ベル

 ネロは少女を連れて舞台裏に駆け込んだ。するとジョセフが追いかけてきて言った。

 

「逃げる必要などない! その奴隷は君のものだよネロ!」

 

 ジョセフの合図で屈強な兵士がネロの前に立ち塞がり行く手を遮った。

 

「私も野暮ではない。しばらくこの上の部屋で楽しむと良い。大帝に謁見するのはその後にしよう。気持ちが逸るだろうネロ?」

 

 ネロと少女は劇場の上部にある部屋に連れて行かれた。


 そこは上得意客が宿泊するために用意された部屋のようだった。二人が部屋に入るとジョセフは兵士を連れて外に出ていった。

 

「たっぷり楽しみ給え」


 去り際に扉の隙間から顔だけ出してジョセフはネロにいやらしく目配せをした。

 

 ネロは他に出口は無いか調べたが窓は無く、壁は分厚く、脱出できそうな場所はどこにもなかった。

 

「あなたが私を買ったの……?」


 少女は少し上ずった声でささやいた。

 

「買ったりしないよ」


 ネロは静かに答えた。

 

「あなたはどこかの貴族か王族?」


 少女はネロの顔を訝しげに見ながら尋ねた。

 

「違うよ。君と同じ。突然捕まって、無理矢理に運命を背負わされてるんだ」

 

 ネロは少女の方を見た。水に濡れた少女はとても美しかった。上着の前がはだけて濡れた奴隷装束から胸が透けて見えた。華奢な体つきに美しい黒髪。瞳も髪と同じ漆黒だった。


 黒髪が濡れて白い肌にぴったりと張り付くその姿に、ネロは見とれて固まってしまう。

 


「あんまり見ないで。恥ずかしいから……」



 少女はネロとは目を合わせず、ネロの上着で身体を隠しながら言った。

 

「ご、ごめん」


 ネロは慌てて視線を逸した。

 

 部屋にあった美しいストールをネロは少女に渡した。

 

「僕はネロ。君は?」

 

「……ベルよ」


 少女はストールを受け取りネロに答えた。鈴が鳴るような美しい声だった。

 

 ネロは扉の外にいるジョセフに声をかけた。

 

「ジョセフ。この娘の着る服が欲しい。なるべく動きやすくて丈夫な服を」

 


「他の男共に見せびらかさないのか?」


 ジョセフはそう言うと兵士に指示を出してベルの服を取りに行かせた。

 

 しばらくすると兵士が服を持ってきた。ネロはそれを受け取るとベルに手渡して壁の方を向いていた。背中越しにベルが着替えているのが伝わってきてネロは内心ドキドキしていた。

 

「もう大丈夫よ」


 ベルの声で振り向くと着替え終わったベルがそこに立っていた。

 

 膝丈ほどの灰色のワンピースはところどころに碧や薄緑や橙の毛糸が混じっていてとても綺麗だった。


 焦げ茶色のローブは厚手で見るからに上等なものだった。そのローブは柔らかく、ふくらはぎのあたりまで垂れ下がっており、靴はくるぶしの少し上あたりまである、黒いブーツを履いていた。

 

 おまけに黒のとんがり帽子を手に持っているのでまるで見習いの魔女みたいにも見えた。

 

「すごく似合ってるよ」


 ネロはベルに言った。

 

「ありがとう。こんな服はじめて着た」


 ベルはそう言うと照れくさそうに笑ってみせた。


 再びネロの背骨に稲妻が走った。


 この先この瞬間のベルの笑顔を、ネロはずっと忘れないだろうと思った。


 それと同時にもう二度とベルと会うことはないことも解っていた。


 ネロは名前も知らない感情を断ち切るように扉に手をかけて言った。

 

「じゃあ僕行くよ。ベルはもう自由だよ。元気でね。もう捕まっちゃ駄目だよ」


 本当は別のことを言いたかったけれど、ネロはそう言って部屋を出ようとした。

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