淀み(1)

「あー! 君! さっきの!」


 人生で初めて聞いた定番のセリフである。

 やかましい音量で先のセリフを恥ずかしげもなく叫んだのは染石(そめいし)璃乃果(りのか)。僕のクラスメイトであり、僕が昨日から見るようになった不思議な夢である『共有夢』で出会った夢見の一人だ。

 僕が通う維目(いめ)高校への通学路でもある維目駅の駅前、バスロータリーの周辺。登下校の生徒だけじゃなくて出社中のサラリーマンも多いこの場所で、ちょっとした大声を出される気持ちになってみてほしい。恥ずかしいことこの上ないし、僕みたいな小心者にとって大勢からの注目というのは命を削るには充分すぎるほどの威力がある。

 声に驚いて立ち止まってしまった僕は、ガッツリと指で僕を指し示している染石と目が合う。茶髪のサイドテールが元気そうに揺れている。彼女の隣にはクラスメイトの女子が一人。『あじたん』と皆に呼ばれている味吉(あじよし)だ。彼女も相当驚いた顔をしていて、染石の指を辿って僕の姿を見つけた。


「璃乃果、どしたの急に……あれ、九空埜(くからの)くんだ」


「えっ! あじたんの知り合いなの?」


 僕の名前を呼ぶ味吉に対して、染石がまたも驚く。僕も内心で少し驚く。この子が自分の名前を知っているだなんて思っていなかったからだ。味吉は戸惑いながらも小さな声で「ほら、彼、昨日高橋って呼ばれ続けてたじゃん、皆に」と答えた。それから染石は腕を組んで眉をキリリとさせて僕の顔を睨む。


「やば、覚えてない」


 漫画だったら頬に汗でも垂れてそうなシーンだ。昨夜から思っていたけどとても失礼である。でも、無理もないなと僕は心のなかで思い直す。昨日のファミレスで僕はほぼ声を出していないのだから。

 染石は腕組みのまま訝しげに近づいてきて覗き込んでくる。そんな細目で睨まれる筋合いは無いのだが、僕は気圧されて「なんでしょう……?」と下手にご機嫌を伺った。


「なんでしょうってか。会った時にちゃんと名乗れよ。命の恩人だぞ」


 小声だけど、脅すようなトーンで言われた。

 一応、僕はちゃんと名乗ってはいるのである。認識していなかったのはそっちの問題だ。


「あ、はい……すみません」


 でも、だからといって強気には出られないのが僕である。情けない。すると味吉が染石の肩を申し訳無さそうに指先でつつく。


「璃乃果。彼、困ってるみたいだけど……?」


「……んー。……困らせるとか、そういうつもりはないけど」


 染石は『そういうつもり』をたっぷり匂わせたような間を作りながら身を引く。身を引いても僕を咎めるようにじっとりと見てくる。隣の味吉は苦笑い状態だ。いたたまれない。


「あ、っと」


 僕は視界を泳がせる。まだ馴染みのない維目駅前へ目を滑らせていくと、緑とオレンジ色の印象的な看板を見つける。


「コンビニ、寄ってから行くので……」


 一旦の理由をつけて、僕はそそくさとその場を去る。コンビニが目立つ看板を置いているのは僕のような人間に逃げるための言い訳と場所を用意するためでもあるのかもしれないと、このときばかりは本気で思った。


「怖……」


 コンビニへ向かいながら僕は左腕の時計に視線を落とす。登校時間まではまだかなり余裕がある。自分が遅刻ギリギリに登校するタイプじゃなくて良かった。

 それにしても、だ。

 僕は染石の言葉を思い出す。『さっきの』と言っていた。間違いない。僕が見ていた共有夢は本当に他の誰かとつながった夢だったんだ。だとしたら、毎晩染石らと出会う可能性があるということだ。……少し憂鬱である。染石みたいなのはあまり得意な人種ではない。


「困ったな。とても困った」


 これじゃあ安眠できそうにない。



 その日の昼休み、僕は困っていた。

 校風として行事に力を入れる人が多いことは聞いていた。とはいえ、学校のパンフレットには生徒の自主性を重んじるとかいう言葉も泳いでいたのでそこまで真剣に捉えていなかった。やる気がなければ周りに流されて適当に流しておけばいいと思っていたのだ。

 まさか、二日連続で昼休みが体育祭に邪魔されるとは思わなかったのである。


「はーい集合ー!」


 教壇に上がる男子生徒数人。先程声を出していた中心人物はもちろん新木田(しんきだ)である。今日もヤンチャそうなツーブロと笑顔が眩しい。僕は彼と目が合わないように視点を机へ落とした。また『高橋』いじりされたら面倒で仕方がない。……というのは見栄をはった嘘で、クラスの注目を浴びるのが嫌なだけだ。自意識過剰と言われればそれまでだけど、僕にとっては結構重要である。

 どうやら昨日に続いて体育祭に関する相談ごとを進めたいらしい。今回のお話は出場競技の設定だ。体力テストも終わっているので、自分の運動スキルはなんとなく知れている。気にしいの僕にいたってはクラスの大体の平均もわかっている。

 もちろん僕の運動神経は可も不可もなく、である。自分でも驚くべきほどに平均的だ。そこに加えて僕はちょっと鈍くさい。高度なチームプレーも得意ではない。ただし、その他大勢に紛れ込めるような競技は得意。……という有様だ。ちょっと運動に自信のない一般生徒という役柄がぴったりである。

 大縄とか、玉入れとか、綱引きとか、大勢に責任が分散するような競技に潜り込めないかな。

 僕と同じようなことを考えている人も多かろう。その中で望むポジションを手にするのは中々の難易度である。こういう時は希望の競技に名乗りを上げてしまうのが確実なのだろうが、僕はその他大勢のうちの一人。一番槍は絶対に無理だ。


「なあ」


 机を睨んでいると、前方から声。顔を上げれば斜め前の席に座っている男子が振り返ってきていた。爽やかなスポーツ刈りで、精悍な笑顔がよく似合っている。彼の顔を見てから嫌な記憶が舞い戻ってくる。

 こいつ、僕のことを一番最初に――新木田なんかよりも先に――『高橋』って言ってきたやつじゃないか。


「おい、九空埜」


 再度お呼びがかかる。僕の名前を間違えずに覚えていることに免じて返事をする。


「なんでしょう」


 返事をするも、僕は今それどころではない。どうやって『良い感じ』の競技に入り込むか、タイミングと空気を読むのに全力をかけなければならないのだ。ほら、今も染石が黒板に競技の名前を書き始めている。参加希望者を募り始めるに違いないぞ。

 そんな僕の余裕の無さから棘を感じたのだろうか、そいつは屈託ない笑顔に申し訳無さそうな引きつり気味をブレンドしてきた。


「昨日は高橋って間違えちゃって悪かったよ、九空埜。中学のときの仲良い友達と間違えちゃってさ」


 必死に言い訳をしてくるもんで、少しおかしくなってきた。僕は黒板に書かれ始めている競技の項目から目を逸らして、彼の苦い顔に焦点を当てる。


「いや、怒ってないですよ。えっと――」


 僕の斜め前、スポーツ刈りの彼の名前は乙百(おともも)大地(だいち)だ。時折他のクラスから女子が来て「乙百くんカッコイイ」なんて呟いて帰っていくのを何度か見ているからしっかりと覚えている。別に良いけど、僕に何の用なんだろう。彼はいわゆる『一軍』だろうに。


「――乙百くん。昨日のことだったら気にしないでください」


 そう言うと乙百は「ありがとな」と返してくる。それから黒板の方へ手をやる。


「九空埜は競技決めてるのか?」


 僕は「いや、まだ……」とかぶりをふった。もちろん内心では三つに絞っている。大縄、玉入れ、綱引き。このどれかが良い。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼はニコニコと続けてきた。


「じゃあさ、俺と一緒に二人三脚に出ないか?」

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