青天の霹靂

 桜子はいつものように会社に向かって歩いていると前方で悲鳴のような声が聞こえてきた。


 すぐ目の前にいるスーツ姿の男が道路に飛び出したと同時に急ブレーキの甲高い音やクラクションが鳴り響いた。


 茫然ぼうぜんと立ち尽くしている桜子の目前にただならない様相ようそうをした女が髪の毛を振り乱し突進して来る。


 目前で立ち止まったと思ったら大きく目を見開いて「ぎゃー」と鋭く突き刺さるような苦しみと痛みを吐き出す奇声をあげ、口からは粘り気のある血がどろっと垂れ出た。


 桜子は咄嗟に自分の口を塞ぎこみあがってくる胃液をぐっとこらえた。


「うっ……」


 背後から大柄の男が女の肩を鷲掴みにして桜子を見下ろしている。


 獲物を狙うようなその目から目をらす事ができない。


 男は満足気な笑みを浮かべ掴んでいた肩を離すと女はタオルのようにふわりとアスファルトに落ちた。


 男の手には包丁が握られ尖った先からはぽたぽたと生々しい紅血が滴り落ちている『刺される』そう思った桜子は奥歯をぎゅっと噛み締めた。


「刺すなら……早く刺しなさいよ」


 含み声で呟くと男は包丁を高く振り翳し、


「残念だな。死にてぇ奴は死なせてやらねぇ主義なんだ」


 不適な笑みを浮かべて桜子の脇をすり抜け後方に立ち尽くしていた女子高生の腹に躊躇いなく包丁を突き刺した。


 快楽を貪るように次々に人を刺し、刺された人は地面に倒れる。桜子は奇異きいな情景をただ茫然と眺めていた。



ードンドンドンドンー


 部屋のドアを叩く音ではっとして我に返り、


「朝からうるさいわね。どうせ、新聞の勧誘でしょうよ。新聞なんていらないっつうの」


 めんどくさそうに立ち上がって部屋から五歩ほどの三和土にたち、


「新聞はお断り、前にも要らないって言ったでしょ!」


 ドア越しに叫んだ。


「桜子、私だよ。ここを開けておくれよ」


「……」


 加代の声で苛立つ気持ちが一気に冷めた。久しぶりに姿を見ていつの間にこんなに老いたのかと目を疑った。


「なんの用」


「すまないね。顔を見たくていつも近くまで来てたんだよ。でもあんたいつも留守だったから、会うのは8年ぶりか、もうそんなになるんだね。これ……」


「なによ」


「そこのコンビニで買ってきだんだよ。今日はお前の誕生日だろ」


 差し出された買い物袋の中にはプリンとシュークリームが入っている。


「普通、ケーキでしょうよ」


「ケーキ屋はまだいてなくてさ」


 桜子は渡された袋を折りたたみテーブルの上にぽんと置いた。


「あんた、プリン大好きだったろ」


「……」


「小さい頃よく食べてたよね」


 プリンを好きだったことなんてこれっぽっちも覚えていない。


「覚えていないのかい、まあ、大きくなったら大きくなったで他で金が必要だったから、デザートなんて買ってやれなかったもんね」


 加代はテーブルの脇にちょこんと座りガサガサと袋の音をたてながらプリンとシュークリームをテーブルに置いた。


 貰ったはずのスプーンが見当たらなくて探している横から袋を奪うように取り上げ底にはり付いているスプーンを取り出しプリンの上に手荒く置いた。


「スプーンあったかい、確かに貰ったはずだからね」


「で、何の用」


 愛想のかけらもない物言いの桜子に加代は姿勢を正して床に頭を擦り付けた。


「なにしてんのよ」


「桜子、あんたにお願いがあるんだよ」


「お願いって、金とかじゃないわよね。金なんて無いから」


「違うよ。桜子……あんたに、私を……私を殺して欲しいんだ」


 突然思いがけないことを言われ、


「今なんて言ったの」


 と訊き直した。


「私を殺してくれって言ったんだ」


「殺してくれ……はあ?なに言ってんだよ」


「こんなこと頼めるのお前しかいないだろ」


「孫に自分を殺せって、やっぱ、あんたって相変わらず最低。私に犯罪者になれってこと嘘でしょ」


「わかってるよ。わかってる。最低だって事くらい。気づくとね。知らない土地に立ってたり、朝目覚めて起きたはずなのに気づくと夜になってるんだ。その上、何をしていたか覚えていないんだ。先週、病院へ行って来たんだけど、そしたら……痴呆症なんだってさ、薬もらって飲んでるけどそのうち自分の事がわからなくなるんだって、なんの因果かね。頑張って生きてきたのに……。そんなの死んだ方がマシだろ。自分の事がわからなくなる前に死にたいんだ。死のうと思って死に場所を探していたらお前の顔が浮かんだんだよ。そういえば今日はお前の誕生日だなって思ってさぁ」


「なに勝手なこと言ってんだよ」


「ごめんね。だけど、もうどうにもならないんだ。どうやって死ねばいいのかもわからない。ボケてしまってからあんたに迷惑をかけなくないんだよ。さぁ、やっておくれよ」


 加代は桜子の手を取り自分の首を握らせた。


「迷惑かけたくないって迷惑かけること言ってんじゃん!言ってること支離滅裂」


「バッグの中に手紙がある。ちゃんと書いて来たんだ。あんたに罪はないってね。それを警察に見せるんだ。そしたら大丈夫だから、さぁ思い切ってやっておくれ。頼むよ」


 加代は泣きながら懇願した。それを見た桜子は深呼吸を繰り返す。


「さっさとやっておくれ」


 全身に力を込めて渾身の力を親指に入れると加代は桜子に身を委ねた。

 

 子供の頃に受けた仕打ちの数々を思い出し心血を注いだ。うつろいゆく時間の中で桜子はうつろな目をし絶えた加代を眺めている。


 加代は眠っているかのように安らかな顔をしていた。














 

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