第31話 罵り合い殴り合い
僕は隠し持っていたボイスレコーダーを取り出す。
「これまでの会話はすべて録音してあります。これをどうするかはあなたの返答次第です」
正さんは大きなため息をついた。
「結局、人間は育ちの良さで決まるんだよ。貧乏な家に生まれた人間は自分の頭で考えることを放棄しているからダメだ。でも裕福な家に生まれながら努力しない人間はもっとダメだね。そういう奴はすぐにでも優秀な人間にその席を譲るべきなんだよ。君もそう思わない?」
話の裏や真意どころではない。
この人がなにを言いたいのかわからない。
「なぜ君のようなバカでアホでクズでなんの
あまりの
その瞬間、こちらに伸びてきた手が空を切る。
ほんの少しでも動くのが遅れていたら腕を掴まれていたと思うと冷や汗が垂れる。
「残念だなあ。いつもの素直で正直な君はどうしたんだよ。君が握手に応じてくれていたら、すぐに黙らせることができたんだ。そうすればすべてが丸く収まっていたのに」
「なにをするつもりですか?」
「決まってるじゃないか。君をここで眠らせて本家に連絡してこう言うんだ。誠実くんが店に無断で侵入したうえ、薬を過剰摂取して自殺を図ろうとしましたって」
「そんな嘘が通用すると本気で思ってるんですか?」
「ははっ。秋葉一族は利益を出す人間のみを評価する。本家に生まれながらなんの利益も出せない出来損ないと分家に生まれながら利益を出し続ける優秀なボク。秋葉一族にとって有益な人間はどちらか。正しいのは誰か。間違っているのは誰か。君にはわからないの?」
「そこにあるものを食べても死ぬことはできませんよ。ただの駄菓子ですから」
バーカウンターの上にあるポリ袋を手に取って白い錠剤のようなものを口に放り込む。それは口の中で少しずつ溶けていき、最後にはさわやかな後味を残して消えてしまった。
白くて丸い固形物はラムネ。赤や黄色のものはチョコレート。粉末状のものも駄菓子だ。
任せてほしいとは言ったけれど、僕はまだ騙り名も得ていない半人前。ただ嘘をつくだけでは上手く騙せない恐れがあった。
そこでたくさんの駄菓子を買って透明なポリ袋に入れて薬に見立てたのだ。薄暗いクラブの中では判別がつきにくいから。
こちらの思惑通りに正さんはすっかり騙されてくれた。手に取ってまじまじと見られた時は少し焦ったけれど、なんとかバレずに済んでホッとしている。
「騙してすみません。だけど僕は秋葉一族であり、騙り部一門でもあるんですよ」
正さんは無言でバーカウンターを跳び越えてくる。駄菓子はすべて床に散らばってしまった。それに一切興味を示すことなく彼は
小さく息を吐き出しながら男を視界に捉える。相手は両手を強く握って拳を作り、両肩にも力が入っている。無理やりでも黙らせるつもりだと全身で主張しているかのようだった。
幼い頃に道場へ通っていた頃の記憶が脳裏に浮かんで消える。
痛いのが嫌だった。
怖いのが嫌だった。
なにもかも嫌で仕方がなかった。恐怖が心から体へゆっくりと伝わっていく。
手が、腕が、肩が、大きく震えだす。
逃げたい。今すぐこの場を離れたい。
相手はそこらの不良ではない。兄といっしょに全国大会へも出場したことのある実力者だ。
きっと、いや絶対に強い。
まともにやったら一方的に痛めつけられて終わる。
今すぐ逃げた方がいい。
それなのに……足だけは震えていない。地にガッチリと根付いて離れようとしない。
小さく息を吸って吐いて呼吸を整える。それから口を大きく開いて腹から声を出していく。
「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門ここにあり――」
いつの間にか恐怖が消えていた。
かわりに勇気がどんどん湧き出て血液と共に全身を駆け巡っていく。
「命をかけて騙らせていだきます」
僕は舌をペロッと出して、あの人のように笑って見せる。
正さんはそれを挑発と受け取ったのか、バカにするように話しかけてくる。
「ボクは全国大会に出場したことだってあるんだ。覚えてる?」
「思い出しました」
「じゃあこれは覚えてる? 君、弱すぎて大会に出場することを禁止されてたよね?」
「それも思い出しましたよ」
「君はいつも泣きながら道場に通っていたよね。そんな君がボクに勝てると……」
「大会ではたくさんしゃべる人が一等賞ですか? 口ばかり動かしていないで手を動かしてはいかがですか? やる気ありますか?」
「ははっ。言うじゃないか。後悔するなよ出来損ない!」
胸の前で構えていた両手をすぐに顔まで持っていくが、相手は言動とは裏腹に冷静だった。両足を軽く浮かせて小刻みな足運びを見せている。
こんなところにも秋葉一族らしい考え方がにじみ出ている。
合理的かつ打算的に。できるだけ無駄な動きをせず的確に攻撃する。隙が生まれやすい大技は狙わずに、効率良く点数を稼いで判定勝ちを狙う堅実な戦法だ。
こちらも同じように軽快な足さばきで一定の間合いをとる。対する正さんは固めた両拳を顔の前に置いてやや前傾姿勢になっている。急所である鼻や
両腕の間から見える茶色に染まった彼の髪が揺れているのが見えた。
「ははっ!」
乾いた笑い声と共に左拳が飛んでくる。腰の入っていない腕だけの突き。こちらとの間合い、距離を測っているようだった。
その直後、今度は左と右の拳が交互に放たれる。しっかり間合いを見極めたうえで突いてきている。
僕はすぐ後ろへ跳ぶように回避して迎撃態勢を整える。
「構えがなってないな。道場で習ったのは泣き方だけか?」
あまりにもわかりやすい挑発なので聞き流す。
それでも言われっぱなしは嫌なので右足で地面を蹴って前進すると同時に左拳を突き出す。
だが顔面に放たれた拳は、相手の右腕に阻まれてしまう。
正さんは打たれた右腕をさすりながら嫌らしい笑みを浮かべている。効いていないことはわかっているつもりだが、ここまで余裕そうな顔をされると少し腹が立つ。
そこでほんの一瞬足を止めてしまった。その隙を実力者が見逃すはずがなかった。
「君は逃げることが得意なんだろっ!」
正さんが一気に間合いを詰めて腹部に拳を叩き込んでくる。
痛いと思う余裕もなかった。左、右と交互に拳が飛んでくる。悪意と敵意のこもった攻撃が容赦なく襲いかかる。
僕は体をくの字に曲げながらなんとか後退した。固い拳が肉を貫いて内臓をえぐるような痛みがやってくる。それでも頭だけは守ろうと両腕の構えは決して崩さない。
「死ねっ!」
罵倒が聞こえた瞬間、頭を守っていた両腕が吹っ飛ばされるほどの強い衝撃が届く。
蹴りだ。
地に着いた足の踏ん張りが効かず、僕はクラブのフロアに転がされる。
すぐに立ち上がるが、体はふらつく。口は息を吐くばかりで、まともに吸うことができない。腕は痛いし、腹も痛いし、内臓に響くような痛みも抜けていない。
「ほら、どうした。がんばれ。もっとがんばれ。秋葉一族本家のすごさを見せてくれよ!」
まだまだ元気そうな正さんは、弱っている僕を容赦なく痛めつける。
固い拳を放ちながら時折蹴りを織り交ぜてくる戦法。防御の甘いところをすり抜けるように突き、体勢が崩れたところを蹴りで沈める。
この人は強い。
全国大会出場の実績と実力は嘘ではない。紛れもなく本物だ。
「こんな出来損ないの弟を持つ実人くんは情けない」
汚くて醜い言葉が投げかけられる。
「なんの取柄もない弟子を持つ詠ちゃんは恥ずかしい」
呼吸とともに精神が乱れていく。
「いずれは秋葉一族の当主になると言われる実人くんは昔から君のことを気にかけていたが、そんな無駄な時間を過ごしているからダメなんだ。才女だと言われる詠ちゃんもそう。性格はともかく、容姿はいいんだからもっとそれを有効活用すべきだ。君もそう思わない?」
僕は正さんをしっかり正面に捉えて睨みつける。
「ははっ。その鋭い目つき、実人くんにそっくりだね。でも、見た目だけでなく中身も似ていたらよかったのにね。そうすれば君も少しは評価されたんじゃない?」
無理やり息を吐いて呼吸を落ち着かせる。
しかし精神は簡単に落ち着きを取り戻せない。
当然だ。
大切な家族をバカにされて黙っていられるほど僕は薄情な人間ではない。
感情的な生き方だというのはわかっている。
だが合理的かつ打算的に考えて動くよりずっと人間らしい。
たとえ秋葉一族の血筋を引いているとしても、生き方は自分で決めるものだから。
「人をどう評価するかは自由です。でも、人の気持ちを勝手に決めつけないでください」
「ははっ。ボクに意見するのはつまらない冗談だと教えたはずだ。もう忘れたの?」
我慢の限界だった。足さばきや構えなんてどうでもいい。
考えることすらめんどくさい。
今は全力であいつを殴る。それだけだ。
僕は右腕を大きく振りかぶって突っ込んでいく。勢いそのままに相手の顔面に拳を叩き込む。
だが、つい先ほどまでそこにあった憎い男の顔はどこにもなかった。
避けられたと気づいた時にはもう遅い。僕の全力の右拳は
「ははっ! 少し挑発したらすぐこれだ! やっぱり君は出来損ないだよ!」
視界の端でこの世で最も憎い男が挑発してくるのが見えた。
僕は流れに身を任せつつも相手の位置だけはしっかり捉えて離さない。それから息を小さく吐きながら
狙うはただ一点。その目障りな頭だ!
「は?」
調子に乗っていた男がようやく危険を察知して腕を上げる。
だが遅い。それでは防げない。
暗い場所でも目立つ明るい茶色の髪。おかげでしっかり捉えることができた。
相手の側頭部につま先が当たった瞬間、全体重を右足に乗せて遠心力を利用して勢いそのままに蹴り抜く。
どんな相手も一撃で必倒させる威力を誇る大技、上段廻し蹴り――。
「逃げることが得意なわけじゃないですよ。殴ったり蹴ったりするのが嫌いなだけです」
僕や実人さんが通っていたのは古流武術の道場。打撃技、投げ技、組み技、関節技など、いろいろな技を教えていた。
兄の実人さんはどれも人並み以上にできたが、とりわけ打撃系の技を好んでいた。弟の僕はどれも好きではなかったし、中でも打撃技への苦手意識は強かった。拳を作って殴り、足を振り回して蹴るという行為が、どうしても性に合わなかったのだ。
おそらく親族が言葉で傷つけるだけでなく、時には叩いたり蹴ったりしてきたせいだろう。嫌いな人たちと同じようになりたくないと心のどこかで考えていたのかもしれない。
だから僕はできるだけ攻撃を避ける技術を覚えるようにしていた。こちらから攻めることは久しぶりだったが、頭は忘れていても体は覚えていたらしい。
「それから、僕が大会に出られないのは理由があります」
道場に通い始めた僕を待っていたのは地獄のような日々だった。文武両道を重んじる秋葉家の人間として恥ずかしくないようにしてほしい、と親族の誰かが口添えをしていたのだろう。先に入門して公式大会で輝かしい成績を収めている兄の実人さんのように。
それを真に受けた指導者は、僕と実人さんを徹底的に鍛え上げようとした。基礎体力作りとして走り込みから始まり、武道の型を一通り叩き込まれ、防具を一切付けない実戦的組手など。
手や足の皮が何度も剥けては出血し、体中の水分が汗と涙になって出ていき、辛いと言う体力すら残らない。
僕ら兄弟は平等に、問答無用に、地獄に突き落とされ続けた。
しかし僕ら兄弟が他の門下生より特別扱いされているのは事実。そのせいで周囲から非難や羨望の眼差しを向けられることになる。
彼らは勘違いしていたのだ。僕らが天国のように素晴らしい環境で稽古をしていると。
そんなことあるわけがないのに。もし素直に正直に聞いてくれていたら、あんなことは起きなかったかもしれないのに。
ある日、僕は年上の門下生たちに呼び出された。なんの疑いも持たずについて行くと、人目に付かないところで一方的に殴られ蹴られた。
お前ら生意気だ、と誰かが言った。
ここには一人しかいないのに変な話だ。けれど、頭のどこかで僕だけが標的にされた理由をなんとなく理解していた。子どもは本当に素直で正直で残酷だから。
僕はもみじの木の下で泣きながら、なんで、どうして、と考える。
しかし、いくら考えても答えは見つからなかった。そのうち僕は思考することを諦め、ただひたすら暴力に耐えることを選んだ。だがそれも長くは続かなかった。
いつものようにいじめられていると、いい物があると誰かが言った。めんどくさいから早く終わらせてほしいと思っていた僕の目にもそれは写った。光で輝くほど磨かれた銀色のナイフ。その鋭い美しさに魅了された彼らは刃先を僕に向けた。
その瞬間、考えるよりも先に動いていた。自分の中にもう一人の自分が生まれたように。
「弱すぎるからではありません。やりすぎるからです」
気づいた時には僕の道着は血で赤く染まっていた。
なにが起きたのかすぐには理解できず、不安や恐怖から屋敷の中庭へ逃げて泣いた。そこで一人の少女と話したおかげで少し落ち着き、自分がなにをしたのか知るために道場へ戻った。
いつの間にか救急車やパトカーが来ていて驚き、上級生たちがナイフで僕に切られたと証言していたことにさらに驚かされた。危うく僕は幼くして犯罪者になるところだった。
その事件以降、僕は公式大会への出場はおろか同年代の門下生と闘うことすら禁じられた。周りのみんなが僕に近づきたくないと恐怖することも原因の一つ。
また、それ以上に大きな問題があった。
審判の止めの指示があっても止められず、制限時間がきても相手を倒そうと向かっていく。兄や道場の指導者は事件のトラウマのせいだと気遣ってくれたが、記憶を取り戻した今は少し違うのではないかと思っている。
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