閑話 四月までのあれこれそれこれ

 これはまだヒヨリが来たばかりのとき。


「高宮。まずは常識から教えましょう」


 依川のもっともな提案。隣でおにぎりを頬張るヒヨリにまずは教えなきゃだった。


 外に連れ出すのが手っ取り早いとヒヨリと散歩するようになった。


「高宮。これはなんだ」

「信号機。いいか? 青が渡れで赤が止まれだからな」

「高宮。これはみどり」

「ヒヨリ。青と言えばそれは青なんだ」

「……人間は不自由だな」


 少し歩けば質問が飛んでくる。


「高宮。あれはなんだ」

「車だな」

「じゃああれは?」

「コンビニ」

「あれは?」

「猫」

「あれは?」

「カラス」

「あれは?」

「熊……、熊!?」

「あれは?」

「カップルの痴話喧嘩」

「あれは?」

「立ちションするおっさん!」


 エルフの興味は当分つきないようだった。



          ✳︎



 これはヒヨリが来てから少し経ったとき。


 食事マナー講習の時間がやってきた。


「いいかヒヨリ。箸の持ち方は、こう」


 実際にやってみせて、それからヒヨリにやってもらう。ぎこちないけど、初めてにしては上手かった。


「難しいのね。本当にこれで食べられるの?」

「使えれば大抵なんでも食える。ほら」


 弁当のたくあんを掴んでみせる。ヒヨリはあからさまに感動していた。


「私もそれくらい……」


 謎の対抗意識でたくあんを掴んでみるも、落ちる。ちょっとお手を拝借して、ヒヨリでも掴めるように補助をしてみた。


「お、おお……! 掴めてるぞ高宮!」

「ほぼ俺が持ってるからな。ヒヨリ、変に力まないで、指を使って」


 手取り手取り教える。その横で、


「いつまでいちゃいちゃしてんのよ」


 依川が寝っ転がりながら素手でたくあんをかじっていた。



          ✳︎



 これはヒヨリと依川が初めて会ったとき。


 俺は絶体絶命の状況に追い込まれていた。


 トイレだ。尿意を催している。買い物に行く前に済ませたいが、女子のトイレの仕方なんてわからなかった。


 そんな、難しいことはないはず。座ってするだけ。


 下を脱いで、複雑だった。ついてない。ついてないけど、穴はある。男の尊厳と性欲。果たして今の自分は何なのか。足りない頭で哲学ごっこをしかけたところで、どうでもよくなった。


 すっきりー……。


 トイレから出ると、期待を裏切らない。依川が待ち構えている。


「高宮。感想は?」

「…………」

「……ちゃんと拭いた?」

「拭いたわ!」


 下品極まりなかった。



          ✳︎



 これはマナー講習のとき。


 「というわけで! 二人には淑女の心得を学んでもらいます!」


 依川はハイテンションだった。謎に仕切りたがっているから任せよう。疲れるからこのノリは付き合わないけど。


「まずは座学から! 問題です。クラス、または同僚の女子に『◯◯さんって可愛いよねー。眼鏡とか個性的でめっちゃいい感じ笑』と言われました。これはどういった意図で言っているでしょう」

「はい」

「はいヒヨリさん!」

「簡単ね。その女子も眼鏡をかけたかったのよ」

「違います! 正解は『うわ、眼鏡ブッス。高校生でこれとか何して生きてきたんだよ』です!」

「お、恐ろしい………!」


 なんだこれ。絶対依川の体験談だろ。ヒヨリもヒヨリでノリがいいのか、素でこんな良さげな反応してくれているのかよくわからない。


「では次の問題です! ある日突然校内一イケメンの男子が話しかけてきました。当然周りの目につきます。さて、この状況からすべきこととはなんでしょう」

「はい」

「はいヒヨリさん!」

「これも簡単ね。顔がいいってだけのゴミみたいな自信で話しかけるなと忠告ついでにひれ伏させればいいのよ」

「ちがーう! 正解は『え? 私のこと好きなの?』みたいな勘違いをせずにやんわりと角が立たないように早めに話を切り上げ終わったらきゃぴきゃぴした女子たちに目をつけられないようモブ女子としての振る舞いに注力すること! です! ヒヨリちゃんそれ絶対やっちゃ駄目だからね!?」

「なんてこと。人間って聞いてた以上に面倒なのね……!」


 おっそろしい早口だった。そして毎度ヒヨリがいいリアクションをする。


「では次の問題です!」


 まだ続くのかよ。


「こういう未だ割り切れない過去と、どう向き合えばいいでしょう…………」

「いきなり重いわ! 温度差についてけない!」

「ないす突っ込み高宮君。それだけで私は救われる……」


 依川が天に召されかけていた。

 こいつ、俺が知ってる以上に色々あったんだろうな……。でも女神の元へ逝くのはまだ早い。



          ✳︎



 これは夕飯の買い出しのとき。


「高宮、ここは天国か……?」

「ただのスーパーです」

「魚が切身。野菜や肉も。レトルトなる便利なものまで……! 元の世界にもほしかった」

「まあ改めて考えれば便利ではあるよな」


 もし異世界に転生していたらどれほど過酷だっただろうか。日和の興奮具合からして、現代日本人が生きていける環境ではない気がする。


「こらそこ。お菓子を入れない。戻してきなさい」

「高宮、器が小さいわよ」

「お前はエルフのくせして姑息だぞ」

「……仕方ないわね」


 戻してくるふりをして、元エルフさんは器用に別のお菓子を入れていた。



          ✳︎



 これはお風呂上がりのとき。


「こらそこ! 全裸で出てこない!」


 依川先生は男時代の習慣を一切許さなかった。


「べつによくないか? お前らが俺の裸見る分には問題ないだろ」

「そういう意識の低さが命取りなのよ」


 依川に渡されてナイトブラとやらをつける。この動作には正直興奮した。女の子っぽくて。


「伊月ちゃん。顔がにやけてる」

「……いちいち言うな」

「なんならこっちも」

「どっから出した!?」


 透け透けの下着がその手に握られていた。


「持参しました」

「早くしまって!? 見たくない!」

「そう言わずに。これも嗜みの一つだから」


 迫り来る下着。そんな狂った依川の後ろで、ヒヨリは雑誌を読んで勉強していた。


「なるほど。この世界はハラスメントと言えば大抵なんとかなるのね。……これは。セクハラかしら」


 依川の首がこきりと、標的がヒヨリに変わる。


「ヒヨリちゃん。本物のセクハラってやつを見せてあげる!」


 飛びかかる依川は。


 ひっくり返って魔法一発で沈められていた。



          ✳︎



 これは四月手前、今から寝ようというとき。


「高宮。さりなから聞いたのだけれど。男の人は胸の中で寝るのが夢って本当?」

「あいつ余計なこと教えるの好きだよな」

「どうなの? 好きなの?」

「嫌いな男はいないと思う」


 横になって向かい合う日和は腕を広げた。


「来なさい。拒否権はないわ」

「やだよ。拒否権あるよ」

「じゃあ、私がそっちに行くのはありかしら」

「それは……。あり、なのか?」

「ありよ」


 ぽすりと胸に日和の顔が収まる。自分の胸ならどうなってもいいと思ったが、これはやっぱり。


「なしだな。見た目上はいいけど、俺の心臓がもたない」

「私はとても良い気分よ。今日はこれで寝ましょう」


 離そうと日和の肩を掴んでも、しがみついてびくともしなかった。


「撫でなさい」

「話聞いてた? 俺の心臓の音聞こえてるよね?」

「たまには良いと思うの」


 甘えん坊の元エルフさんだった。そんな子供みたいにねだられたら、撫でるしかなかった。


 この関係がいつまで続くか知らないけど。仕事頑張ろう。




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