第5話 ゴッド・ブレス・ユー


 心の宝箱にそっと仕舞った、私の幼い思い出がある。


 年の頃は、二つか三つくらいだと思う。緑薫る風の吹く草原にいた。定かでないけれど、酷い転び方をした気がする。足を怪我して、私は泣きじゃくっていた。

 泣いているばかりの私に、母親が駆け寄ってきてくれた。私を深く抱きしめて、頭を撫でてくれた。そうして怪我をした箇所に手をかざし、優しい声で言葉を紡いだ。


「――」

 治癒魔法だった。黄金色の魔力の煌めきが溢れ出し、傷も痛みも取り払った。

 私は涙も忘れて、また草原を無邪気に走り回る。深い愛情を湛えた母親のまなざしに見守られながら。

 そうして遊び疲れて眠るとき、幼い私には想うことがあった。


 きっと私も、やがては愛する人に出会い、子供をもうけて母になるのだろう。

 我が子が泣いているとき、私は寄り添って愛情を施してあげるのだろう。

 私の母親がそうしてくれたときのように。


 永久にその日が訪れないことを、間もなく私は知ることになる。




 全ての人間が魔法の才を与えられる世界。

 その世界にあって、私、フゥロ・ナルメリアは、魔力を持たない人間だった。


 一般的に、人は五歳の頃には魔力を備えると言われている。

 長い目で見られた私だったけれど、十歳にしてなお魔法を全く使えないことから、ついに稀代の弱者と認められた。

 ナルメリア家は高い魔法の適性によって古くから王国を支えた貴族だ。だから、私の存在は恥ずべきものでしかなかったと思う。私の処遇は瞬く間に変わっていった。


 表向きには不治の病を患ったとして、私は本宅から遠く離れた街外れの屋敷に身を移すことになった。……きっと、貴族社会で私が無理をして息を詰まらせないようにするため。


 行動が許されたのは、屋敷の中の、自室を含む限られた場所だけだった。……きっと、自衛の術を持たない私を危険な目に遭わせないようにするため。


 両親が私のいる屋敷に訪れてくれることは、一度としてなかった。……きっと、私に精神的な成長を促すため。


 ちゃんとわかっている。全ては私を思ってのことだ。処分されずに済んでいることに感謝をしないといけない。私は、娘だと認められている。


 時間の速度は途方もなく緩慢に感じられた。

 屋敷には世話係のメイドが数名いるけれど、私の孤独を拭おうとはしてくれなかった。実家の威光を失った私には、それさえ過ぎた望みだった。


 ふと目を閉じると思い出すのは、魔法が使えなくても愛された日々のこと。両親が魔法を使うときは、いつだって私を幸せにするためだった。私も、そんな風に魔法を使って、誰かを笑顔にさせたかった。そういうものだと、信じていた。

 太古から人と人とが分かち合い、受け継いでいく絆や愛情という繋がりから、私は外れてしまった。

 悲しいことだと思う。悲しいことだと思わないように、私は心を摩耗させた。

 無色透明な日々を経て、私は十五歳になった。相変わらず魔法は使えない。それでも私は浅はかだから、一歩も出られない屋敷の中で夢を見ていた。


 夢。私をここから連れ出してくれるような、劇的な、運命めいた奇跡。


 そんなある日のこと。部屋の窓より視線を落とした先に、私はその子を見つけた。春の陽差しを浴びながら通りを悠々と歩く、黒い子猫だった。


 神様、最初で最後のわがままを許してください。


 私は惹かれるようにして、子猫を追いかけようと心に決めた。ここではないどこかに連れて行ってほしいと、救われたいと、願ってしまった。そして、部屋を飛び出し、屋敷の門を駆け抜けた私は――


 荒れ狂う荷馬車が私を撥ねた。

 

 ――。




 撥ねられた、その衝撃が全身を駆け巡ったのを感じた次の瞬間、私は一面の暗闇の中に佇む自分を見つけた。


「あれ……」

 景色の移ろいは意識の断絶を思わせないほどに滑らかで、なのに感じたはずの衝撃はまっさらに消えていて。かえって私は膝からよろよろと崩れ落ちてしまった。記憶と意識と現実が、あまりにちぐはぐだった。

 ここはどこ。何一つわからない。


 すると突然、空間を燦然と照らす光の奔流が、目の前で立ち昇った。

「きゃっ……!」

 驚いた私は、咄嗟に視界を手で覆い隠す。けれど、闇に慣れていたはずの瞳に、痛みは全くなかった。煌々と輝くもどこか優しい、不思議な光だった。

 私はおそるおそる手の覆いを外す。そうして、またも驚愕した。


 光の奔流の中に、美しい風貌の女性が立っていた。白銀の衣、黄金の流麗な長髪。美しく繊細な顔立ちに、春の太陽のような柔い笑みを携えている。

 女性は、私を見つめていた。やがて恭しく口を開かれた。


「汝、フゥロ・ナルメリアよ。私は女神です。これより私は、あなたに告げねばなりません」


 女神様。

 とても現実離れしたその一言に、私は、自身の置かれた状況への疑問が瞬く間に氷解するのを感じた。おそらくここは……死後の世界。

 その通りの言葉を、女神様は紡がれる。

「お気の毒ですが、あなたは死んでしまいました。隣人を愛し、節制に努め、敬虔であり続けたあなたの生涯を、ここに称えましょう」

 慈愛に満ちた微笑みを、私に向けられる。


 救われる想いだった。突然の不幸に動転していた胸のうちは、凪いだ海のように穏やかに変わる。女神様に、言い尽くせないほどの感謝と安堵を覚えた。

 私は、全ての運命を受け入れられる気持ちになった。

「ああ、女神さ、」


「でもまあいきなりそんなこと言われても困るでしょう? ですからね、これからあなたに持ちかけるのは、もうとんでもなく素敵なお話なんですよ! さあさ、肩の力抜いて。それじゃあ早速教えちゃいますからね!」


 ……え。

 空気が一変するのを感じた。


 私が呆然としている間に、女神様はてきぱきと動かれた。

「眩しいわね、これ」

 光の奔流が収まる。

「あら今度は真っ暗じゃないですか」

 暗闇の中に私と女神様の姿がはっきりと浮かび上がる。


「改めまして、こんにちは。私のことは、どうぞ親しみを込めて、めがみんとお呼びください」

「そんな……女神さ、」

「めがみん、ですっ」

 窘められてしまった。窘められてしまったので、応える。

「……めがみん、様」

 精一杯の敬意を表した。けれどめがみん様の関心があるのは頭の四文字だけのようで、待ってましたとばかりに両手を振るい始めるのだった。


「そう、我が名はめがみん! あまねく生と死を司る神にして、迷える魂を導きし者!」

 荘厳なる口上と共に、じゃじゃんっ(ご自身で口にされた)と勇ましい姿勢を決められる。その姿を彩るように、背後で色とりどりの光が爆裂した。

 ……。

 ややあってから、めがみん様は微笑みを浮かべられた。

「さて、ここからが本題なんですよ」


 軽いです。軽すぎます。

 死後の世界という状況に比して、あまりに雰囲気が軽い。どうしてだろう。私のせいだろうか。私の魂が軽いから、めがみん様の心持ちも軽いのだろうか。私は恥の多い生涯を送ってきたことを大いに恥じて……。

「フゥロさん。世界転移って知っています?」


 お話が始まったので、私は努めて気を引き締める。

 世界転移。

「は、はい、存じ上げております。確か、別の世界の住人が、救世のためにこちらの世界へ来られるという……」

「正解です。転移とは言いますが、正確には召喚魔法によるものを指します。別世界に干渉して、そこに住んでいる無垢な方々をこう、引っ張ってくるんです」

「引っ張ってくる……?」

「拉致みたいなものです。世界の秩序を守るためだなんて言って、こちらの世界の魔術師がほとんど一方的に呼び出しているだけなんですよ。酷い話です。まあ実態はともあれ、これが世界的に厄介な、ある問題に関係しています。何かわかりますか?」


 世界転移と、転移者たちの各地での活躍を、私は書物によってしか知り得なかった。屋敷に籠もっている私にとって、それらはまるでおとぎ話や古き英雄譚、遠い絵空事のようで。

 今も繰り広げられているとは聞いていても、その背景や実情まで頭を巡らせることはなかった。何せ私は魔法を使うことすらできないというのに。


「……わ、わかりません」

「正解は、魂の総量の増加です。簡単に言うと、フゥロさんたちの世界は、人の魂が増えすぎて飽和しまくっちゃってる状況なんです」

「……魂」

「魂は消えません。この星で輪廻の環を巡り、生と死を繰り返します。で、減らないところに他所の世界から人がやってくるわけですから、増えてしまう一方だということはおわかりですよね」


 かろうじて理解できた。私はこくこくと頷く。よろしい、とめがみん様にお褒めの言葉を頂いた。

「魂の均衡が崩れることは、どちらの世界にも様々な厄災を引き起こしかねません。対策を打つ必要があります」

「……はい」

「そこで、フゥロさん。あなたに、彼らの世界へ逆転移してもらいます」

 まあ正確には転生になるんですけどね、と付け加えられ。


 ……。

「え、ええええええええええええええええええ!?」

「世界を守るためなのです」

「どどど、どうして、私なのでしょうか」

「運命の導きですとも、ええ」

 めがみん様は平然と言ってのけられた。


 私はうろたえる。取り返しのつかなくなっていくのを感じる。

「て、転移者の方たちを送り返すというのは……」

 我ながら酷い発想かもしれないと思いつつ問いかけると、

「もうやってます。でも全然死なないんですもん、あの人たち。死んでくれたら送り返せるんですけど」

 あっけらかんと返された。


「と、とにかく困ります! 私、」

「えいやっ」

 めがみん様が手を振るう。

 途端に、全方位が闇に囲われていると思っていた私の足下に、より暗く底知れぬ深淵が口を開いた。


「――え? きゃああああああぁぁぁぁ!」

「ゴッド・ブレス・ユー」

 聞こえた言葉の意味も理解できずに。


 私は、深く、落ちていったのだった。

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