鈍色の心

 朝が来た。


 また目が覚めた。目覚めた瞬間に、


「チッ!なんで目を覚ますかな」


 まるで他人事のようにつぶやいた。掛け布団をバサっと折りたたみ、もそりと起き上がってキッチン横のき出しの古臭い洗面台でゴシゴシと顔を洗って濡れたまま鏡の中の自分を見つめた。


「今日はなんの日、誕生日」


 生まれてこの方一度も誕生日を祝って貰ったことなんてない。誕生日だからと言って嬉しいこともない。今日という日は二度と来なくてもいい。


不憫ふびんな子、不憫な子の私は26歳になっちゃったよ」


 嫌味たらたらに呟いた。


 3歳時に覚えた不憫な子、どこへ行っても不憫な子、顔を見れば不憫な子と言われ「不憫な子」の意味を知ったのは小2の頃だ。


「私は可哀想な子なのよね」


※※※

 

 23年前、


 桜子はこの日、3歳のお祝いに動物園へ向かっていた。


 駅のホームに電車を待っている人はまばらだった。母親は空いているベンチに桜子を座らせた。


「桜子、ママ、オシッコ行ってくるからここで待っててね。動いちゃだめよ」


「うん」


 母の言いつけを守り大人しくベンチに座って待っている桜子は電車のドアが何度も開いては閉じるのを楽しそうに眺めていた。


「お嬢ちゃんのママはどこにいるの」


 鼻の下にほくろのある女が声をかけた。


「おしっこ」


「おしっこって、どこのトイレに行ったのかしら」


 約束の時間に遅れないようにかなり早く家を出た。かれこれ三十分程度心配で見守っているけれど母親が戻って来そうな気配はない。脳裏に不安がよぎる。


「まさか……まさかね」


 そんな事を考えていると、


「ニ番ホームに電車が入ります」


 とアナウンスが流れた。


 この電車に乗らなければ間に合わない。早く家を出た意味もなくなってしまう。


 ドアの開いた電車を見て乗るか乗らないのかまごついている。


〜〜〜〜〜


 女児がひとり置き去りにされてる。


 知らない子だもの。気付かない振りしたっていいじゃない。


 もしも、もしもよ……線路に落ちて電車に轢かれてしまったらどうするの。


 他所よその子が死んだって構わないじゃない。


 見て見ぬ振りなんて駄目だよ。


 でも……初デート……どうするの。


 どっちにするの


 どっちなの!


 こんなの悩む事じゃない。悩むべきじゃない。悩むなんて最低でしょ。


 この子を見捨ててこの電車に乗ったりしたら私はきっと良心の呵責かしゃくさいなまれてずっとずっと後悔しながら生きていく事になる。


 間違いなく私は……後悔する。


〜〜〜〜〜


「もう!」


 女は走って階段を駆け上がって行った。電車のドアは閉まりつれなく発車する。


「お嬢ちゃん、ママはどこかな」


 桜子の前に女と駅員が近寄ってきた。


 駅員は桜子の前で腰をおろして優しく頭を撫でながら冷たくなった手を握った。


 足の届かないベンチから下ろしてやって一緒にホームを歩く、座っていたベンチを何度も何度も振り返る桜子を見ていると駅員は不憫ふびんに思い手慣れた感じで抱き上げた。


「お嬢ちゃん、行こうね。アンパンマン好きかな」


 誕生日を迎えたばかりの息子へのプレゼントを思い浮かべた。


「うん。アンパンマン、しゅき」


 その後、桜子は施設に引き取られ一週間が過ぎた頃、


「私と一緒に行くんだよ」


 誰とも知らない女の顔を不思議そうに見上げる桜子は段々と顔を歪め泣き出した。


「桜子ちゃん、この人はね。桜子ちゃんのおばあちゃんなの。迎えにきてくれたのよ」


 加代は幼い頃の加奈子の面影そのものだと思った。


 3年前に加奈子が妊娠した事を知った加代は産むことを反対した。


 女手ひとつで子供を産み育てることがどんなに大変か身を持って知っていたからだ。だからこそ、堕胎を助言したのに加奈子は桜子を産んだ。


 このころの加代は働き詰めで幼子を育てる余力はなかった。ひとり食い扶持ぶちが増えれば生活はますます苦しくなる。


 考えた末に引き取ることは断念したが血を分けた孫だと思うと次第に不道だと思い引き取りにきた。



「認知もされない子供なんか産むんじゃないってあれほど言ったのに……無責任なバカ娘」


 口癖のような数々の慨嘆がいたんは桜子の心に深く深く刻み込まれていった。


※※※


 「産まれてこなければよかったんだ」


 この呪縛は桜子を鈍色の心に閉じ込めた。


 つい先日、改めて自分の存在価値のなさを思い知らされる出来事に遭遇した。


 テレビをつけると一昨日の事件を取り上げている。


 生まれも育ちも良さげな女、欠点なんてどこにもなさそうですこぶる賢そうな顔つきが

「超ムカつく」整った顔だちのキャスターを見て「フン」と鼻を鳴らした。


「どうせ苦労のくの字も知らないんでしょうよ」


 他人様ひとさまに聞かせられないような憎まれ口を言うのが桜子の十八番おはこである。


 キャスターは真っ直ぐ正面を見て淡々と原稿を読みあげる。


「一昨日の通り魔事件の被害者がまたひとり亡くなられました。これで犠牲者は五人になり、警察は容疑者の動機について詳しく調べています」


「なに言ってんだか……動機って殺したいから殺したに決まってるんだよ。ばっかじゃないの」


 桜子はブラウン管の中のキャスターを睨みつけ荒々しくリモコンのスイッチを消した。


 


















 

 






 



 




 


 




 


 


 

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