようがない。

「今、何時」

「七時」

 優がちらっとパソコンに目を移して言う。

「うわ、やば」

 そう言って、僕はベッドから出ようとする。しかし、ベッドの方へと目線を下にやり、僕は一つの布を目にし、動きを止める。

 クマのぬいぐるみみたいにもこもことしたジャンバーが、いくつもしわを作って僕の下半身にかぶさっていた。僕はそれをつかみ取り、優の方を向いた。

「ねえ、これって……」

「除湿効いてる部屋で寝てたら風邪ひくんじゃねーの?」

 優がパソコンに目を逸らしながら言うと同時に、紺色のカーテン越しのベランダから水滴の滴る音が聞こえてくる。そうだ。今日は何年に一度とかニュースで叫ばれていた集中豪雨が市内であったのだ。大学のお隣さんに暴れ川があることもあり、通学困難となっていた。

 自分の部屋で遠隔授業を受け、その後四時あたりから眠ってしまっていたのだ。幸い、そこまで課題を背負っているわけではなかった。

「ありがと」

 自主学習の時間を失っちゃったなと思いながら、僕はベッドを出る。

「早く飯作れよ」

「分かってるよ」

 部屋を出ながら僕は、パソコンに目を向けながら言う優にそう言葉を返す。優が料理をできないのは、彼に料理をする力がないからではない。


 優には、痛覚というものが存在しないのだ。


 そんな優が料理なんてしたら、すぐにピーラーとか卵の殻で怪我をするだろう。そもそもキッチンに立たせるだけでも危険だ。

 僕は、優に傷ついて欲しくない。それだけが、僕が今ここにいる理由であり、今ここで生きていけている理由だ。

「お前、いつも頑張りすぎなんだよ」

 廊下に出ると、優の小さなボヤキを聞き取った。

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