第9話 悪夢のくちづけ!

「範囲覚醒魔法」

 ぼやけた意識を振り払うように、しっかり口に出して言う。みるみる身体のだるさが取り払われていく。


 俺が立ち上がっても、五人の男女はうつろな目をして立ち尽くしている。俺は立て続けに、次の魔法もしっかり口に出す。

「範囲睡眠魔法」


 魔力が空間に充満する気配と共に、五人の男女が次々に倒れていく。


 術者が油断してくれたのが幸いした。漏れなく覚醒魔法が効いたことで、かなり手間が省けた。


 親玉に聞こえるよう、声を張る。


「睡眠魔法と使役魔法を組み合わせ、夢見る人形を作る伝説の魔導士。黒い夢のナディシュだな。自らが見果てぬ夢の迷い子となり、生者を害するばかりの死霊魔導士となったと聞く。いつこの世界に迷い込んだ」


 背中にナイフが刺さったままだと気づき、手を伸ばす。

「痛っ、いったぁ、くそっ」


 どうにか抜くと、無意識の回復魔法で傷口はすぐにふさがる。


 同じく無意識で発動していた解毒げどく魔法の影響で、大量の汗が噴き出る。


「無視かよ、畜生」

 仕方なく、次のフロアに進む。


 そこには誰もおらず、ステップの狭い登り階段だけがある。手摺りを使って素早く登り終える。


 第一甲板を模した暗く広い空間に、見慣れた少女と、それを守るように立つ少年がいた。

 天井にはプラネタリウム風の夜空を模した灯りが点在している。


「よくぞここまで来たわね。女神の影の戦士ちゃん。私の可愛い人形達と楽しい時間を過ごせたようね」


 禍々まがまがしい怨念おんねんが少女の声に重なって、鼓膜を不愉快に揺らす。


 虚ろな瞳でこちらを見やる少女は、青白い顔に、芯の強そうな眉と目を持ち、鼻筋の通った美しい顔立ちをしている。


 最近切ったばかりの斜めに流した前髪、反対には地味な黒いピン留め。

 うるわしのミス・トラブルメーカー。

 七澤楓香に違いなかった。


 そして、少年は朝河涼真。


 少しはいい雰囲気になっているのかと思ったら、死霊魔導士のお人形にされていたようだ。


「ひとつ、質問していいか」

「なぁに、女神の影ちゃん」

「なんで、その女の子に取りいてる」


「なぜ? えて言えば、しっかりした器みたいな、魔力を受け入れやすそうな……」

「へぇ」

 七澤の引きの強さと、そういう感覚が何か関係ありそうだ。


「女神の影の戦士ちゃん。でも、私の本命はあなたの身体。大人しく明け渡せば、仲良しさんのこの二人を傷つけないで済むわよ」


 へぇ、俺の身体が望みね。

「俺の身体で悪さするに決まってんのに、そんな取引に応じるわけねぇだろ」


「交渉決裂ね。可哀想な私の人形達」

 朝河がこちらに一歩踏み出す。


 いつの間にか、朝河の手にはバスケットボールが乗っている。朝河はそれを右手で構えると、弾丸の威力で投げつけてくる。


 上体を逸らして避ける間に、朝河が距離を詰めて飛び膝蹴りを浴びせてくる。


 それを両手で受け止めると、今度は後ろからの気配にかかとを後ろに跳ね上げる。いつの間にか返ってきていたバスケットボールが踵に当たり、方向を変え、天井に向かう。


 その意識の隙をつき、朝河が組んだ両手で俺の頭を打ち下ろそうとする。


 俺は右手を開き、朝河の鳩尾みぞおちたたく。朝河が後退あとずさり、苦悶の表情を浮かべる。

 同時に天井から返ってくるバスケットボールをバックステップで避ける。


 バスケットボールは床の上で高速回転し、朝河の手元に帰る。


 朝河はバスケットボールを足元の床にバウンドさせ、こちらに向かわせる。高速回転するボールの向こうに、こちらに向かい走る朝河が見える。


 俺は両手に魔力を込めてバスケットボールを掴む。

「朝河、バスケットボールは格闘技じゃねぇ」


 時の遅滞魔法。そして、ボールを朝河の顔面に食らわせながら、弱化魔法を使う。


 最後は鳩尾に膝蹴り。

 朝河の身体が崩れ落ちる。


「あら。お友達でも手加減なしね」

「してるよ、さっきから充分に」

「じゃ、この可愛い女の子でもそう出来るかしら?」


 七澤が翼を開くように両手を広げ、それが頭の上でそろえられる。踵が上がり、一本の柱のようになる。


 七澤の細い両脚が軽やかなステップを刻み、両手は柔らかく広がる。美しい軌道で横回転し、気づけばその白く長い足が俺の顔面を掠める。


 次の一撃を受けようとして、違和感を覚え距離を取る。

「お前、表面結界を展開していないのか」


 回転を止めた七澤は、両脚をクロスし膝を曲げ、両手を半ば下ろしたあと、膝を伸ばす。


 バレエの動きか。操られているとはいえ、なかなかキレがある。


「そうよ。この娘の身体能力は最大まで引き出してる、でも、表面結界はなし。あなたがもし正面から受け止めようものなら、このか細い骨は粉々に砕けちゃうかもね」


 強力な打撃は、攻撃側にも大きな衝撃が発生する。


 通常は、生命の自然な機能で自分が耐えられる程度の力しか出ないようになっている。


 魔法で物理攻撃力を強化するなら、同時に攻撃箇所の物理耐性も無意識に上げているものだ。


 しかし、打撃力だけ上がり、攻撃箇所が脆いままでは、攻撃すればするほど、攻める側が傷ついていくことになる。


「どこまで避けきれるかしら」

 七澤の身体が軽やかなステップを始める。


 流れるように蹴りが繰り出され、俺はその都度、正面から受け止めたり食らったりしないよう避け方、受け方を考える。


 甲板を模した床はギィギィと軋み、七澤のスラリとした足が空を切り、力を受け流す瞬間のパンっという音が響く。


 七澤がまた踵を上げ、両手を半ば下ろしたポーズをとる。


 正面から受け止めないよう気をつけていても、真っ白だった足の至るところに真っ赤な痕が出来ている。


「痛いよぉ」

「七澤!?」

 分かっていても、七澤本人の声でそう言われると胸が痛む。


 その動揺を読み取ったかのように、七澤の踵が下り、真っ直ぐこちらに歩いてくる。


「吉川くん」

 七澤の両手が開かれる。


 やがてそれが俺を包むように抱き、パーカーのスウェット素材の感触が、俺の首に巻きつけられる。七澤の息遣いが耳元で聞こえる。

 甘い匂い。軽さと、柔らかさ、程よい重み。


「七さ……」

 七澤の綺麗な顔が目の前にある。


 俺の口は柔らかな物で覆われ、ねっとりと熱いものが俺の上と下の歯をこじ開け、俺の舌に絡んでくる。

 何かが流れ込んでくる確かな感触。


 七澤の熱い吐息が俺の顔にかかり、また湿った熱いものが侵入してくる。絡められ、強く舌を吸われる。俺の腹の底に、熱く禍々しい物が溜まっていくのがはっきり分かる。


 七澤は俺の頭をがっちり抑えて離さない。俺は視線の端に動く物を捉える。

 朝河と目が合う。タイミングが悪い。とっさに睡眠魔法を使う。


 何度舌を絡められた後か、七澤の身体から力が失われ、俺の身体から滑り落ちる。

 

 俺の中で禍々しい物が暴れている。バランスを崩していたのか、壁に寄りかかっていた。視界がぼやけていく。


 そして、眠りに落ちるような感覚……。


 ……………。


 ◆


 ルミアス皇国南東部に、大湖沼地帯だいこしょうちたいと呼ばれる湿地帯がある。


 その地域の沼は遠く離れた魔族の土地と地下水脈で繋がっているとの言い伝えが古くからあり、強力な魔物や魔族が出現しやすい危険な土地として知られていた。


 しかし、その地域を貫く街道がエールデ神聖帝国中心部への最短ルートであること、防衛上の重要度が高いことから、国境近くに古い城塞都市が栄えていた。


 人々はそこを沼の城――シャルト・マレと呼んだ。


 シャルト・マレには、水の辺境伯とその配下の強兵達が駐屯し、命知らずの商人達が凄腕の傭兵隊を率いて重武装のキャラバンを幾つも編成していた。


 辺境の小都市でありながら、その繁栄ぶりは皇都周辺の衛星都市に負けないものであったし、何より都市全体の戦力は皇国屈指を誇っていた。


 その強者達が集う街が、十二年前、一夜にして壊滅した。

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