第28話 ただいまおかえり

 子どもたちが目の前を走っていく。

 ぼやける目を擦って見るとそこは、駄菓子屋の前の公園だった。幼い子は親といっしょに遊び、小学生くらいの子たちはかけっこをしている。


 自分の手足はあるべきところに収まっている。今回は記憶もしっかり残っている。だが神隠しにあったような、幻想と現実の狭間にいたような不思議な感覚は今も抜けていない。


 しかし、目の前で仁王立ちしている実人さんに声をかけないわけにはいかなかった。


「どうして、あなたがここに……?」

「あいつから連絡があったんだ。すぐに来てくれと。まだ記憶が戻ってないのか?」

「いえ、それは、大丈夫です。記憶あります。違う。記憶は戻りました」


 相変わらず猛禽類や猛獣のような目つきで怖い。そのせいで口調がしどろもどろになった。

 その返答に怒りを覚えたのか、視線がさらに鋭くなる。実人さんは両手を高く挙げて……。


「よかった。本当によかった」


 実人さんの手が僕の両肩に置かれた。怒られることを覚悟していたので呆気に取られる。

 よく見ると彼の目元には涙が溜まっている。

 ただ、それを指摘したら今度は本当に怒られる気がしたので視線をそらす。そこで実人さんの手になにか握られていることに気がついた。


「あの、それはなんですか?」

「へその緒だ」

「どうしてそんなものがここに?」

「名取に姓名の両方を取られて存在を失った人間を救う方法だ。消えた人のへその緒を持ち、戻ってこいと呼びかける。そいつに戻りたいという意志が少しでもあれば戻るらしい」


 思い出した。

 日佐子さんを助けた時にあの人が言った別の方法がこれなのだと。


「でも驚きました。苗字も名前も取られた僕のことをよく覚えていましたね。僕に関する記録や記憶はすべてなくなったはずなのに。僕は秋葉一族の恥なのに……」


 緊張のせいか、言わなくてもいいことを口走ってしまう。

 その時、両肩に置かれた手に力が込められる。


「恥なんかじゃない! お前は俺の弟だ! 

 俺はお前の兄だ! 忘れるわけがないだろ!」


 実人さんは澄んだ瞳で真っすぐ見つめてくる。

 僕は自分が恥ずかしくて情けなくて、その目を直視することができなかった。


 兄弟の絆とか家族としての愛情なんてないと思っていた。

 だが考えてみればこの人が僕を傷つけることはなかった。一度だってなかった。それどころか陰ながら見守ってくれていたのだ。

 すべて思い出したと思っていたけれど、まだまだ忘れていることがあると気づかされる。


「体は大丈夫か? どこか痛めたところはないか?」

「大丈夫です。それより、あの人はどこですか? 今すぐ伝えたいことがあるんです」

「そうか……俺よりもあいつの方が大事なのか……」


 我が兄ながらなにを考えているのかわからない。

 あれ、こんな人だったかな。


「はっ。冗談だ。あいつならあそこにいる。早く行って安心させてやれ」


 僕は一礼してからすぐに走り出す。


「すみませんでした」


 真っ先に謝罪した。

 しかし彼女は、うな垂れたまま顔を上げない。

 これは相当怒っているか、悲しんでいるか、あるいは両方か。


「名取の正体がなんなのか。どうして退治しないのか。なんとなくわかりました」


 反応はない。僕は構わず話を続ける。


「名取は名前を付けられる前に死んでしまった子どもたちではありませんか? 母親のお腹にいる時に流れてしまった子や産まれてすぐに死んでしまった子。生きている人間の名前を取ろうとするのは、自分たちがその人に代わって生きたいと強く願っているからだと思います」


 脳に直接呼びかけてくる声は不気味だった。

 しかし、どの声からも必死さが伝わってきた。

 だから名取は名前以上のなにかを人間に求めていると思った。


 僕が真っ暗な世界から出る瞬間にかけてきた言葉。

 おそらくあれは「生きて」と言ったのではないだろうか。


「名前を取られた人の持ち物は消えるはずなのにへその緒は残っている。たぶんそれは、この世に生まれなかった自分たちと同じ立場にしていいのかという罪悪感があるから。そこで闇から抜け出すための救いの糸として生命の象徴であるへその緒を残してるんじゃないですか?」


 生温かい空間に浮かぶ感覚は、母体の中の羊水ようすいに浸かっている状態だったのかもしれない。

 赤ん坊や幼い子どもたち、そもそも化物がそんな考えに至るかどうかわからない。

 それでも、人間に希望を与える優しい化物がいたっていいじゃないか。


「どうしてあなたが僕を弟子にしてくれたのかも思い出しました」


 その時かすかに反応があった。

 それでもできるだけ平常心で語っていく。


「あなたは紅葉邸の中庭で泣いている僕を見つけてくれました。もみじの木の下でしたね」


 誰にも見つかってはいけないと思っていたから見知らぬ少女に見つかった時はひどく驚いた。だがその子は、優しい笑みを浮かべながら僕の頭を撫でてくれた。それからこう言ったのだ。


「いたいのいたいのとんでいけー! 秋葉山までとんでいけー!」


 思えばその頃から綺麗な声をしていた。明瞭でよく通る声。

 それこそ、痛みや悲しみが遠くの山まで飛んで行ってしまいそうなほどに。


 おまじないが効いたのか、単純な僕は一瞬のうちに泣き止んでいた。

 突如現れた正体不明のかわいい女の子に目を奪われていた。視線に気づいた彼女はこう名乗った。


「私は騙り部。嘘しか言わない騙り部だよ。

 この街で泣いている人を笑わせ、困っている人を助けるためにいるの。人を幸せにする優しい嘘をつくのが騙り部一門だからね」


 その子は騙り部一門の逸話や歴史をたくさん教えてくれた。今まで聞いたことのない珍しくておもしろい話に心が弾んだ。

 僕はそこで初めて騙り部という存在を知り、騙り部一門に強い関心を抱いた。それを正直に伝えると少女がなにやら唱え始めた。


「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門ここにあり――」


 少女は同じように唱えるように命じてきた。

 意味も意図もよくわからないまま述べた直後、騙り部を名乗る少女はとてもうれしそうに笑っていた。

 その顔に見惚れて僕もいっしょに笑ったことを覚えている。その瞬間、彼女と僕が師弟の絆で結ばれたとも知らずに。


「これから騙るという宣誓。自分が騙り部だという主張。それから騙り部一門に所属する人がみんな家族だという証明。血の繋がりはなくても心が繋がっている。その証として初代頭領の言語朗と妻が考えて作った。それが『始まりの口上』……でしたよね?」


 とてもうれしかった。

 秋葉一族の恥だと罵られてきた僕に手を差し伸べてくれたこと。

 声をかけてくれたこと。

 なにより家族として受け入れてくれたことがうれしくて仕方がなかった。

 これまでそんな優しくて温かい言葉をかけてもらったことがなかったから。

 記憶を失った僕が彼女に再会した時、弟子にならないかと誘われてすぐ了承したのは、心が覚えていたのだ。


 目頭が熱くなったのでまぶたを閉じてこらえる。

 まだだ。まだ全部伝えきれていないから。それまで涙を流してはいけない。

 まとわりついた感情を振り払って僕は口を大きく開く。


「騙り部はもともと古津家の屋号です。言語朗を始祖として昔から古津家の人間が騙り部一門の頭領を務めています。だけど古津家以外の人間でも騙り部になりたいという人がいればこころよく受け入れていますよね。だから『一族』ではなく『一門』。そうですよね?」


 秋葉一族が血縁のつながりを大切にするように、騙り部一門は心情によるつながりを大切にしていた。その心情とは人を笑わせ楽しませる嘘や人を幸せにする優しい嘘をつくこと。


 利益なんて関係ない。意味があってもなくても嘘をつく。

 それが嘘しか言わない騙り部なのだ。

 それこそが僕の心を躍らせ、憧れ、愛してやまない騙り部一門なのだ。


「あなたは……騙り部は……本当に優しい嘘つきなんですね……」


 この人は合理的で打算的な考えをしない。僕に利用価値があるから弟子にしたのではない。かつて秋葉山の化物を殺さずにめとった言語朗のように優しさから弟子にしてくれたのだ。


 秋葉一族の人間であることを隠していたのも、名取のことを覚えなくていいと言ったのも、すべて僕のためだ。すべて思い出したらまた絶望して名前を取られてしまうと危惧したから。


 ベンチに座る彼女の頭に手を置くと、ゆっくり頭を撫でる。艶やかで綺麗な黒髪がサラサラと流れる。指通りの良いしなやかなその髪は、いつまでも触っていたいと思わせた。


 どうしていつも僕の頭を撫でていたのか。今ならわかる。

 今年の三月に存在を失った僕を助けてくれたのもこの人だ。

 親族の誰もが忘れたとしても彼女だけは絶対に忘れない。

 しかし、苗字を取り戻しても記憶は失われたままだった。

 そこで、もみじの木の下で初めて会った時と同じようにおまじないをかけてくれていたのだ。大切な思い出を取り戻せるように、と。


「やめて……」


 すぐに手を引っ込める。女の命とも言える髪の毛に簡単に触れていいわけがなかった。

 だが次の瞬間、その人は急に立ち上がって僕を抱きしめる。


 突然のことに驚きと戸惑いを隠せない。

 耳が、顔が、全身が熱くなるのがわかった。


 強く抱きしめられているはずなのになぜかその力は弱々しい。

 彼女の細い腕や小さな手が震えていることに遅れて気がついた。


「あなたなんて……そんな他人みたいな呼び方……やめて……」


 体だけでなく声も震えている。

 僕は腕をまわして彼女を強く抱きしめた。


 その体からは、あげパンよりも甘く、嘘よりも優しい匂いがした。

 僕はこの人を知っている。忘れても何度でも思い出す。

 騙り部一門きっての天才にして変態。

 歌詠みの騙り部。僕の大切な人。

 古津詠。


「ただいま戻りました……師匠……」


「おかえり……誠実……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る