第33話 とうとう始まる。騙り部による騙りが――。

「……さない」

「はあ? なんだって?」


 正さんがしかめっ面で聞いてくるが、僕はなにも言っていない。


「許さない。あなただけは絶対に許さない」


 怒りの満ちた声がクラブ内に反響していく。

 師匠は髪を大きく振り乱しながら歩いてきた。彼女はすべてを見通すかのような黒い瞳で一人の男を睨みつけている。


 その反抗的な視線と態度を正さんは嘲笑って受け流す。


「ボクは間違っていない。なぜならボクはいつだって正しいんだから」

「このお店の名前は……たしか『夢実ゆめみ』でしたね」

「『夢実ドリーミー』だ! 間違えるな。ここは夢と現実の狭間のような楽しい世界だ。それを君らが壊そうとしているんだ。なあ、見逃してくれよ。嘘も方便と言うじゃないか」

「ふふふ。そんなに夢と現実の狭間がお好きなら私がお連れしましょうか」


 師匠のおかげで時間を稼ぐことができた。手の痛みやしびれが和らいでいるのがわかった。あと少しで立てるくらいにはなるだろう。


「いいからさっさとボイスレコーダーを渡せ!」


 しかし回復しているのはあちらも同じだ。正さんの足のふらつきがなくなり、スタンガンを持つ手の震えも収まってきている。今度は心臓を正確に狙ってくるかもしれない。


 それより先に僕が回復するか、あるいは実人さんが来てくれないとまずい。


 突如、銃弾を放つような乾いた音が二度響く。

 僕も正さんも驚いたが、すぐに師匠が両手を打ち鳴らしたものだと気づく。彼女は大きく息を吸ってから口を開いた。


「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門ここにあり――」


 師匠は赤い舌をペロッと出して不敵な笑みを浮かべる。

 とうとう始まる。騙り部による騙りが――。


 騙り部一門に古くから伝わる『始まりの口上』。

 しかし今回はそこで終わらなかった。


 師匠は艶めく黒髪をなびかせて、細くしなやかな脚で優雅に闊歩かっぽしながら騙り続ける。


「奇人、変人、凡才、天才、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。種も仕掛けもございません。鬼が出るか、邪が出るか、嘘か実(まこと)か、実か嘘か。どんなに鼻をきかせても、どんなに目をこらしても、あれあれどうしていつの間にやら舌の上。さあさあ騙されたい奴ぁこっちへおいで。私が優しく騙してあげる。舌先でころころと転がしてみせようじゃあないか」


 詩を紡ぐように、物語をつづるように、歌を詠むように、美しく澄んだ声で述べられる口上。聞く者の耳を傾けさせ、見る者の目を奪う怪しげな魅力。


 きっと一度でも見聞きしたら誰もが彼女を忘れない。


 歌詠みの騙り部という騙り名に決して恥じない見事な騙りを。


「立てば偽者、座れば虚像、歩く姿は都市伝説。嘘しか言わない騙り部。それが騙り部一門。私が靴のかかとを三回打ち鳴らしても世界はなにも変わらない。けれど私が三回嘘つきゃ世界は変わる。くるくる変わる。奇妙、奇天烈、奇々怪々、愉快、痛快、私が創るは虚構の世界。不思議、不可思議、摩訶不思議、そこで起こるは不可解なことばかり。さてさて今宵の世界はどんな世界? 行きたい世界を言ってみな。私がどこでも連れてったげる」


 その見事な騙りに聞き惚れる。それは親が子に子守唄を歌って聞かせるような、恋人たちが睦言むつごとを交わすような、いつまでも聞いていたいと思わせる心地良さだった。


 いつの間にやら僕は、耳だけでなく心まで奪われかけていた。


「口上だかなんだか知らないけど、君らの遊びに付き合う気はない」

 しかし正さんは小馬鹿にするよう顔で文句を垂れる。


「さてさて秋葉正さん。あなたが望むのはどんな世界ですか?」

 師匠は満面の笑みで対応している。


「ははっ。それならボクだけが幸せになれる世界に連れて行ってくれよ」

 できるものならやってみろ、という嫌味や皮肉を込められたようなセリフだ。


 それよりもっと大事なことに気づく。

 僕はこれを何度も聞いたことがある。

 この口上の意味と意図を知っている。

 しかし、気づいた時にはもう遅かった。


「一つついては人のため。二つついては街のため。三つ四つとついて噓八百。それだけついてもまだ足りない。ならば騙ってみせよう命尽きるまで。ようこそ、騙り部の三寸世界さんずんせかいへ」

 そうして師匠は口上を締めくくる。



 いつの間にか真っ暗でなにも見えなくなっていた。

 化物の名取に名前を取られて存在を失った時の空間に似ている。

 だが自分の体はあるし、地に足のついた感覚もしっかり残っている。それでもクラブ『夢実ドリーミー』でないことはわかる。

 なぜなら僕はここを訪れたことがあるから。


「なんだよ突然。停電か?」

 正さんの不満そうな声が聞こえる。彼はまだ状況を理解できていないようだった。


「あれあれ? 聞いてませんでしたか?」

 師匠の声が発せられる。暗闇を明るく照らすような澄んだ声だ。


「三寸世界ですよ。騙り部一門初代頭領、言語朗が秋葉山の化物退治で使ったと言われる奥義です。頭の中で思い描いた世界を創り、そこに出入りできる能力なんですよ」


 僕は声がした方に向かって手を伸ばしてみるが、なにも触れることはできなかった。


「ははっ。またお得意の嘘か。そんなことより……うわっ!」

 正さんが叫び声があがった。近いのか遠いのかもわからない。


 僕はその場に立ちつくしたまま目と耳を研ぎ澄ます。

 視界は相変わらず悪くてなにも見えない。ただ、なにか音がする。

 より感覚を鋭くするために目を閉じて音のした方に耳を傾ける。

 おそらくこれは足音だ。しかも少しずつこちらに近づいてくるのがわかった。

 より鮮明に聞こえるようになったところで足音がピタリと止んだ。

 おそらく手を伸ばせば触れられる距離になにかいる。


「誠実! みーつけた!」


 急に名前を呼ばれて心臓が止まるかと思った。


「ごめんごめん。久しぶりに使ったからちょっと失敗しちゃった」


 今も暗くて顔は見えないけれど、師匠が来てくれて不安や恐怖は薄れた。

 少しずつ肩の力が抜けていき、僕の口は自然と言葉を発していた。


「懐かしいですね」

「ふふふ。思い出したんだね」

「はい。でも、こんな暗くて不気味な世界は初めてです」

「今日は特別だからね。おいで。案内してあげる」


 言われてすぐに右手を握られた。そのまま手を引かれてゆっくり歩いて行く。

 先も見えない暗闇の中でどこへ向かうのだろう。しかし不思議と不安や恐怖は感じない。

 なにも言わずに歩き続けていると小さな光が見えてきた。

 進めば進むほど光源は大きくなっていく。暗闇を抜けられると思うと急ぎ足になる。


 だが着いた先では異様な光景が広がっていた。


「やめろ! ボクのだ! お前らのじゃない! だからクズは嫌いなんだ! 死ねっ!」


 正さんがスタンガンを振り回しながら喚き散らしている。

 足元にはもみじの葉が落ちている。それも一枚や二枚ではない。数百枚、いや数千枚。一生かけても数えきれないほど大量のもみじの葉が落ちている。


 正さんはそれを必死にかき集め、また叫びながらスタンガンを振り回す。そんな彼を白い煙が人の形をしたような化物たちが取り囲んでいる。


「好きなものに囲まれて最期を迎えたいと言う人ってけっこういるよね。正さんが好きなものはお金と秋葉一族の血筋、それから煙草。だから、それを実現できる世界を創ってあげたの。これからあの人は死ぬまで大切に守り続けるんじゃないかなぁ」


 師匠はつまらなさそうに教えてくれる。だがそれは嘘でも冗談でもなさそうだった。


「すみません。最後のチャンスをあげられませんか?」


 僕の問いかけに師匠はなにも答えない。

 真剣な眼差しでこちらを見つめるだけだった。


「あの人がやったことは間違っています。でも、あの人が改心する可能性もあります」


 大学でまじめに医学を学べば将来は医者になってたくさんの人を救うことができる。

 クラブ経営をまじめにやれば若い人たちは喜ぶし街にも活気が出てくる。

 これからは街のため人のため、まじめに考えて動いてくれるかもしれない。


「お願いします。一度だけでいいんです。どうかお願いします」

 僕は深く頭を下げて頼み込む。なにか言われても頭を下げ続けるつもりだ。


 突然、乾いた音が反響する。

 それを聞いて彼女が両手を打ち鳴らしたのだとわかった。


「なんだこれ。ゴミじゃないか。金は? さっきまでここにあった金はどこにやった!」


 騙り部の舌先で転がされていた正さんもその音で目が覚めたらしい。だが、もみじの葉に幻影を見ていたことには気づいていないようだ。血走った目で存在しない金を探し続けている。


 師匠はそんな彼のもとへ歩いていくと、いつもと変わらない調子で話しかける。


「さてさて秋葉正さん。あなたには二つの選択肢があります。この世界で一生暮らすか、元の世界へ戻ってこれまでのことを反省して街のため人のために尽くすか。二つに一つです」


 再び選択を迫られた正さんは地面に手をついたまま考える。


「どうか話してください。嘘偽りなくすべて」


 正さんはすぐに顔を上げて一つの答えを選択する。


「わ、わかった。これからはサプリメントを騙して売ることも未承認薬や新薬の治験も絶対にしない。だから……」

「ふふふ」

「え? なにかおかしかった?」

「こんな状況になっても嘘をつけるなんて……本当に醜い嘘がお好きなんですね」

「う、嘘じゃない。本当だ。ボ、ボクが間違っていた。君たちが正しかったんだ」

「ほらまた。よほどこの世界を気に入ってくれたんですね」

「待て! 待ってくれ! 金ならいくらでも払う。いくら欲しい? 好きなだけ払うよ」

「いいんですよ。どちらの答えを選んでいたとしてもここに置いていくつもりでしたから」

「はぁ? なんだよそれ! 騙したのか! ふざけるな! さっさとここから出せ!」

「あれあれ? さっきご自分で言ったじゃないですか。騙される方が悪いって」

「ち、違う。それは……」

「それに私も言いましたよね。あなただけは絶対に許さないって」


 ここからでは師匠がどんな顔をしているのかわからない。

 だがきっと笑みを浮かべているのだろう。

 なぜなら騙り部は、いつも笑っているくらいがちょうどいいのだから。


 正さんは青ざめた顔に冷や汗を浮かべながら周囲を見まわす。

 僕は顔を逸らしたが、ほんの一瞬目が合ってしまった。

 正さんは地獄で仏を見つけたような表情で話しかけてくる。


「ま、誠実くん。君からもなにか言ってくれ。た、頼む。一生のお願いだよ。ボク達は同じ血を分けた一族じゃないか。親族なら助け合うものだろ。君もそう思わない?」

「すみません。僕にはあなたが嘘をついているかどうかわかりません」


 正さんの最期の姿をしっかり目に焼きつけながら事実を告げる。


「でも、あなたが人の心の痛みがわからない人でなしということはよくわかりました」


 すべての望みが絶たれたとわかった彼は、ひざから崩れ落ちてうな垂れた。

 師匠もこれ以上かける言葉がないと思ったのか、くるりと向き直って戻ってくる。


「死ねっ!」


 その瞬間を狙っていたかのように正さんが襲いかかる。

 しかし、スタンガンはいつの間にかもみじの葉に代わっていた。

 呆然とする彼に大量の白煙の化物たちが再びむらがっていく。


「私は騙り部。嘘しか言わない騙り部。

 どんなに上手に騙しても、私の五感は騙せません」


 師匠は赤い舌をペロッと出して不敵に笑って見せた。

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