茜色の一念

 息をするのも忘れて遺体を眺めている。「があぁ!」と発狂するかのように息を吸い込んだか思うとむさぼるようにバッグの中に手を突っ込み封書を取り出した。


 加代の書いた字をじっくりと見たのは初めてかも知れない。意外と綺麗な字だなと思った。記憶を失ってしまう前に忘れないようにと書き溜めていた文字には桜子への想いが綴られている。


ー 娘が作った借金の肩代わりをさせられ返済に追われる日々、そのために仕事を掛け持ちし桜子に十分なことをしてやれなかった。誕生日くらいケーキを食べさせてやりたいとケーキ屋の前まで行ったのに財布の中を見てお金が足りなくて買ってやれなかった。会いたくなって何度もアパートに訪ねて来たけれど会えなかった。桜子のことがわからなくなる前にあの子の顔をみときたいな ー

などの後悔や希望が書かれていた。


 テーブルの上のプリンを手に取って震える手で一気に食べ干した。シュークリームを口に詰め込んだとき鼻の奥がツンとしたと思ったら生クリームが涙でしょっぱくなった。


「どうして涙が出るんだよ……」


 濡れた頬を拭って加代の胸に遺書を置いて立ち上がって「行くね」と呟いた。


 もうここにはいられないと思った途端、着の身着のまま部屋を飛び出した。とてつもなく歩き続け気が付けば道路の向こう側に警察署が見える。


 加代を手にかけたことに苛まれ、この歩道橋を渡れば終わってしまう人生を憂いながら茜色の空を見上げた。


「どうせ生きてる価値なんてないんだ。通り魔にも無視されて、ばあさんまでっちゃって私なんて居なくなったって誰も困らないよ」


 なげやりな思いで道路を見下ろし欄干から

身を乗り出した。その時、


「なにをやってるの?死を選ぶのは、こと早いんじゃない」


 背後から声がして思わず身を戻した。


「駄目だよ。そんなこと」


「だれ!」


 振り返ろうとした時、背後から両肩を掴まれた。


「こっちを見ないで、今から僕が話すことをよく訊いて、君が勤める清掃会社の本部が入っているオフィスビルの裏路地の花街に今夜21時21分に来て、21時21分だよ。時間に遅れないように必ず来るんだ。待ってるからね。桜子」


「どうして私の名前を知ってるの」


 振り返るとそこには影すら無かった。


「いまの誰?21時21分に本社の裏……」



※※※


「ねぇ、やっぱり、んでる。全然、目を開けないもん」


「死んでないよ」


「ねぇ。さえこれ絶対、んでるよね。グードが殺した」


「僕はブーゼとは違うから」


「ふーん。あたちの勝ちね」


「また勝ちって言った」


「ブーゼったらグードに意地悪しないの」


「意地悪って面白い。意地悪される奴が悪い。意地悪させるグードが悪い」


「ほら二人とも見て目を覚ますわよ」


 冴が桜子の顔を覗き込むとグードもブーゼも同じように覗き込んだ。その時、微かに瞼が動いた。


「ここに、虫がいる」


 ブーゼは瞼に指を押し付けた。


「それは眼球が動いてるんだよ。目を覚ます時にそうなるんだ」


 グードはブーゼの指を摘んで瞼から離した。


「目は覚めないよ。んでるんだもん。虫だよ。虫。虫が目玉食ってる。気持ち悪い」


 グードは呆れた顔をし冴を見た。


「あんたたち誰よ」


 目を覚ました開口一番に猪口才ちょこざいな態度をとる桜子はむくりと起き上がり眉間に皺を寄せて三人を睨みつけた。


「目を覚まちた途端に悪態つく女。死ね」


 ブーゼは桜子の鼻先に指を押し付けた。


「なにするのよ!」


 ブーゼの手を払い避けると、


「ほんと、可愛くない女こんな女さっさとボーデンの餌にする」


 桜子はこぐりと唾を飲み込んで自分を見つめる三人の顔をじっくりと見返す。


「大きくなったわね」


 冴は優しく微笑んで桜子の頭上に手を乗せた。


「大きくなったって、あんた誰」


「冴のお陰でここにいるのに可愛くない女」


「私のこと覚えていない?覚えてないかな。まだ小さかったものね」


「小さかった?」


 グードとブーゼは桜子の横にちょこんと座った。二人は冴を見上げる。桜子も自分の傍に座った二人を交互に見て目の前の冴を見上げた。


「桜子、あまり時間がないの、元の世界へ戻れば貴女は警察に出頭し同時にそこで自死を選ぶ。ここにいれば桜子は桜子のままでずっと生きられるのよ。戻るか留まるかそれを決断するのはあなた自身」


 不思議と冴の言葉は自然と心に浸透していく。悩む事もなく揺らぐ事もなく心に刺さっている棘がぽろぽろと抜け落ちる。凍りついていた孤独な心を解き放ち穏やかな気持ちにしてくれた。


「元の場所に戻るなんて嫌!戻ったってなにもないもの、ここにここに居させて」


「ふふん」


 ブーゼが鼻を鳴らし微笑んだ。


「あたちの勝ちね。グード」


「だから、勝ち負けではないって言ってるのに」


「なに言ってるの。生きてる処は勝負の世界負けたら駄目なの勝たなきゃ駄目なの。あんた馬鹿なの。あっ、グードはあんたは馬鹿だった」


 にひひと笑うブーゼを見た桜子は、


「何のために生まれてきたのかずっと考えてた。考えても答えは見つからないし、誰も私のことなんて構ってもくれない。だから生まれてこなければ良かったっていっつもいっつも思ってた。ここだと私、生きていけるのよね。生きてていいのよね」


「そうよ。桜子!ここだと生きていけるの。ボーデンの餌になるんだけどね。ふふん」


「ボーデンの餌って」


「桜子、桜子はずっとここで生きていけるんだよ」


 グードの手に両頬を包まれた桜子は恥ずかしそうに微笑んだ。グードのその瞳に心を奪われた桜子は今まで見せた事がないほど可愛らしく朗らかな表情をしている。


「その笑顔覚えてるは」


 冴は桜子を抱きしめた。


「さぁ、行きましょうね。貴女がこれからづく場所へ」


 冴は部屋の扉を開けるとずっと向こうまで廊下が伸びている。


 ブーゼは「ふふふん」と鼻を鳴らしスキップしながら冴の右手を掴んだ。グードは桜子の手を握って冴とブーゼの後に続いた。


 








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