第2話 雪のにおい

 目的地の山の麓の村に到着し、一夜を過ごすための宿を探す。少数の村人たちがつつましやかに暮らしているのどかな村には宿らしい宿は無いようだ。住民たちの話を聞いてみると、ある老夫婦が民宿をやっているとのことだった。そこに行ってみると、優しい顔をした老夫婦が温かく出迎えてくれた。


 ここで民宿を始めたのは、子供たちが都会に出ていって広い家が寂しく感じたのがきっかけだそうだ。そういう理由で始めたからか、一泊の値段はこの家の過ごしやすさに対してあり得ないほど良心的な価格になっている。老夫婦が手作りした食事付きというのだから、もはやこの価格では赤字だろう。商売ではなく老夫婦の話し相手が欲しいという思いからできたこの宿は、始めてきた場所のはずなのに実家のような安心感があった。


 ……まぁ、私の実家に安心感なんてなかったけど。


「ヨウのせいで金欠だからまた最悪な宿に泊まる羽目になると思ったけど、いい宿に出会えたわね」


 スノウが荷物を置いて、一人掛けの緑のソファに体を預けた。長時間の移動で疲れたようで、大きくため息をついたスノウは癒しを求めてベッドの上に転がっていたクッションに手を伸ばす。手にした黒いクッションをギュッと抱きしめると、疲れを吐き出すように深く息をついた。


「疲れたの?」

「疲れた」

「なら、それよりこっちでしょ」


 スノウの頬をつついて私の方に視線を向けさせて両手を広げた。私の意図を察したスノウはクッションを手放し、私の胸の中に飛び込んでギュッと抱きしめたい。


「……あったかい」

「ふふっ、ひんやりだ」


 特異体質のせいで基礎体温が高い私と低いスノウ。私たち二人が抱き合うと互いの温度がなんとも心地よくて、どんな高級毛布よりも癒されるのだ。ハグにはリラックス効果があるとも言うし、これが私たちの一番疲れが取れる休憩方法だ。


 私よりも疲れがあるスノウはグリグリと頭を擦り付けて甘えてくる。そんな彼女に応えて優しく頭を撫でた。無言だけど心地良いこの時間の中で、ここについた時の疲れが嘘のように消えていく。やっぱり、私たちは最高の相棒だ。


「そろそろご飯の時間かな。スノウ、そろそろ降りるよ」

「んー……わかった」


 両手を離すとスノウは目を擦りながらゆっくりと立ち上がる。スノウが転ばないように手を繋ぎ、二人で老夫婦がご飯を用意している一階に降りた。


 階段を降りた直後、お婆さんとばったり会った。お盆の上に美味しそうなシチューを乗せたお婆さんは私たちを認めると、優しい微笑みを浮かべた。


「あらあら、二人は仲良しさんなのね」

「……? まぁ、相棒なので」


 二人で旅しているのだから仲がいいのは当たり前では。お婆さんのよく分からない言葉に首を傾げながら、ご飯を食べるためにお婆さんについて行った。


 この民宿をやっている老夫婦は私たちと同じルートでオーロラを見に行く人たちを何人も泊めてきたらしく、食事の時に教えてくれた個性豊かな旅人たちの話はなんとも興味を惹かれた。疲れてうつらうつらとしてたスノウはご飯を食べるとすぐに二階に上がってしまったけど、私は老夫婦の話を遅くまで聞いていた。


「いろいろ面白い話ありがとうございました」

「こっちこそ、久々に若い子と話せて楽しかったわ。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 にこやかなおばあさんに一礼してから二階に上がる。部屋のドアを開けると、スノウがベッドの上で規則正しい寝息を立てていた。さらに下着姿で体を丸めるスノウは毛布を掛けておらず寒そうだ。近くで脱ぎ散らかされている服を見ると、ベッドの上で着替えていたところ、途中で寝てしまったのだと予測がつく。ちゃんと歯は磨いたのかとか、ちゃんと服は着た方がいいとか、疲れているせいで身だしなみがちゃんとしていない相棒を注意したいところだけど、すやすやと眠る彼女のあどけない顔を見ていると起こすのが忍びなくなる。


「一日くらいいっか」


 相棒のかわいい顔に負けた私はそうやって自分を納得させ、荷物から歯ブラシを取り出して洗面台で歯磨きをした。そして寝巻に着替えて、私に用意されたベッドから毛布を持ってきてスノウの隣に寝転ぶ。スノウにも毛布を掛けてやって、ぎゅっと抱きしめる。疲れた体はもっと温めた方がいいし、下着で寝てしまって風邪をひくなんてもってのほかだ。


「……雪のにおい」


 基礎体温が低いスノウはほとんど汗をかかない。そのせいかひんやりとしたスノウの肌はほとんど無臭と言っていい。スノウはそういうのに興味ないから確認のしようは無いけど、香水などを付けたらそのままその匂いになると思う。でも、こうやって抱きしめてみるとちゃんとスノウのにおいがする……気がする。確信はない。でも、目を閉じてすうと鼻を利かせると、スノウのにおいがすると確かに思うのだ。そして目を開けてみると、私の腕の中にスノウがいて、心地よさそうに寝息を立てている。


 私しか知らない、私だけが感じられる、スノウのにおい。透明感があって、冷たくて、この手で触れたら消えてしまいそう。雪みたいだ。一か月前に初めて知り、私の命を奪いかけたそれは、私の大切な相棒のにおいに似ていた。そのせいだろうか、初めてこの国に来た時は苦手だと思っていたそれをいつの間にか好きになっていた。


「スノウは消えないでね」


 全てに見捨てられて一度は孤独になった。そんな私を救って、今も隣にいてくれる彼女への願い。いつもは心配をかけないために表には出さない思いは静かな寝室に独り言として消える、はずだった。


「消えないわよ」

「……え」


 いつの間にか目を覚ましていたスノウの手が私の頬に触れる。頬からひんやりとした感触が広がって、スノウの存在を強く伝える。雪のような儚さではなく、切り立った氷山のような絶対的な存在感を感じさせる彼女の体温。それは私の胸にあった不安を消し飛ばしてしまうのに十分な力を持っていた。


「この旅に出る前に約束したでしょ。この世界の綺麗なもの、美味しいもの、楽しいこと、ぜーんぶ知って幸せになろうって。それとも、私が約束を破るような人間だと思ってるの?」

「ううん。……ふふっ、やっぱりスノウのこと好きだな」

「知ってるわよ」


 スノウはそう言って満足そうに微笑むと、私の唇に触れるような優しいキスを落とした。スノウの唇は冷たいはずなのに、ふわふわした感覚になって胸の奥底が温かくなる。大好きな相棒の口づけが大好きだ。

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