第10話 月夜の約束
食事の後には、妖精たちが日々の疲れを癒すための温泉に案内してもらった。幸運にも今日は体育の授業があったので、ちょうど体操着とタオルを持ってきている。
ポチが空を飛びながら森の奥へ案内してくれている最中、何匹かの妖精は僕やスージーの肩に止まって休んでいた。最初は黒い毛玉のようにしか見えなかった妖精も、いっしょにいるうちにだんだんかわいく思えてくるから不思議だ。
しばらく草むらをかき分けて木々を避けて進むと温泉が現れた。白い湯気が立ちのぼり、大小の岩に囲まれた穴の中には、透明なお湯がたっぷり入っている。
妖精たちなら数十匹、人間なら十人くらいは余裕で入れそうなほどの広さで申し分ない。
「スージーが先に入っていいよ」
「い、いえ。ナ、ナナツナ様が先にお入りください。わ、私は、後から入りますので……」
スージーは茂みのほうへ消えて行ったのでお言葉に甘えることにした。
脱いだ衣服を岩陰に置いてから手でお湯をすくって体にかける。人間にも妖精にもちょうどいい温度で気持ちいい。
温泉に浮かぶ妖精たちを踏まないように気をつけて入り、ゆっくりと肩までつかると思わず声が出てしまう。
「はあ~最高」
まさか異世界で温泉に入るとは思わなかったが、その素晴らしさは変わらなかった。
「ヒィンヒィン」
お湯に濡れたせいで妖精の毛の黒さがより濃くなる。
その時、初めて彼らの顔を見ることができた。
もし僕の世界に妖精がいたら大規模なペットブームが起きるか、絶滅危惧種になるほど
「ナ、ナナツナ様」
揺れる茂みの奥からスージーの震える声が聞こえてきた。
「スージー? どうかしたの?」
なにかあったのだろうか。
まさか魔導書が現れたのか?
僕はすぐにでも温泉から出られるようにタオルを握りしめる。
「お、お待たせしました」
「え?」
「お、お背中を、な、流しますね」
「えぇ!?」
夢か幻でも見せられているのだろうか。
それとも魔法でもかけられたのか。
スージーは、さっきまで着ていた濃紺色のゆったりとしたローブをまとっていない。それどころか下着一枚身に付けていない。
右腕で胸の辺りを隠し、左腕で下半身を隠している。だが彼女の細い腕では豊かな胸を隠しきれず、前屈みになっているせいで余計に強調されている。
「ちょ、ちょっと待った!」
温泉の熱さとスージーの魅力にのぼせてしまい、すぐには状況を理解できていなかった。
「後で入ってくるってそういうこと!?」
「で、でも、温泉には、男女いっしょに入るという文化があるので……」
異世界にもあるのか、混浴文化。
「おっ。スージーのねえちゃんも来たのか。いっしょに入ろうぜ」
「は、はい。し、失礼します」
スージーは白い肌を恥ずかしさで真っ赤にしている。
「ご、ごめん。僕は出るから。ごゆっくり!」
このままではいろいろまずいと思い、すぐにタオルをつかんで温泉から出ていった。
夜の森を抜けて街へ出るのは危険だと判断し、今夜は野宿することになった。念のため妖精たちが交代で見張りをしてくれるらしい。
その厚意に感謝して僕とスージーは先に休ませてもらうことにした。隣同士で寝るのはさすがにまずいので茂みを挟んで横になる。
「はあ……」
鞄を枕にしているせいか、まったく眠くならない。
空にはたくさんの星が浮かんでいる。一つ二つと数えていればそのうち寝られるだろうか。
だが温泉に入ったばかりのせいか、心臓の鼓動が速い。体は疲れているはずなのに、心が落ち着いてくれない。
「元の世界に帰ったら駄菓子屋のあげパンをお腹いっぱい食べたい」
携帯端末を見たら夜十時をまわっていた。
時間の流れが同じなら元の世界も夜だろう。
あ、失敗した。
異世界へ来る前に家族に連絡しておけばよかった。
万が一という可能性を考えて自宅に電話をかける。だが無機質な電子音が流れるだけで繋がらない。
『心配しないでください。ちょっと世界を救ってきます。必ず帰ります』という文面でメッセージを送ってみても結果は同じだった。
普段は夜遅くまで遊び歩かないし、無断外泊することもないから心配しているだろう。友達の家や学校には、すでに連絡がいっているかな。事故にあったか、誘拐されたと勘違いして警察に相談している恐れもある。
昔なら人が突然消えると神隠しにあったと考えるだろう。消えた人はそのまま帰ってこない場合もあれば、またひょっこり戻ってくることもあったらしい。
僕が神社によく参拝しているのは家族も知っている。だから神隠しにあったと思って戻ってくることを気長に待っていてくれたらいいけれど……そんなの無理だよなあ。
「どうしよう」
手紙を書いて転移穴に落としてみるか。
運がよければ元の世界に届くかもしれない。
「ナナツナ様」
茂みの向こうから僕を呼ぶ声がした。
「スージー? どうかしたの?」
「もう寝てしまいましたか?」
「ううん。まだ起きてるよ」
「あの、そちらへ行ってもいいですか?」
困った。
露天風呂で裸を見てしまったばかりなのでまともに話せるかどうかわからない。
答えを急かすように心臓がどんどん速くなる。
最後は自分の気持ちに正直になると決めた。
「……どうぞ」
返事をしてすぐにスージーがやってきた。
僕の隣に座るとなにも言わずに空を見上げる。
また心臓が痛みだす。
この痛みの原因がわからないまま胸に手を当てる。
「怖いですよね」
いつの間にか彼女がこちらを向いていた。
星のように綺麗な瞳でじっと見つめてくる。
「ううん。僕はナナツナと呼ばれてるし、変わった格好をしてるし、きっと勘違いされるよ。僕の本名は魔導書に絶対わからない。それに魔法が使えるスージーもいるし、ポチたち妖精も協力してくれる。だから大丈夫。全然問題ない。怖くない。まったく怖くない。ほんとだよ」
ダメだ。
言葉を尽くせば尽くすほど不安や恐怖といった感情も口から出ていくようだ。このままだと涙も出そうだ。こんな時は笑ってやりすごそうと無理に笑みを作る。
「あはは。大丈夫。本当に大丈夫だから。心配しないでいいよ」
「どうか無理をしないでください」
悲しげな表情のスージーを見たら
「……うん。正直に言うと怖い。すごく怖いよ」
魔導書はもちろん、そのへんに潜んでいる動物や虫も怖い。茂みから突然襲いかかってきたらどうしよう。噛まれて毒にやられたら死ぬのかな。
食べ物や飲み水が体に合わなくて苦しむ可能性だってある。
異世界のウイルスによって変な病気にかからないとも言い切れない。
「知らない世界に突然連れて来られて救ってくれなんて……やっぱり迷惑でしたよね」
「いや、そんなことは思ってないよ。本当に迷惑だったら来る前に断ってるから」
そもそもスージーは反対していた。
それを無視していっしょに行くと言ったのは僕自身だ。
彼女はなにも悪くないし、異世界へ来たことに後悔はない。
ただ、どうしても恐怖という感情には逆らえない。
押し殺そうとしても心の奥底から湧き出てくるようだ。
なんとか抑えようとしても心臓の痛みが生への執着を思い出させる。
「私も正直に話します。迷惑なお願いとわかっていたのに、断ってほしいと思っていたのに、また助けてほしい、いっしょに来てほしいと、本当はそう思っていたんです」
いつの間にかスージーの頬を涙が流れていく。
「すみません。魔導書を見つけるまで泣かないと決めていたのに……」
言葉とは裏腹に目から涙がとめどなくあふれる。ローブでぬぐっても止まってくれない。
「友達も、家族も、みんな封じ込められて……残された人たちと魔導書を探していた時……私だけ転移穴に落ちて……昔来たことのある世界でホッとして……ナナツナ様に再会できてうれしくて……私がなんとかしなくちゃいけないのに……でもどうしたらいいかわからなくて……すごく怖くて……またあなたにすがってしまい……本当にすみません……」
彼女は変わったけれど、変わっていないところもあった。
昔、神社の境内で涙が出ないよう必死にこらえていたのを僕が声をかけた瞬間に声をあげて泣き出した。一人でなんとかしようとする強さと、他人になかなか助けを求められない不器用さはそのままだ。
「同じだ」
「え……?」
「僕も同じ気持ちだよ。ここに来るのは怖かったけど、君に断られるのはもっと怖かった」
伝説の魔法使い探しを提案して断られた時は落ち込んだ。
無関係と言われても、役に立たないとわかっていても、なんでもいいから手伝いたかった。
初恋の女の子が困っているのに、見捨てるなんてしたくなかったから。
「僕にもできることがあるとわかった時はうれしかった。また断られないか不安だったけど、いっしょに来られてうれしい。スージーの住む島が大変な時なのに本当にごめん」
小さく息を吸って吐いて心を落ち着かせる。
そうして今の正直な気持ちを伝える。
「でも約束するよ。僕は必ず魔導書を見つけ出す。またみんなで笑えるようにがんばる」
お人好しとからかう声が、どこからか聞こえてきそうだ。
それでもいい。
僕は好きな人の泣いているところより笑っているところが見たい。
世界を救うためという大きすぎて実感の湧かない目標よりずっとやる気が出る。
「ナナツナ様は昔と変わっていませんね。でも、そんなあなただから、私は……」
なにか言いかけて口をつぐんだ。
スージーは目元をぬぐってからまた口を開く。
「私も約束させてください。
ナナツナ様は私が守ります。そして必ず元の世界に帰します」
彼女は微笑みながら小指を差し出してくる。
少し驚いたが、つられて僕も小指を立てる。
そしてお互いの指を絡めて誓い合う。
しかし、どうして異世界に住むスージーが指切りを知っているのだろう。
「昔あの場所でナナツナ様と別れるのが辛くてまた泣き出して母を困らせました。そんな時、私の小指にご自分の小指を絡ませて『また会おう』と約束してくれましたよね」
「あ、ああ……そ、そうだったね……」
「とてもうれしかったです。見ず知らずの私を助けてくれただけでなく、また会う約束までしてくださるなんて、本当に優しい方だと思いました」
あまりに熱心に語るのでこちらの顔まで熱くなってくる。
「どうかしましたか?」
スージーがきょとんとした顔で聞いてくる。
「ううん。なんでもない」
恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
なにやってんだ昔の自分。
泣いている女の子を慰めるためとはいえ、指切りで約束って……カッコつけすぎだろ。
どうしてそんなことを忘れていたのか。
あまりの恥ずかしさに脳が記憶を消したのか。
「あちらの世界では、約束する時に小指を絡ませるのですか?」
「約束を破らないと誓うためのおまじないだよ。子どもがよくやるんだ」
「おまじない? つまり魔法ですか? ナナツナ様も魔法が使えたんですね!」
魔法ではないと思うけれど、うれしそうにしているスージーを見たら言えなかった。
僕はすっかり忘れていたのに、彼女はずっと覚えていてくれたのか。
それがうれしいやら恥ずかしいやら。また体温が上がってきそうだ。
「またこうして会えたのは、きっとナナツナ様の魔法のおかげですね」
スージーがうれしそうな笑みを見せる。
胸が高鳴る。
その笑顔は、僕が彼女を好きになった時のものとまったく同じだったから。
思わず見とれそうになり、恥ずかしくなって空を見上げる。
雲に隠れていた大きな丸い星が顔を出す。
あれは異世界でも月と呼ぶのだろうか。
月が綺麗ですね、と言ったらどんな風に訳されるんだろう。
だが今はやめておこう。
この想いは自分の言葉で伝えたいし、戦いの前に告白するのは縁起が悪いというから。
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