第11話 初日は誰だって辛い 会社編②

「ごめんなさい。お名前、なんでしたっけ」


 ほんのり青みがかった黒髪をゆるりと後ろで束ねる、目元を除けば美人と言える女性。


 朝日奈さんは無感情に尋ねてくる。前から暗めの子ではあったが、より怖かった。人を寄せつけない目つきだ。


「あ、天宮伊月です……。朝日奈巡先輩、ですよね?」

「そう。朝日奈。伊月さんって言うんだ……」


 名前を聞くと、朝日奈さんの足が真っ直ぐこちらに向く。やはり同じ名前はリスキーだったかもしれない。


「何の用ですか? 私見ての通りなので、話しかけてもいいことないですよ」

 

 朝日奈さんは自虐を込めて笑っていた。

 

 自分の仕事を効率よく片づけ、誰よりも早く退社する。根暗でぼっちで近寄りがたい、関わってもいいことがないと。そう言いたいらしい。


「そんなことないですって。部署に女子は私たちだけですし、仲良くしていただけるとありがたいです」

「私はしませんよ。意味ないので。それでは」


 検討すらしてくれなかった。また朝日奈さんは早足で帰ろうとする。

 

 果てしなく嫌な顔されそうだし、あの目に睨まれたたら足が震えそうだけど。ここで黙って見送る。ことは、できそうになかったし、したくなかった。


「ま、ままま待ってください!」


 噛んだ。噛んでイントネーションもぐちゃぐちゃだった。朝日奈さんの無を貫く視線が痛い……。


「まだ何か?」

「あ、あのー……。飲みに! 行きませんか!」



          ✳︎



 ブラック会社勤務で月曜から飲みに誘うとか、ありえない。翌日死ぬだろうが。僕もそう思っていました。


 でも大人になると気軽な誘い文句がこれしかない。そして意外なことに、朝日奈さんは了承してくれた。


「すいません……。勢いで言ってしまって……」

「別に構いませんよ」


 グラスを優雅に口へ運ぶ朝日奈さんは、バーの照明の暗さで一際魅力が強まっていた。夜の女王とでも言おうか、俺が大人になりたての頃だったら一目惚れしていた。


「天宮さんは、積極的な人ですね。私に話しかける人なんて、世界に二人くらいしかいません」


 その二人に心当たりしかなかった。どちらも名前は「伊月」だ。


「どんな人なんですか? とか聞かないんです?」

「……聞かないです」

「凄く優秀な人だったんですよ」


 聞かないって言ったのに勝手に話し出した。


「朝日奈さん。もしかしてもう酔ってます?」

「酔ってません」


 酔っていた。朝日奈さんお酒には強かったはずだが、酔うと喋り方が投げやりになる。


「すっごく優秀で、優しくて、私なんかに気遣ってもくれて。ずっと見てたんです、私。あの人は周りをよく見て、助けてくれる。でも自分ばっかり大変なことしていたから、私心配で……」


 ここまで饒舌な朝日奈さんを初めて見たな。

 複雑だ。褒められて嬉しくもあり、そんな心配をさせていたことと、これを聞いてしまっていることが申し訳なくもある。


「だから私頑張ったんです。高宮先輩の力に。なれなくても。せめて手を煩わせないようにって頑張ったんです」


 それは知っている。だって朝日奈さん、社会人始めてまだ二年しか経っていない。それで一番に帰れる技量とメンタルを持っているんだから。俺よりよっぽど優秀。


「なのに急にいなくなっちゃって……。私が悪いんです……。私が、告白なんてしたから……」


 雫が一粒、朝日奈さんの頬を伝っていた。


「朝日奈さん、その……」


 碌な返事もできなかった俺が、なんて言ったらいいのか。わから——


「なっ!?」


 朝日奈さんに思いっきり抱きつかれていた。む、胸と胸が……!


「ちょっ、朝日奈さん、流石に酔いすぎじゃないですか!?」

「酔ってないもん。毎日いっぱいお酒飲んでるだけだもん」

「どう考えてもそれですよ!」

「なんでもいいから慰めてえ!」


 俺の知ってる朝日奈さんはもっとクールだったはずなのに。キャラが定まらない!


「ん……」


 抱きしめるだけに飽き足らず、朝日奈さんの唇が迫ってくる。

 もう駄目だ、初めてが奪われる……! ことはなかった。

 

「あの……」

「撫でてください」


 脱力した朝日奈さんの顔が胸元に埋まる。戸惑いつつ、ご所望なので撫でてはみた。


「ごめんなさい。新人さん、しかも歳上にこんな絡みしちゃって……」


 朝日奈さんは「ごめんなさい」を連呼する。


 澱んだ目元とよろよろでおぼつかない足取り。そしてこの乱れよう。やっぱり今日声をかけてよかった。


「朝日奈さん、よく聞いてください」

「……聞いてます」

「ちゃんと休みなさい」


 突如朝日奈さんが顔を上げる。


「……高宮先輩」


 一瞬ドキッとした。蕩けた瞳で、確信したように言うから。


「……私は天宮です。いいですか朝日奈さん。明日は休みましょう。お酒も飲んじゃ駄目です」

「それは無理! 私変で印象最悪だから今の会社しか採ってもらえなかった……。クビになったら働けなくなる……! お酒はもっと無理! 高宮先輩ばっか思い出して無理……」


 ゆっさゆっさと、朝日奈さんは俺を揺すりながら必死に訴えてくる。

 そういえばそうだった。朝日奈さんはどうしてか休みを悪と捉えている節があった。


「いいから休んでください。その高宮先輩も言ってませんでしたか? 無理して身体を壊されるほうが迷惑だって」

「……言ってた。でも明日の仕事が」

「それはなんとかします。……山田さんが」

「でも……!」

「朝日奈さん」


 言うか迷った。でも過去あの告白と向き合わなかったせいでこうなっているから。後で後悔する選択はやっぱりなしだ。

 それに今は女の子。本人だってされたがっているんだから。許される、ということにしておこう。


「よく頑張りました」

「……天宮さん……!」

 

 頭を撫でながら慰めたら、朝日奈さんは感動のあまり再び胸に飛びつき、


「ごめんなさゔっ!」


 俺の胸にぶっかけていた。


「あ、あさ……、朝日奈さん…………!」


 絶叫しかける俺の服の中にまで液体が入り込んでいく。酒の混じった鼻を突く臭いと、生命を感じる温かさ。これが朝日奈さんだと、強烈に脳に刻まれていく。


 朝日奈さんは暫く汚声と液体を出し続け、止まったと思ったらすっきりとした顔つきでこう言った。


「今度は高宮しぇんぱいに出したい……」


 こっちは引き攣り笑いしか出ないっていうのに。


 そこにあるのは過去一、というか初めて見た。歪んだ朝日奈さんの笑顔。朝日奈さんが新たなフェチに目覚めた瞬間だった。


 ……マジで勘弁してくれ。

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