第2話 レッドベルベットケーキ

 なんかうまくいかなかったな。

 考えることが多すぎて、ふわふわぐちゃぐちゃした頭の中に、すとん、とその言葉が降ってきて、う、と、足が止まった。お気に入りの紺色のバレエシューズ。チェックのボリュームのあるワンピースを合わせた。髪もきれいに巻いてハーフアップにして、爪もきれいに塗った。完璧に可愛い私、のつもりだったけど、あんまり反応はよくなかった。自分の好みが男の子受けしないのは知ってるけど、でも、先輩は気に入ってくれる気がしてた。本の趣味だって、映画の趣味だって一緒だし、何より、先輩が完璧に私好みだから。

 美術館に誘われて嬉しかった。ちょうど行きたかった展示だったし。でも、なんか、盛り上がらなかった。いつも大学で会うときみたいに言葉のひとつひとつが相手の心にちゃんと当たる感じがしなかった。うわべやのりであるふりをしているところじゃなくて、心の、ちゃんと実体のある部分に、ひとつひとつが当たる。そういう会話を先輩とは出来ているつもりだったのに。あれも、大学っていう場所で、先輩後輩っていう立場が作り出したものだったのかもしれない。当たってるふりして、本当はそういうゲームをしていただけ。本当に二人になってみると、何も起こらない。

 やだな。

 ため息をつく。これからどうしよう。一人になったら余計落ち込みそうだけど、誰かと話したくはない。先輩と私のことを、まだ誰かに話題として提供できるほど手放せなかった。

 ふと足元を見ると、看板があった。

『喫茶もかもか』

 このへんはいつも素通りしていたのでこんな看板があるとは知らなかった。コーヒーでも飲んで落ち着くのもいいかもしれない。看板の案内の通りに細い道を入って、民家のようなお店にたどり着く。普段なら入りにくいと感じるような佇まいだけど、誘われるみたいに自然にドアを開いた。

「いらっしゃいませ」

 出迎えてくれたのはまだ若い男の人。こぢんまりとした、親しみがあって、でもほどほどによそよそしい空間。なんだか、ちょうどいいな、と思った。他にお客さんはいない。ちゃかちゃかという軽い音を立てて、ふわふわの茶色い犬がカウンターから出てきた。くりくりとした黒い目が私を見上げている。

「かわいい。触ってもいいですか?」

「ええ。人間が好きなんです」

 実家のポメラニアンを思い出してつい訊いてしまった。許可をもらったので背中をそっと撫でる。ふわふわだ。人間が好き、と言われた犬は、嫌がるわけでもなく、かといって大喜びするわけでもなく、申し訳程度に私の匂いを嗅ぎ、ゆっくりと撫でられてくれる。撫でたいのなら、まあ、構いませんよ、という態度が可愛い。

 もうそろそろ気が済んだでしょう、とでも言いたげにカウンター下のベッドにふわふわの体を横たえる。私も手を綺麗に洗って、カウンターの席に座ってメニューを見た。デザートセットのさくらんぼのイートンメスにも惹かれるけど、焼き菓子も気になる。ガラスケースのお菓子を見る。色々なマフィンにスコーン、ブラウニー。クッキー各種。それから、

「レッドベルベットケーキ」

 真っ赤な生地に、オフホワイトのクリームがたっぷりと盛りつけられたケーキが目を惹いた。一番大きいケーキだ。

「こちらにしますか?」

 つい漏らした言葉にそう訊かれて、いえ、と言いそうになって、

「はい」

 と言った。普段ならこんなに大きいケーキを食べるときは前もって調節するけど、今日はなんだか、いいや、と思った。アイスコーヒーも一緒に頼んだ。

「たまにはいいよね」

 小声で犬に言うと、そう思うならそうなんじゃないですか、とでも言いたげに尻尾が動いた。ふふ。

「どうぞ」

 やってきたレッドベルベットケーキはケースの中にあるより、さらに大きく見えた。厚みのある紺色のお皿に、どん、と載っている。カットケーキだけれど、元の型の大きさを思うと楽しくなるようなサイズだ。中にも上に載っているのと同じクリームが挟まっていて、断面が鮮やかで綺麗。アイスコーヒーを一口飲んでから、意気揚々とフォークを握った。

 ベルベット、という言葉の通り、しっとりとしたなめらかな生地はチョコレートの風味。クリームはクリームチーズのほんのりとした酸味と、インパクトのある甘さ。その分生地の甘さは控えめ。中のクリームには酸味の強いチェリーがところどころに隠れている。甘くて、どっしりしていて、酸っぱい。

 美味しい。

 コーヒーの苦みと冷たさで舌を休ませて、大きいケーキを攻略していく。ケーキを食べるのって、おいしいし、楽しいし、いいなあ、と思った。

 美術館のカフェは混んでいて、なんだか落ち着かなくて、行く前はちょっと楽しみにしていたムースのケーキを頼めなくて、アイスコーヒーだけを頼んだ。先輩もアイスコーヒー。なんだか全然うまく話せなかった。緊張した。先輩はいつもと違う靴と鞄で、いつもと少し髪のセットも違ってて、似合ってたけど、うまく言えなかった。

 なんだかしんみりする。残ったコーヒーを飲みほした。このカフェはなんだか、すごく落ち着く。犬もいるし。ケーキも美味しいし、他のお菓子も食べたい。イートンメスも気になる。ごはんも美味しそうだし、また来たい。

 先輩と来たいな。

 お腹がいっぱいで、気持ちが落ち着くと、すとん、と、ごく自然に、そう思った。また来るなら先輩とがいい。今日は緊張してなんだかぎこちなかったけど、またどこかに行きたい。今日の展示も途中から全然しゃべれなくなっちゃったけど、お互い何がよかったのかちゃんと話したい。一緒に出掛けるのに緊張しなくなるぐらい、いろんなところに行きたい。

 好きだから。

 いてもたってもいられなくなって、鞄にしまっていたスマホを取り出すと、メッセージが届いていた。そのうち一つは、先輩からだ。

『今日なんかうまく行かなくてごめん

また一緒にどこか行こう』

 嬉しさとほっとしたのがいっぺんに来すぎて、胸がもう、きゅっとした。私たち、同じこと考えてた。

 早く返事しなきゃ、と思うのに、その画面が嬉しくて、ただ、じっと見てしまう。視界の隅っこで、

 よかったね、

 とでも言いたげに、ふわふわの尻尾が揺れていた。

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