第35話 神薙塔矢④-5

 屋上に着いた頃には、日も徐々に沈みかけていて、橘が言うところのムードというものが出来始めていた。橘、遠藤、日渡の三人は既に屋上にいて、風船の入っていた段ボールを屋上の中心へと運んでくれていた。


「はい、神薙君。これ、先生から借りてきたから」

 

 そう言って橘が手渡してきたのは、拡声器だった。屋上から地上の一年生たちに開始のアナウンスをするのに地声では辛いだろう、という橘の配慮だった。本当にこいつは何から何まで。完璧すぎやしないか?


「あのさ、橘。ちょっと、ついて来てくれ」


 俺は橘を連れて、屋上の端へ向かった。日渡と遠藤には声が届かないであろう場所まで行ってから、橘へ言葉を伝える。


「告白してくれた日、何も考えずに返事をしてしまったから、申し訳なくて。あれから、ちゃんと考えたんだ」


「――え? ああ、うん。ちゃんと考えてくれたのはすごく嬉しいんだけど、え、え、待って待って。もしかして私、もう一回振られないといけないの? 

私のメンタル、超合金とかじゃないからね?」


 確かに言われてみれば、もう一度はっきりと言葉にして伝えるのは、橘にとっては酷な話か。自分の中のけじめみたいなつもりでいたが、相手のことを考えていなかった。自分のことで精一杯で、なんていう都合の良い言い訳を言ったところで、誰も納得なんてしないだろう。


 俺はどれだけやらかしたら気が済むんだ。


「――もう、はいはい。分かった分かった、分かったからそんなに険しい顔しないでよ。不器用な神薙君に付き合ってあげる。一回でも二回でも三回でも、振られてあげるから」


「まじでごめん。俺、橘に迷惑かけてばっかりだな」


「そう思うなら、ちゃんと向き合ってあげてね。私が誰の親友か、知ってるでしょ?」


 一度深く息を吐いて、新鮮な空気を肺一杯に吸い込む。そして、また強く息を吐き出す。


 何度か繰り返して、強張っていた身体と口が徐々に緩みだしたのを感じて、俺は言った。


「ごめん、橘。俺はお前とは付き合えない。俺は――日渡のことが好きなんだ」


「――ん」


 橘は小さく返事をして、それ以上言葉を発さなかった。もしかして泣いているのだろうかと思って顔を覗き込んでみたが、涙のかけらも見えず、橘は微笑みながら、済んだ瞳で遠くを眺めていた。


 橘は何を考えているのだろう。そう思っていると、背後がやけに騒がしくなった。協力をお願いしていたクラスメイトたちが、続々と屋上にやって来てくれたようだ。


「――よし!」


 唐突に叫ぶ橘。俺は身体をびくっとさせて、橘を見やる。


「何を呆けた顔してんの! さあ、始まるよ!」


 橘は俺の手を握り、俺の身体を引っ張りながら屋上の中心へと向かった。今まで一度も握り合ったことのない柔らかく、小さなか弱い手。好きだった相手の手を躊躇なく握り、その相手の想い人がいる場所へと、見せつけるかのようにして向かっていく。


 それはまるで。神薙塔矢という男を好きだった橘花音が、そんな自分と決別する決心を表しているかのようだった。

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