第31話 0番の魔法

「ナナツナ様」


 鞄を肩にかけて歩き出そうとしたところでスージーが声をかけてきた。


「たとえ神様がなにを考えていようと、必ずあなたを元の世界に帰します」


 真剣な表情で断言する彼女の右手の小指は、しっかりと立っている。

 大きな波がやってきて足元を濡らすと、いたずらっ子のように逃げ去っていく。


「ありがとう。でも無理しないでね。夜遅くまでポチ達といっしょに転移穴を探してるんでしょ。僕のいた世界では夜遅くに子どもが外を歩いていると怖い大人がやってきて……」

「ちゃんと眠れていますか?」

「もちろん。ポチに誘われて森で寝る時は体が痛くて寝つきが悪いけど、まあ大丈夫」

「目が赤いですよ」

「これは、潮風が目に入っただけだから」

「最初に会った時よりも痩せましたね」

「そんなことないよ。みんな優しいし、食事はおいしいし、妖精たちも仲よくしてくれるし、このまま島で暮らすのもいいかなと思っているくらいだよ」

「ナナツナ様……」

「でも、ここで暮らすなら【語学の5番】に頼らなくても文字が読めるようにならないとね。だから図書館で妖精向けにやっている人間の言葉の授業にたまに参加してるんだ。まだ全部の文字を覚えていないけど、簡単な単語とか文章くらいは書けるようになったよ。ああ、数字は完璧に覚えたよ。試しに書いてみようか。どこかに棒が……あった」


 僕は長い棒を拾って砂浜に押し当ててゆっくり動かそうとする。


「無理をしているのはナナツナ様の方です」


 地面から目を離してスージーを見る。彼女の表情は今も真剣そのものだった。


「僕は無理なんて……」

「いつも鞄を持ち歩いているのはなぜですか?」

「持ち歩いてないと不安なんだよ。誰かに取られるとは思ってないけど、一応全財産だから。ほら、僕は臆病で小心者だから」

「いつどこで転移穴が見つかってもすぐ帰ることができるように、ですよね?」


 まるで心の中を見透かしたように指摘されて反論できなかった。


「どうか本当のことを話してください」


 あまりにも見事に言い当てられて苦笑すらできない。


「なんでも話すと、約束してくれたじゃないですか」

「そうだったね……」

「お願いです。どうか無理をしないでください」

「なんでもお見通しだなあ。魔女は勘が鋭いのかな」

「いつもあなたのことを考えていますから」


 喜んでいいはずなのに、上手く笑うことができなかった。


「すみません。今すぐにでも転移穴を見つけられたらいいんですが……」

「スージーは悪くないよ。毎日探してくれて本当にありがとう」


 僕は持っていた棒を動かして砂浜に漢数字を書いていく。


「たしかに元の世界へ帰りたい気持ちはある。だけど、それと同じくらいこの島で暮らすのもいいかなと思っているのも本当だよ。みんないい人だし、これだけよくしてもらっているのに辛いなんて言ったら罰が当たっちゃうよ」


 零から九まで書き終えると、次はアラビア数字で順番に書いていく。


「ナナツナ様。あなたは私たちにとって二度も世界を救ってくれた恩人です」


 スージーは口元を緩めながらも目は心配そうにしている。


「だけど、ナナツナ様の帰りを待っている方は、元の世界にもいますよね?」

「……うん」


 今でもたまに携帯端末で家族に電話したりメッセージを送ったりする。しかし結果は以前と同じでまったく繋がる気配がない。

 せめて手紙を転移穴に落とせたらいいのだが、最後に洞穴に出現して以来ずっと見つけられていない。


「『果報は寝て待て』という言葉もあるし、転移穴が見つかるまで気長に待とうよ」

「……はい」


 相変わらず心配そうな視線を送ってくるが、これは嘘偽りない僕の本心だ。


「これで合っているかどうか見てくれる?」


 漢数字、アラビア数字、島の数字を砂浜に書き終えたので確認してもらう。


「ええ。綺麗に書けています。これなら数字の魔法も覚えられると思います」

「あはは。魔力を持たない僕は魔法を使えないよ」

「ふふふ。神様にお願いしたら特別に魔力を分けてくれるかもしれませんよ?」


 ようやくスージーの顔に笑みが戻っていく。


「ところで、これはナナツナ様の世界の数字ですか?」


 彼女が指さしているのは、一段目に書いた漢数字だった。


「なんて言えばいいのかな。文字で書いた数字……って伝わる?」

「わかります。では、こちらも数字ですね?」


 今度は二段目に書いたアラビア数字だった。


「そう。外国から伝わった数字……でいいのかな」

「かわいい形をしていますね。私でも覚えられそうです」


 魔法のおかげで言葉は通じているけれど、やっぱり僕とスージーは住む世界の異なる人だと気づかされる。文化や習慣が似ているところもあれば違うところもあっておもしろい。


「あの、すみません。これはなんですか?」

「それは数字のぜろだよ」

「え、これが……?」


 スージーは困惑した様子で砂浜に書いた数字の0と僕の顔を交互に見る。


「私、転移穴と勘違いしてしまいました」

「そっか。たしかに同じ楕円形だから似てるよね」


 気持ちはよくわかる。僕もこの世界の数字の形を知った時は驚いたから。

 僕には文字が記号のように見えたのに、逆に数字は文字のように見えるのだ。


「あれ、待った……」

「もしかしたら……」


 同時に顔を見合わせて口を開く。


「スージー!」

「ナナツナ様!」


「この数字の0に魔力を込めることができれば」

「数字の魔法が完成するかもしれません」


 どうやらお互いにまったく同じことを思いついていたらしい。


「すぐに砂浜に数字の0を書くよ!」

「すぐに魔力を込める準備をします!」


 迷ったり考えたりする暇はない。

 気づいたら体が勝手に動き出していた。


 砂浜に棒を深く突き刺す。

 それを両手でしっかりと握ってゆっくりと動かしていく。できるだけ棒がブレないように腕で支えながら大きな曲線を描く。


 周りは海だから波の音がうるさいはずなのに、不思議と集中できている。


「よし!」


 失敗しても何度でも書くつもりだったのに、綺麗な数字の0を一発で書くことができた。


 あとはスージーに魔力を込めてもらうだけ。ただ、本当にできるかどうかはわからない。


 しかし、少しでも可能性があるならやってみる価値はあると思う。


「スー……」


 準備ができたことを伝えようとして声にならない息だけがもれた。


 波しぶきがかかることを気にせず、まぶたを閉じて拝んでいるスージーの姿があった。


 魔力を込めるために精神統一しているのか。

 それともこの世界の神様に祈りを捧げているのか。


 どちらにしても、とても声をかけられる雰囲気ではない。


「ナナツナ様」


 僕の声が聞こえていたのか、スージーが目を閉じたまま話しかけてきた。


「一つだけお願いがあります」

「僕にできることならなんでも言って」

「私の手の上からあなたの手を重ねてください」

「わかった」


 なにも聞かずに指示に従い、彼女の小さな手に僕の手を重ね合わせる。


「新しい魔法を創る時は、どんな効果があるのか、どんな目的で使うのか、より具体的に正確に想像する必要があるんです。私もできるだけナナツナ様の世界のことを考えます。だから、あなたも帰りたい世界のことを強く思い浮かべてください」

「うん。やってみる」

「それでは始めましょう」


 目を閉じると、すぐそばの波の音や空を飛び回っている海鳥の鳴き声がより鮮明になった。両手の下にあるスージーの小さな手の柔らかさや温かさも感じられる。


 ダメだ。まだ集中できていない。

 僕は息を大きく吸って思考の海に潜るような想像をする。


 脳内に大小さまざまな泡が浮かんでいる。泡の中には家族や友達など人物の姿があった。他にも商店街や神社などの風景も詰まっている。元の世界へ帰りたいという感情が強まり、神経が研ぎ澄まされていくうちに、思い出の詰まった泡はどんどん生まれていく。


 いつの間にかスージーの息遣いと僕の心臓の音だけが聞こえるようになっていた。できるだけ元の世界のことだけを考えているが、彼女の呼吸が徐々に乱れ始めたことに気づいた。


 やっぱり異世界の数字の0でも魔力を込めることは難しいのだろうか。

 そんな焦りや不安が伝わってくるようで僕の両手に汗がにじみ始める。

 それでも……。


「大丈夫。スージーならできるよ」


 集中して考えている時の癖がまた出始めた。 


「いつだって数字の魔法で僕を助けてくれたよね」


 目は閉じたままなのに、口は勝手に開き続ける。


「だから、いっしょに創ろう。0番の魔法を」


 以前スージーが僕を信じてくれたように、今度は僕がスージーを信じる番だ。


 手の甲になにか当たる。

 冷たい波しぶきとは違う、温かな雫のようだった。


「ナナツナ様」


 震える声が耳元で聞こえる。


「ありがとうございます」


 また手の甲に温かな雫が当たる。

 前を見ると、スージーの目から涙がこぼれ落ちていた。


 だがその目は決して曇っていない。

 夜空に浮かぶ星のように輝いている。


「がんばろう」

「がんばりましょう」


 お互い考えていることはいっしょだった。

 僕らは再びまぶたを閉じて、両手を合わせて心から願う。

 不完全な数字の魔法の完成を。無事に元の世界へ帰ることを。


「約束したんです」


 スージーの芯の通った声が耳に届く。


「必ず私がナナツナ様を元の世界に帰すと」


 まるで僕の癖がうつったみたいにしゃべり続ける。


「だから、お願いします」


 彼女が息を大きく吸ったのがわかった。


「【転移穴の0番】!」


 ずっと欠番だった数字の魔法の呪文が、とうとう唱えられた。

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