喫茶もかもか
古池ねじ
第1話 さくらんぼのイートンメス
疲れていた。
ごく普通に、仕事終わりで、疲れていた。ゴールデンウィーク開けの五月初旬。新年度のどたばたが少し落ち着いたけど忙しい。ものすごく大きなトラブルがあるわけでもなく、人間関係が悪いわけでもなく、おおむねなんとかなっていて、でも、疲れていた。まだ水曜日というのも疲れていた。休日まであと二日もあるのだ。明日は何にもないと思って寝たい。
コンビニでなんかお菓子でも買おうかな、とよたよた暗い道を歩いていると、いつも使う道が工事で迂回になっていた。よたよた案内に従って、普段は通らない道を行く。
『喫茶もかもか』
という案内看板が、角に置いてあった。小さな黒い看板で、普段目に入っても見過ごしていたのだろうか。
『17:00~25:00』
その表記が興味を引いた。よたよた、と、深く考えずに細い道に迷いこむ。普通の民家の中に、そのお店はあった。といっても、そのお店も一見民家だけれど。白い壁の、少しおしゃれな民家。門が開いていて、その先に小さな看板がある。
『喫茶もかもか』
そのつもりになってみないと見過ごしてしまいそうだ。木のドアには「OPEN」の札が掛かっている。おそるおそるドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
ふっと、気持ちがゆるむような挨拶だった。お客さんは誰もいない。三人ほど座れる小さなカウンターに、テーブルが四つ。カウンターの脇には小さなガラスケースがあり、そこに焼き菓子が並んでいた。パウンドケーキやマフィン。カウンターの奥から男性が出てくる。白いシャツを着たすらりと背の高い、若い男性だった。すっきりとした顔に、優し気な微笑みを浮かべている。
そして、その足元に、毛玉。
「あ、犬……」
茶色いふわふわとした小型犬。くりくりとした真っ黒な目でこちらを見上げている。かわいい犬だ。ペキニーズかと思ったけれど、それにしては少し鼻先がとがっている。ミックス犬、というものかもしれない。
「もかもか……?」
つい口をついて出た。犬のふさふさとしっぽが、そうですよ、とでも言いたげに振られた。丸いフォルムやたっぷりとした毛が、なんだかもかもか、という感じがしたのだ。
「ええ、この子の名前です。もかもか」
店員さんに言われて、ふっと顔が緩んだ。もかもかはカウンターの下の犬用ベッドの上で丸くなった。大人しい。
「お好きな席にどうぞ」
言われて、カウンター席に座った。木のどっしりしたカウンターは、高すぎなくて、席の間隔も狭すぎなくて、とてもいい。椅子にしっかりお尻が落ち着く。もかもかは私を見上げて挨拶のように尻尾を振る。たまにいる人間好きの犬のように自分から寄ってくるわけではないが、なんというのか、物分かりのいい犬だ。わあっとテンションが上がるような感じではなく、しみじみと嬉しくなるような可愛さがあって、笑ってしまう。
店員さんにメニューを渡してもらう。クリップボードに紙が一枚挟んであるタイプのものだ。本日のごはんと本日のデザートセット、あと少しだけどごはんとデザートのメニューに、ドリンクのメニューもある。
『本日のデザートセット さくらんぼのイートンメス』
というのが目に留まった。
「イートンメス……」
「イートンメスというのはメレンゲと生クリームのお菓子です。それとさくらんぼのアイス」
店員さんが説明してくれた。
「じゃあそれを……ドリンクはアイスティーで」
「はい」
店内にはBGMもなくて、店員さんが作業をする音と、もかもかの鼻息だけが響く。鞄を開いて、底にある文庫本を取り出した。学生時代からの好きな作家の本なのに、買ってからずっと空いた時間に読もうと思って入れたままになっていた。最初のほうだけちょっと読んでいたけれど、最初のページから読む。
「イートンメスのセットです」
没頭していたら、イートンメスとアイスティーがやってきた。赤いソースで飾られた真っ白なお皿に、白い丸いメレンゲと白い生クリーム。その間に、あかるい赤ピンクのアイスがのぞいている。そして、そこかしこに黄色味を帯びた新鮮な赤のさくらんぼ。背の高いグラスに入ったアイスティーの赤みが引き立つ。
「きれい……」
店員さんはふっと微笑むと、小さく頭を下げてキッチンに下がった。私はおしぼりで丁寧に手を拭いて、スプーンを握った。薄いスプーンでメレンゲに触れると、乾いた音を立ててさっくりと割れた。小さなスプーンにクリームとアイスとメレンゲを掬って口に運ぶ。ひんやりとした酸味のアイス。儚い軽さのメレンゲ。ふわりとなめらかなクリーム。口のなかで混ざり合って、一瞬ごとに違う味がする。メレンゲは生クリームが染みると軽くて真っ白い見た目とは違うキャラメルのような香ばしい甘さが引き立つ。濃い赤のソースは酸味が強く、さくらんぼの実はみずみずしい。次はどこを、どんなふうに食べよう。丸いお皿の上に、おいしい楽しさが広がっている。
砕けたメレンゲの欠片とソースとクリームを丁寧に掬って、最後のひとさじを口に入れる。ほっとため息をついた。満足のため息。そんなの久しぶりだった。アイスティーを飲む。すっきりとした味。からん、と涼やかな氷の音。
カウンターの中では、店員さんが何か作業をしている。優しい無関心。私は文庫本を手に取った。半分残ったアイスティー。ぴったりの高さのカウンターと、座り心地のいい椅子。まだ週の半ばの水曜日で、明日には仕事がある。でも、幸せだな。そう思った。ちょっと寄り道して、おいしいものを食べて、のんびりして。それだけでちゃんと、私は幸せになれるのだ。そのことが、なんだかしみじみ、嬉しかった。
足元に目をやると、もかもかがちらりとこちらを見て、ふさふさの尻尾を振ってくれた。
まだここにいていいよ、いっぱいゆっくりしていいよ。
そう言われている気がした。
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