第二章

第7話 異世界落下

 人は本当に驚くと言葉も声も忘れると思っていた。

 だがそれは、時と場合によるらしい。


「うわああぁぁ!」


「きゃああぁぁ!」


 穴に飛び込んだはずなのに、空へ放り出されていたら誰だって叫ぶに決まっている。


 僕の右手とスージーの左手は繋がったまま。

 しかし、僕の左手に収まっていたポチがいない。

 風に吹かれてどこかへ飛んで行ってしまったらしい。

 まあ、妖精だから問題ないだろう。

 だが僕らはどうすれば……あ、そうだ。

 こちらにも空を飛ぶ手段があるじゃないか。


「スージー! 魔法!」


 突然の事態に本人も忘れていたらしい。

 ハッとした表情を見せた後に大きくうなずいた。


「【羽ばたき8番】!」


 呪文を叫んだ瞬間、スージーの体がゆっくりと浮き上がっていく。

 これで大丈夫と思ったらまたすぐに下がる。日が落ちかけているので暗くてよくわからないが、このまま落ちていけば二人とも地面に激突して死後の世界へ行くことだけはわかる。


「【羽ばたき8番】! 【羽ばたき8番】! 【羽ばたき8番】!」


 スージーが何度も呪文を唱える。

 その度にほんの少し浮いてまた落ちるのを繰り返す。


 どうしてすぐに魔法の効果が切れるのか、原因はすでにわかっている。

 僕のせいだ。


 本来この魔法は、術者本人だけ飛べるようになっているのだろう。軽い荷物ならまだしも、人間一人の重さを抱えて飛ぶようには設定されていないのだ。


 このまま魔法を唱え続けてゆっくりと地上に降りられるなら問題ない。

 しかし、そんな都合よくいくだろうか。

 魔法の原理はわからないけれど、魔力にも限界があると思う。それに僕を支えてくれているスージーの体力が先に限界を迎える恐れもある。


 真下を見ると大きな木々が生えている。だとするとここは森か。葉や枝が落下の衝撃を吸収してくれたら……いや、この勢いのままでは大ケガを負ってしまう。


 落ちても軽傷で済みそうな場所はないか周囲を見回すと光がなにかに反射した。目を凝らして見ると水面だった。あそこまで移動できればなんとかなるかもしれない。


「スージー! 湖が見えた! そこに僕を落として!」

「ダメです! ナナツナ様を見捨てるなんてできません!」

「他に方法がないんだ! このままだと二人とも死んじゃうよ!」


 迷っている時間はない。

 あと数十秒で地上に激突してしまうかもしれないのだ。

 下を向けば背の高い木と硬そうな地面が迫ってきている。


「方法ならあります! 私を信じてください!」

 スージーが呪文を唱えるのをやめて急降下する。着地までの時間がさらに縮まった。


 前を向くと彼女が必死な顔で右手を伸ばしている。

 僕は考えるまでもなく左手を伸ばした。

 僕らは両手をしっかりとつかんだまま互いの体を寄せ合って落ちていく。


「【さよなら3番】!」


 刹那せつな、目に映るすべてが消え失せ、最後に聞こえてきたのは、初恋の人の声だった。


 空から落ちていく感覚はもうなくなっている。地に足がしっかりついているようだ。


「ナナツナ様? ご無事ですか?」


 ゆっくりまぶたを開けると、心配そうにしているスージーの顔が目の前にあった。

 辺りを見回すと木々が生い茂り、さわやかな草や湿った土の匂いが鼻から入ってくる。


「ここは……森の中……?」

「【さよなら3番】は、指定した場所へ一瞬で移動できる魔法です。ただし、位置を正確に把握しないといけないので地上に到着する寸前まで使えませんでした。すみません……」


 自分も生きるか死ぬかという瀬戸際せとぎわだったのに謝るなんて……お人好しだなあ。


「ありがとう。おかげで助かったよ」


 生きていることを実感させるように心臓が激しく動く。

 なぜかスージーが僕の顔を興味深そうに眺めている。木の枝や葉でも付いているのかな。


 目が合った彼女は、申し訳なさそうに頭を下げてつぶやいた。

「ナナツナ様の体に、紋様が浮き上がっていないかと思いまして……」


 どうやら伝説の魔法使いの子孫という可能性をまだ捨てきれていなかったらしい。


「あはは。テレビゲームに出てくる勇者じゃないんだから」

 せいぜい僕は村人Aがいいところだ。


「てれびげーむとは、なんですか?」


 上手く翻訳されなかったらしい。

 もしかすると、この世界には存在しないのかな。


「それよりスージーに怪我はない?」

「ええ。大丈夫です」

「よかった。じゃあ、いなくなったポチを探しに……」


 行こうと提案しようとして草むらが揺れた。

 草同士がこすれ合って乾いた音を発する。

 草をかき分けてなにかが迫ってきている。

 虫か動物か、それとも人間か。


「スージー。顔が見えないように気をつけて」

「はい」


 ポチの話が本当だとしたら、島の住民はスージー以外全員封じ込められている。ならここで人間が出てきたら、魔導書が最初に名前を呼んで体を乗っ取った人ということになる。


 これは絶好の機会だ。

 僕が相手に組みついている間にスージーに魔導書を取り返してもらう。それから顔を確認して名前を呼んでもらえばこちらの勝ちだ。


 虫や動物だったらどうしよう。もし噛みつかれて毒が体にまわったら、鋭い爪でひっかかれたら……。


「ヒイィィン」


 黒い物体が死にかけの馬のような鳴き声をあげながら飛び出してくる。


「なんだ、ポチか。ビックリさせないでくれよ」

「ヒィン」

「なに言ってるかわからないよ。人間の言葉を話して」

「ヒィン」

「いや、だから……あれ、今後ろから聞こえなかった?」


 振り返ると……いた。

 野球の球と同じ大きさの黒い毛玉に小さな手足を生やした妖精が。茶色い地面を覆い尽くすほど大量に。あまりの数の多さに総毛立つ。


「ナ、ナナツナ様」


 スージーの震える声を聞いて前を向くとこちらにもいた。数十匹、いや少なくとも百匹以上はいるだろう。

 いつの間にか僕らは妖精たちに取り囲まれていた。


「妖精って甘いものが好きな大人しい存在なんだよね……」


「臆病な種族なので人間には近寄らないはずですが……」


 それならどうして妖精たちは、じわじわと詰め寄ってくるのだろう。

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