第3話 紅茶のかき氷

 暑い。

 スカートのポケットから出したタオルハンカチで額を抑える。夕方になってもまだまだ暑い。散歩に向いた天気ではない。でも散歩の成功体験に引きずられて外に出てきてしまった。ぐるぐる家の近所を歩き回っている。近所と言っても、普段は通らない道がたくさんあって、一本入れば知らない風景。そういうものに浸りたいけれど、焦りと暑さでうまくいかない。喉が渇いた。何か飲みたい。

 ちょうど看板が目に入った。『喫茶もかもか』。とにかく足を休めたくてそちらに行く。小さな、一見民家のような喫茶店。

「いらっしゃいませ」

 涼し気な声だ。中はちょうどいい涼しさだ。店員らしき若い男性と、足元にふわふわの犬。ちょうどトリミングしたばかりのような丸っこいサマーカットが可愛らしい。

 カウンター席に座ると、メニューと水を出してもらった。つめたい水を一息に飲む。カウンターの下には犬用のベッドがあり、ふわふわのサマーカットちゃんはそこに横になっている。暑くてしかたがない、と拗ねている様子だ。とても可愛い。

 冷たい飲み物だけを頼むつもりが、メニューに気になる文字があった。

「かき氷……」

 『紅茶のかき氷』というメニューがあった。

「少し早いですが、そろそろ暑くなってきましたので」

 カウンターの中から店員さんが言う。

「じゃあ、それでお願いします」

 するっと口から滑り落ちるように頼んでから、かき氷、食べたいのか、と自分で驚いた。まだ五月で、かき氷、という言葉を頭に思い浮かべたこともなかった。そもそも、大人になってからもかき氷を食べる機会もほぼなかった。流行りの大きくて華やかなかき氷を見て、悪感情を持つわけではもちろんないけど、すごいな、と、ただ他人事として見ていた。でも、おいしそうとは思っていた。食べたかったらしい。

 しゃあ、と、キッチンで氷が削れる音がした。機械で削っているらしい。音だけで涼しくなる。

 こんなことしてる暇、あるのかな。

 氷の削れる音、かき氷、という言葉、全てが楽し気だから、気持ちの表面は浮かれるけど、心の奥が気になってくる。

 そもそも、散歩に出たのは小説に行き詰ったからだった。私は小説家だ。兼業作家。デビューして何年か経っているけれど、小説家としては売れていない。今は雑誌に載る連作短編の三作目を書いている。これまでの二作とは傾向を少し変えたいけれど、最終話に向けて話も進めたい。プロットのアイディアを編集者に話しても、あまりいい顔はしてもらえなかった。

 悪くはないんですけど。

 腹は立たなかった。私もそう思う。悪くはない。でもよくもない。でもそれが私なんじゃないかと思うとこわくなった。悪くもよくもないものを、小手先でなんとかするような小説家。頑張って新人賞を突破して頑張って会社員と両立してやってきて、そういう小説家にしかなれなかったのかもしれない。それが怖い。なんとかして、いいものを思いつきたい。少なくとも、これが私はいいと思う、と胸を張れるものを。

「どうぞ」

 険しい顔で考え込んでいると、かき氷が目の前に置かれてびっくりした。お盆の上に平皿、さらにその上にお椀。お椀に盛られたかき氷はこんもりと丸く、想像していた以上に大きい。濃い茶色の氷の上に、少し淡い茶色のクリーム。その上に何か砕かれた焼き菓子のようなものとナッツが散っている。

「紅茶のかき氷です。中にはクリームとオレンジのコンフィチュールが入っています」

 すごい。見慣れない物質にちょっと戸惑う。

「溶けないうちにどうぞ」

 そうか。早めに食べなくちゃ。その言葉にふらふらと操られるようにスプーンに握って、いかにも柔らかそうな氷に、そうっとスプーンを差し入れた。お椀の下に平皿があるのは氷が零れたときのためか、と納得する。

 上に載っているのは焼きメレンゲだった。とろりとしたクリームにさらりと軽い氷と、サクサクのメレンゲとカリカリのナッツの食感の違いが面白い。メレンゲも紅茶の風味が微かにする。氷のシロップが一番紅茶の香りと味が濃く、クリームは少し滑らかに和らげられていて、メレンゲは香ばしさが加わっている。一度に食べるとまた違う味になる。

 最初は大きさに怯んだけれど、氷がとても軽くて、頭の芯や胃腸にキン、と冷えが届く前に口のなかでふわっと溶けてしまう。その分もちろん食べる前から溶けやすく、スプーンをひと匙入れるたびに氷が柔らかくなっていくのを感じる。儚い食べ物だ。時間に追われるように、おいしさに急かされるように食べていくと、言われていたクリームとコンフィチュールにたどり着いた。上にかかっていたものよりも硬いクリームに皮ごと煮込まれたコンフィチュールが混じっている。溶けかけた紅茶の氷と混ぜて、クリームの新鮮な甘さとコンフィチュールの酸味と苦みを味わう。食べすすめるにつれて味が変わっていく。なんて楽しい食べ物だろう。行儀はわるいけれど、最後にお椀を持って溶け残ったシロップを飲んだ。

 美味しかった。

 はあ、とため息をついた。少し寒い。お腹の中も冷えている。夢中で食べていた。かき氷って、自分のことを忘れる。かき氷のことだけ考えないと、どんどん溶けて行ってしまうから。

「お茶をどうぞ。和紅茶です」

 小さな湯呑で出されたお茶で、体の中を温めた。指先を湯呑に触れて温めていると、小説のことを思い出した。かき氷を食べているときは遠ざかっていたものを、改めて手元に持ってきて、よく見てみる。

 あ、こうすればいいんだ。

 主人公とほとんど出てこないはずのあるキャラクターの共通点を見つける。ここから発展させれば……うん。いけそうだ。

 少なくとも、私はいいと思う。それが一番大切だ。

 ぐい、とお茶を飲みほす。家に帰ってパソコンを開きたい。頭の中にあるものを、早く文字にしてみたい。そう。それが楽しいのだ。自分の頭の中だけにあったものが、文字になってこの世にあらわれることが。いろいろあっても、楽しいからやっているのだ。忘れたくない。

 立ち上がると、足元でサマーカットで丸っこいフォルムの尻尾が、ぱたぱたと揺れた。よかったね、と言うように。なんとも呑気だ。

 また何かに詰まったら、ここに来よう。私がどんなに焦っても、この場所はずっと、焦りとは無縁でいてくれる気がした。

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