第24話 神薙塔矢③-3

 懐かしい。小さい頃は彼女があの動作をし出すと、決まって大きすぎる声量で俺の名前を呼んできたっけ。俺はそれがとても嬉しくて、顔には何とかでないように仏頂面で返事をしていた。


 でも今は。どれだけ待っても、彼女が俺の名前を呼んでくれることはない。俺は、それだけのことを彼女にしたのだから。


 遠ざけたのは俺。傷つけたのは俺。彼女を否定したのは俺だ。思えば思うほどに膨れ上がる罪悪感と恐怖心。化け物は更に強くなって、俺を抑えつけてくる。


――だが。それでも俺は。日渡のあの姿を見て、黙って抑えつけられたままだというのか? 何時も俺の名前を呼んでくれた彼女に、苦しい思いをさせたまま見過ごすつもりなのか?


 化け物の力が、どんどん増してくる。頭すらも上がらない。あの時生まれた亀裂を、塞ぐことは出来ないだろうが、それでも、彼女に一言だけ。彼女に向けて発することなんて出来ないけど、机に向かって発することになるけど、歩み寄ろうとしてくれている日渡に――伝えたい。


「無理……しなくてもいいと思う」


 なんとか振り絞って出した声は、異常なほどに上擦っていた。自分でも聞いたことのない声が教室内に響いて、追い打ちをかけるかのように辱めてくる。今すぐ立ち上がって、この場から逃げ出したい。まあ、さすがに手伝ってくれている日渡を残して出て行く、なんてことは出来ないが。


「そっちこそ」


 段ボールの向こう側から、日渡は微笑を漏らしながらそう言った。俺の緊張を感じとって、おかしくなったのだろう。ああ、やっぱり逃げ出してしまおうか。


 などと。そんなことを思っていると、頬のあたりに違和感があるのに気が付いた。どうやら俺の口角が、自然と上がっていたようだ。十年ぶりくらいの、日渡との会話。脳がそれを理解する前に、身体が反応していた。


 そこから会話が続くことはなかったけど、俺の耳に届く音の数が減ったところをみると、日渡のそわそわした動きは止まったようだ。今の俺には、彼女から気遣いを受ける資格などない。なんとか声をかけようと、懸命に言葉を探してそわそわしてもらう資格などないんだ――あの時の謝罪をするまでは。


「――あ」


 唐突に、日渡が声を発した。再び彼女の方に目を向けると、何やら段ボールの中を探っている。


「マジック、貰ってくるね」


「――ん」


 言葉にはならない声を出して、日渡に返答する。まさか普通に声をかけてくるとは思わなかった。さっきまであんなにそわそわしていたのに、なんで今は平気で声をかけてくるんだ。


…………まさか、許されたのか?


 俺は、背を向けて出て行く彼女を見ながらそんなことを思った。思って、彼女が出て行ってから数分経って自分を殴りたくなった。何も伝えていないのに、許されるわけがない。


 もしも日渡が、小さい頃の仲直りと同じように、これまでのことをなかったことにしてくれようとしているのだとしても、それは俺が許してはいけない。あんな顔をさせてしまった彼女を、うやむやの中に溶け込ませてはいけない。


 もし、そうしたいのなら。これからも逃げ続けるべきだ。日渡に近づくことなく、彼女が俺なんかのことを忘れてしまうぐらいに遠くへ遠くへ逃げ続けるべきなんだ。


 だけどもし。彼女に近づきたいのなら――。


「あれ? 神薙君、一人?」

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