第4話 ベーコンエッグパンケーキ

 お店に入るとまず、甘い匂いがした。

 お菓子の強い甘さじゃない。そう、肉の脂、豚肉……ベーコンの焼ける匂い。

「いらっしゃいませ」

 若い男性がカウンターから出てくる。私の息子よりも若い、すらりとした格好のいい若い男性だけれど、物腰はとても落ち着いている。その足元に、ちゃかちゃか、と爪を鳴らしてふんわりと丸い犬が現れた。

「あらかわいい。ペキニーズかしら?」

 口にしてから、少し違うわね、と思った。目の位置なんかはペキニーズみたいだけれど、鼻が違う。店員さんも首を振った。

「いえ、犬種はわからないんです。ペキニーズも混じっているだろうという話ですが」

「かわいいのねえ。おとなしいわ。よしよし」

 飼うのなら犬種によって違いはあっても、可愛がるだけなら同じことだった。茶色いふわふわのこの犬は、人に自分からわっと寄ってくることもないけれど、撫でられるとまんざらでもない、という態度で、とってもかわいい。人が好きなのだろう。きっと、ずっと可愛がられて育った犬なのだ。

 子供たちが小さいときには犬を飼っていた。迷い犬の雑種。犬はそれほど好きではなかったけれど、飼っているうちに可愛くてたまらなくなり、犬種にも詳しくなった。でももう、亡くなってしまった。犬は十七歳で亡くなった。あの子をほしいほしいと訴えた娘と息子も独立した。子供たちは私と夫を必死で説得したけれど、もちろん学校や遊びで忙しくなり、朝夕の散歩は私の仕事になった。土日には家族みんなで公園に行ったりもして……。いけない。ぱちぱちと瞬きをして、立ち上がる。

 手を洗わせてもらってカウンターの席に座る。お店はこぢんまりとしているけれどカウンターは三席しかないとは言え広々としていて、椅子も私のようなおばちゃんにも高くなくてちょうどよかった。居心地のいいお店。

 こんなお店があったなんて。

 今日昨日できたとは思えない落ち着きようなのに、ちっとも知らなかった。このところ子供たちに少しでも外に出るようにと勧められて散歩をしているのに、こんなに近くにあるお店のことも知らない。一歩一歩ちゃんと歩いているようで、いろんなものを見逃している。

 メニューを見ると、『本日のごはん』のところに『ベーコンエッグパンケーキ』とあった。お店に入ったときのいい匂いの正体。軽くお茶を、と思っていたのに、ふと、その字から目が離せなくなってしまう。

「お悩みですか?」

「あら、いえね、ベーコンエッグパンケーキが美味しそうかなと思ったんですけども」

「はい。こちらパンケーキは二枚ですが、一枚でおつくりすることもできますよ」

 確かに食が細くなっているので、ありがたい申し出だった。今は六時前。どうせ家に帰っても冷凍食品か麺類か、作り置きのおかずを一人で食べるだけなので、夕飯として食べてしまってもいい。どうせ、一人なのだ。ぱちぱち。瞬きをする。

 勧められたら断りにくい。そう自分に言い訳をして、ことさらに明るい声を出してみた。

「じゃあ、こちらでお願いします。パンケーキは一枚で」

「はい。かしこまりました」

 カウンターの下の犬用ベッドで、ふわふわの犬が寝転がって、退屈そうにぱたぱたと丸い尻尾を揺らしている。ベッドにはよく見ると『MOKAMOKA』と刺繍があった。

「あなた、もかもかって言うの?」

 つい尋ねると、ちら、とこちらを見上げて、そうですよ、と言うように尻尾を振った。ふてぶてしい風情が、やはり可愛い。

「もかもかちゃん。もかもかちゃん」

 呼びかけると、いかにもその名前がしっくりきた。カウンターからは、扉を開けたときに一瞬嗅いだあの甘い匂いがもっと鮮明になって漂ってくる。油の跳ねる音。自分のための料理ができる音って、素敵だ。

「美味しそうねえ、もかもかちゃん」

 ひくひく、と黒い小さな鼻をうごめかせるもかもかちゃんに話しかけると、そうですねえ、と言うふうに尻尾が動く。真正面から相手をしてくれるわけでもなく、でも無視をするわけでもない。ある程度意思の通じる動物との会話って、とても気楽だった。

 おなかが空きましたねえ。そろそろ散歩に行きましょうか。我が家に犬がいたころも、そうやって、いつも話しかけていた。白っぽい茶色の短い毛がみっしり生えていた。大人しく、撫でられるのが好きな犬だった。私が撫でていると、いつの間にか夫の手も犬に伸びていて、二人で撫でていた。夫はいつまで経っても、犬を撫でるさまがぎこちなかった。

 泣いたってしょうがないだろう。

 あの子が亡くなったとき。泣きそうになっている私に、困り切った顔でそう言った。そして、ぎこちなく痩せてしまったつめたい背中を、いつまででも撫でていた。そんなの、あなただって泣いているのと同じよと私は思った。

 いけない。

 ぱちぱち、と、瞬きをした。そうすると、涙が引っ込む。

「お待たせしました」

 今風の大きな真っ白いお皿に載ったベーコンエッグパンケーキがやってきた。小さなポットのようなものも。

「こちらはメープルシロップです。お好みでどうぞ」

 美味しそう、と頼んだけれど、いざ目の前にすると驚いた。量が多い。それと、

「なんだか、朝の食べ物みたいね」

 文句をつけてしまったみたいで慌てるけれど、店員さんは感じよく頷いた。

「そうですね。朝の食べ物かもしれません。でも、朝の食べ物を夜に食べると、」

 そこで、ほんの少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。

「楽しいですよ」

 ぽかんとする私に、

「ごゆっくり」

 とカウンターの中に下がった。

 楽しいですよ。

 私はナイフとフォークを取って、目の前のパンケーキを食べだした。薄いベーコンは脂身を透けさせて、フリルのように波打っている。目玉焼きは見事な半熟。濃いオレンジの黄身がつやつやとして、ナイフを入れるととろりとソースになって溢れるけれど、お皿にべったり流れ出ることはない。パンケーキは薄くふんわりとしていて、ベーコンの塩気とも卵の濃厚さともちょうどよかった。

 しょっぱいものに甘いシロップなんて、といういつもの保守的な好みは一旦置いて、たっぷりとシロップを掛けた。朝の食べ物を夕方に食べてるんだもの、いいじゃない。しょっぱいベーコンにこくのある甘さのメープルシロップは、とても美味しい。

 楽しいわ。

 こんなに食べられないかも、と思っていたのに、ぺろりと食べてしまった。お皿についたシロップをパンケーキの最後のひとかけらで拭って、口に入れる。お腹がいっぱいだった。夫が亡くなってから、ずっとお腹がいっぱいになることなんかなかった。

 朝からよく食べるね。

 結婚したばかりの頃、夫はそう言った。そうなのよ、と私が笑うと、いいことだよ、と夫も笑った。

 あなたはいつも楽しそうでいい。

 澄ました顔で笑ったけれど、本当はあのとき、私は泣きたかったのかもしれない。そんなことを言ってもらえたのが嬉しくて、嬉しくて。結婚したばかりの穏やかでハンサムな男の人のことが、私は大好きだったから。

 犬が死んで、子供たちが去って、夫が亡くなって。独りぼっちで。でも、世界にはいくらでも楽しいことがある。散歩をして、可愛い犬を撫でて、朝の食べ物を夕方に食べて。そんなことができるほど今の私は自由で、楽しくて。それが、たまらなく寂しくて。でも、そうやって、生きていかなくてはいけないのだ。世界に散らばっている楽しさを、自分で拾い集めて、そうやって生きていくのだ。もう、何をしたっていい。寂しいけれど、なんでもして、なんでも食べて、生きていくしかない。

 涙が零れた。もう瞬きはせず、涙が零れるのに任せた。泣いたっていいのだ。世界で一番好きな人を失ったのだから、好きなだけ泣いたっていいのだ。あなたが困ったって、もう知るもんか。

 滲んだ視界の中で、もかもかちゃんがふわふわと私の足元にやってきて、丸くなった。

 そして泣き止むまでずっと、そこにいてくれた。

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