第32話 希望と絶望
正さんは倒れたまま動かない。だが呼吸する音はしっかり聞こえている。
「めんどくさいなぁ……」
悪態をつきながらも笑っていることを自覚しているし、今さらそれを隠すつもりもない。
もしかしたら理性的に考えて動く人格とは別に本能のままに動く人格がいるのではないか。鏡淵真理さんの中にマリさんという第二の人格がいるように、僕の中にも別の誰かが……。
汚れたフロアに転がったままの正さんを見下ろす。
もし意識があったら、出来損ないがボクを見下ろすな、と怒り出しそうだ。
僕は右足を上げて空中で制止させる。
このまま一気に踏み降ろせば彼はどうなるだろうか。
全身の血液が沸きたつと共に快楽の波が押し寄せてくる。
こんなことをさせるのは僕か。それとも、もう一人のボクか。
道場で門下生たちを倒した時だってそうだ。
本当にナイフを見た恐怖心からあんな行動に出たのか。
心のどこかで彼らを傷つけたいと思わなかったか。
痛めつけたいと思わなかったか。
複数人に対してこちらが一人。しかも相手は刃物まで持っている。それなら正当防衛が働くと合理的かつ打算的に考えなかったか。
大嫌いな秋葉一族らしい考え方で。
僕は上げたままの右足を勢いよく振り下ろすと、フロアに高い音が響き渡った。
めんどくさい。バカらしい。
理性的でも感情的でも僕は僕だ。秋葉誠実なのだ。
今までも自分の頭で考えて動いてきた。だから、正さんを踏みつけないのも僕の意志だ。
「身内の不始末は身内でつける。それが秋葉一族の掟。でもあなたの処遇を決めるのは僕じゃない。僕は騙り部一門の人間でもあります。騙り部は優しい嘘しかつかないんですから」
この人のことは憎い。だが傷つけたってなんの利益にもならない。
それに、そんなことしたらあの人が泣くと思う。僕にはそれがなにより嫌だった。
「よく我慢したね。えらいえらい」
突然聞こえてきた声に驚いてすぐ振り返る。
なんで、どうして師匠がここにいるんだ。
実人さんといっしょにクラブの共同経営者である友人のもとへ行ったはずだ。詐欺の実態や経営状況の事実確認をするために。
「あれあれ? 騙り部一門の新入りは必ず誰かと組んで仕事すると言わなかった?」
あ、そうだった。弟子になって最初に言われたことをすっかり忘れていた。
きっと僕が店内に入ってから師匠は遅れて入り、隠れて様子をうかがっていたのだろう。
「ふふふ。誠実の作戦通りだったね。正さんの性格や心理を上手く突いていたと思うよ」
「正さんは人からの評価や他者と自分との優劣を異常に気にします。だから天才の師匠や本家の長男の実人さんだと警戒されると思ったんです。でも僕なら見下(みくだ)して油断するかなって」
「私は自分が天才だと思ったことは一度もないよ。でも警戒されやすいというのはその通りだと思う。あの人ずっと前に、ボクと付き合わないかって迫ってきたから。ちょっとね……」
「え、そんなことがあったんですか?」
「もう、そんな怖い顔しないの。はっきり断ったよ。だって私、醜い嘘つきは大嫌いだから」
師匠は澄ました顔ではっきり告げる。
それを聞いて安心すると同時に顔が熱くなる。
「十年前にあった道場で起こった事件を覚えていますか?」
「もちろん。私と誠実が師弟関係になってから初めての仕事だったね」
僕がナイフで切りつけて逃げたという上級生たちの嘘の証言を何度も否定した。
しかし、錯乱状態で記憶が薄れていることや現場から逃げたことは事実である。
僕にとっては明らかに不利な状況だった。
警察も上級生たちの嘘の証言をすっかり信じて、正直に白状しなさいと言ってきた。
そこに現れたのが師匠だ。
彼女は凶器のナイフと僕の手のひらを見てすぐに犯人でないことを理解してくれた。僕の手のひらは皮が剥け、タコが潰れて血だらけだった。
そんな手でナイフを握れば血がつくはずなのに、
道着で拭いたのではないかという指摘をされても師匠はあっさりと否定する。そのナイフは柄の部分が木製で、もし血がついたら木に染み込んでいるからすぐわかると言い返したのだ。
それから五感で嘘に気づいていると告げると、まだ子どもだった上級生はあっさり自白した。そもそも彼らは、指先をほんの少し切っただけで大騒ぎしていたのだ。
それでも僕は師匠に感謝している。いくら感謝しても足りないくらいだ。
「あの時は本当にありがとうございました」
「ううん。お礼を言うのは私の方だよ。あの時は本当にありがとう」
あれ、僕はなにかお礼を言われるようなことをしたかな。
記憶を取り戻したとはいっても、さすがに十年前のことなので詳しく覚えていない。
師匠が持っていた携帯端末が鳴り、実人さんの声が聞こえてくる。
いくらか言葉を交わした後、それをしまいながら教えてくれた。
「お友達も白状したみたいだよ。正さんに誘われて仕方なかったって」
「そうですか。あ、そういえば病気の妹さんがいるっていうのは……」
「それも嘘だよ。この人、昔から自分を守るための嘘か、その場を逃れるための嘘しかつかないからわかりやすいんだよね。そんなの私じゃなくてもすぐバレちゃうのに」
師匠の顔は少し暗かった。サプリメントが未承認薬だという嘘に気づけなかったことを悔やんでいるのかもしれない。
なぜあの時、嘘に気づけなかったのか。
おそらく正さんの
正さんは
たしかに未承認薬は麻薬ではないから嘘ではない。そのせいで師匠の五感が事実だと認識してしまった。『はい』『いいえ』の二択でわかるものだけという制限が悪い形で働いてしまった結果だろう。
「がんばろう」
いつの間にか師匠は、いつもの明るさと笑顔を取り戻していた。
いつかこの人と同じくらい強くなりたい。僕もがんばろうと心の中で誓う。
「これから実人が本家の人たちといっしょにこっちに来るらしいけど、大丈夫?」
誓いが一瞬にして崩れそうなことを言われて動揺したが、なんとか返事をする。
「大丈夫です」
「無理してない? 先に帰ってもいいんだよ?」
「本当に大丈夫です。師匠がいっしょにいてくれるなら、ですけど」
「ふふふ。誠実は本当に素直で正直者だね。騙り部にしておくのがもったいないくらい」
「すみません……」
「もう、そんな悲しい顔しないの。冗談だよ。さっきの騙りはなかなかよかったよ。そろそろ誠実にふさわしい騙り名を考えてあげないとね。どうしようかなぁ。なにがいいかなぁ」
師匠は楽しそうに鼻歌まじりにフロアをくるくると回り始めた。
その姿は見ている僕まで楽しい気持ちにさせてくれる。
しかし、実人さんだけでなく本家の人間も来るとしたら覚悟を決めないといけない。記憶を失ってからずっと会っていないけれど、過去の恐怖や不安は今も忘れていない。少し思い出しただけで手足が震える。それでも大丈夫だと自分に言い聞かせる。
なぜなら今の僕は一人じゃないから。不思議と震えはすぐに収まった。
正さんが逃げないようにどこかに縛りつけておいた方がいいか。安定した呼吸の音は今も聞こえているので問題なさそうだ。僕はゆっくりと近づいていく。
「やっと君から手を伸ばしてくれたね」
正さんが急に起き上がって右腕を掴んできた。乱暴に振り払っても絶対に離さないと力を込めてくる。
なら左手で殴るしかないと大きく振りかぶった時、胸になにか押し当てられた。
「がはぁっ!」
バヂィッという不快な音と共に今まで味わったことのない痛みが全身を駆け抜ける。
「誠実ッ!」
師匠の悲鳴にも似た叫びが聞こえる。
しかし気づいた時にはフロアに倒れていた。なにをされたのかわからない。
拳でも刃物でもない。
手足がしびれ、頭も割れるように痛い。まともに考えることすらできない。
「出来損ない! ボクを見下ろすな! どっちが上なのかハッキリさせてやる!」
罵倒と共にくり出される攻撃によって悲鳴をあげる。腹を思い切り蹴られて息もできない。
あまりの痛さに地面をのたうち回り、少しでも敵から距離を取ろうと必死にもがく。
「ははっ。まるで地を這う虫だな。それこそ君にふさわしい姿じゃないか」
頭上から降ってくる汚い言葉。バチバチという耳障りな音と共に見える線のように細い光。そこでようやく相手の得物がスタンガンだとわかった。
不用意に近づいたのがまずかった。相手が武器を隠していることを確認すべきだった。
蹴りに体重を乗せ切れなかったのか。踏み込みが甘かったのか。頭が忘れていても体が覚えていると過信していたのか。
だが今さら後悔しても遅い。そんなことよりこの危機を脱しないと。
「まさかそんなものを使うなんて……恥ずかしくないんですか?」
「ははっ。騙される方が悪いんだよ。君だってボクを騙したじゃないか」
相手をよく観察すると足が震えて体が傾いていることに気づいた。頭を蹴り抜いたのだから相当な衝撃を受けているはず。休んだとはいえ、完全には回復していないのだろう。
「出せ」
「はい?」
「とぼけるな。ボイスレコーダーを出せと言ってるんだ」
スタンガンのスイッチを押して光と音を散らしながら威嚇してくる。
「これを渡したら見逃してくれますか。僕はともかく、師匠だけでも……」
「さっさと言われた通りにしろ!」
今度はスタンガンを僕の顔に近づけて脅してくる。僕の体が回復するか、あるいは実人さんが来てくれるまで時間を稼ごうと思っていたが、このままではどちらも絶望的だ。
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