第26話 ついに始まる。騙り部による騙りが――。
クラブ『
早く済ませてあげパンを食べようと師匠は笑う。この人は緊張とは無縁なんだろうか。まだ昼間なので人がいるか不安だったが、裏口から正さんが驚いた表情で迎えてくれた。
「どうしたの? 今日は仕事を頼むつもりはなかったけど」
「お困りじゃないかと思って来たんです。中に入ってもよろしいですか?」
師匠は明るい笑顔のまま嘘をつく。
正さんはなんの疑いもせずに招き入れてくれた。一人で開店準備をしている最中だったらしい。店内はあの時の
「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門ここにあり――」
中に入ってすぐに『始まりの口上』が述べられる。
師匠は赤い舌をペロッと出して不敵に笑って見せる。
ついに始まる。騙り部による騙りが――。
「騙してしまってごめんなさい。でも、これが私たちの本来の仕事なんですよ」
正さんは顔が青ざめて口も半開きになっている。
「さてさて秋葉正さん。私たちが来た目的はこれです」
師匠は白い錠剤の入った透明な小袋を掲げて見せる。
正さんは口を堅く閉じているが、それは答えているようなものだった。後ろめたさを隠すためか、目もそらしている。実際に違法薬物売買の現場を見た証人も証拠もそろっている。
「あなたには二つの選択肢があります。警察へ自首するか。秋葉家の当主に報告するか。 二つに一つです。お好きな方を選んでください。どちらも選べないというのなら……」
「ははっ」
師匠の言葉をさえぎるように乾いた笑い声が聞こえる。
「ははっ!」
今度はクラブ全体に響き渡るほど大きな笑い声が発せられる。
「いやあ、ごめんね。騙り部の騙りがどんなものか実際に見るのは初めてだからさ」
正さんはヘラヘラ笑いながら拍手する。こちらをバカにして挑発しているのが見え見えだ。こんな安い挑発に乗ってはいけない。どちらの答えも選べないのなら警察に通報を……。
「ボクは麻薬なんて売ってないよ」
よりによってこの人は、最悪の答えを選んだ。
けれど仕方ない。師匠が人の嘘を五感で判別できるという事実を知らなかったのだから。
「もう一度言ってあげようか。ボクは、麻薬なんて、売ってないよ!」
無知はこの世で最も恐ろしいことだと言っていたのは誰だったかな。
薄ら笑いを浮かべながら何度も叫び続ける正さん。見ているこちらが辛くなってくる。
もしかして悪事がバレた衝撃で心が壊れてしまったのか。
そんなことを考えながら師匠を見ると、顔を蒼白させて唇を静かに震わせていた。
「師匠? どうかしたんですか?」
こちらの呼びかけにも応じてくれない。
それどころか顔色はさらに悪くなって震えは全身に伝わっていく。
こんなに動揺する姿は今まで見たことがない。
「嘘、じゃない……」
師匠がかすれた声を出す。
「ははっ。君たちが言ってるのはコレのことだろ」
いつの間にかバーカウンターへ移動していた正さんが透明な小袋を掲げていた。
その中には、僕らが持っているのと同じ白い錠剤が入っている。
「サプリメントだよ。
ここではサプリメントしか売ってないんだ。ほら、確かめなよ」
小さな容器を投げてよこす。受け取ったものを見ると、たしかにサプリメントの容器だった。すぐにフタを開けて中身を手に出してみる。それは小袋の錠剤と同じ色と形をしていた。
正さんの主張も師匠の判断も間違っていないとわかる。
しかし……。
「こんなことして許されると思ってるんですか?」
感情的になっているのはわかっている。それでも言わずにはいられなかった。
「客にはちゃんとサプリメントだと説明して売ってるよ。医学部生なら特別な薬が簡単に手に入ると思う奴やドラッグの隠語だと勘違いする奴もいるみたいだけど、そんなの知らないよ。ただのサプリメントに大金を払ってバカじゃないかな。いや、バカにはいい薬か。ははっ!」
この人がなにを言っているのかわからない。
なぜ笑っていられるのかわからない。
「これは夢と現実の狭間でいい気分に浸ってもらうために必要な嘘なんだ。それに秋葉一族は合理的かつ打算的に動く。そしてボクは最も利益を得るために最も効果的な手段を選んだのさ。だからボクはなにも間違っていない。いつだってボクは正しいんだよ。君もそう思わない?」
騙り部は人を笑わせ楽しませる嘘をつく。人を幸せにする優しい嘘をつく。
だから僕は人を泣かせ傷つける嘘を許せない。
人を不幸にする醜い嘘を見逃せるわけがない。
「そんなの間違ってます!」
正さんの目の色がどろりと
まるでゴミを見るかのような
「秋葉一族が合理的に打算的に考えて動くことは知ってます。でもそれは秋葉市のため、秋葉市民のためのはずです。それなのにどうして……どうしてそんな醜い嘘をつくんですか!」
正さんは目元を手で押さえて肩を震わせていた。口元は大きく歪んで白い歯が見えている。時折、手の隙間から見える瞳はひどく濁っていた。彼は不気味な笑みを隠さないまま話す。
「なら詠ちゃんはどうなる? 君は美しい容姿に騙されて汚い本性が見えていないのか?」
「あなたのような人の心の痛みがわからない人でなしといっしょにしないでください」
「ははっ。本当になにも覚えてないんだな。その女が君になにをしたのか」
正さんは煙草を口にくわえて火をつける。白い煙を吐き出しながら嘲笑う。
「前に教えてあげたじゃないか。君は騙されているって。なあ、秋葉誠実くん」
それは僕の名前。嘘偽りのない本当の名前。
でも、それがどうした。
秋葉市では別に珍しい苗字ではない。
ただ、どうしても権力者の秋葉一族と間違われやすいからあまり名乗らないようにしている。現に同級生の日佐子さんも勘違いしていた。
「相変わらず話の真意を読み取れない奴だな。同じ秋葉の姓を名乗っているのに情けない」
正さんは煙といっしょに汚い言葉を吐きかけてくる。
「君の両親や家のことを思い出してみなよ。断言してもいい。君はどちらも忘れている」
「そんなわけ……」
否定の言葉が喉の奥で止まる。
僕は両親の急な転勤で親戚の古津家にお世話になることになった。しかし両親の顔も名前も住んでいた家のことも思い出せない。それどころか高校に入る前のことがすべて思い出せなくなっている。
これではまるで記憶が……。
「ははっ。記憶が消えてるだろ?」
不安が表情に出ていたのか、正さんがヘラヘラ笑いながら言い当てる。
「君は今年の三月に記憶を失ってるんだよ。詠ちゃんは化物のせいだと言っていたが、そんなものがこの世にいるわけないだろ。単にストレスで一時的な記憶障害になっただけだよ」
医療を学んでいるこの人はそう判断する。以前の僕も同じ結論を出しただろう。
だが今は違う。
騙り部一門に入り、歌詠みの騙り部の弟子として活動してきたのだから。
名取だ。
人間の名前を取って存在そのものを奪ってしまう化物のせいだ。
「ちょうだい」
幻聴が聞こえてくる。
僕だけに聞こえる女とも男ともつかない幼い子どもの声。
「記憶障害に陥ったきっかけを教えてあげようか。あれは秋功学園の合格発表の日のことだ。あそこは秋葉一族が経営しているから秋葉家の人間は必ず受験する決まりだ。もちろん、成績優秀者の一組に所属する。君の兄の実人くんは一組だし、分家のボクだってそうだ。でも誠実くんは何組に配属された? そう、劣等生しかいない六組だ。僕や親族のみんなは君のためを思って今後どうすべきか意見してあげた。それなのに君は突然いなくなって秋葉一族に関するすべてを忘れてしまったんだ。この程度で精神がやられるなんて恥ずかしいと思わないの?」
失われていた記憶が次々に蘇っていく。
紅葉邸を知らなかったのは秋葉一族に関する記憶を失っていたから。
それでも中庭に行けたのは体が覚えていたのだ。
使用人たちが噂していたのは師匠ではなく僕のことだ。
実人さんがひどく驚いた顔をしたのは、いなくなった弟が帰ってきたから。
本家に生まれた男の名前に付けられる『実』という字は僕にも入っているじゃないか。
「そこに嘘しか言わない騙り部という胡散臭い奴がやってきた。人手不足に悩んでいた奴らは、素直で正直で従順な人間が欲しかった。そこで記憶の失った君に都合のいい記憶を植えつけ、好きな時に好きなように使える弟子として騙り部一門に無理やり入れたんだよ」
「違います! 嘘をつかないでください! 私と誠実はずっと昔から……」
「ははっ! 嘘しか言わない騙り部の言葉なんて誰が信じる?」
正さんと師匠のやりとりを最後まで聞かず、僕は裏口から外へ走り出していた。
行き先なんて決めていない。
頭で考えずに足の向くまま走るだけだ。
どこでもいい。いや、どこにも行きたくない。
大嫌いな秋葉一族が治めてきたこの土地にいたくない。
もうこの世からいなくなりたい。
なにもしたくない。
すべて捨ててしまいたい。なにもかも手放して自由になりたい。
「ちょうだい」 「ちょうだい」
「ちょうだい」 「ちょうだい」
「ちょうだい」 「ちょうだい」
次第に幻聴がひどくなっていく。
舌っ足らずな子どものような声がこびりついて離れない。
気がつけば駄菓子屋の前だった。無意識のうちに向かった先がここなんて……。
急に誰かに手を掴まれて足が止まる。振り向くと師匠が立っていた。
「待って! お願い! 私の話を聞いて!」
肩は大きく揺れて息も絶え絶えになっている。それでも絶対に離すまいと手に力を込めているのがわかる。
「僕が秋葉一族の人間であることを知っていたんですね?」
なぜ会ったばかりの僕を弟子にしたのか。
今ならわかる。利用価値があると思ったからだ。
思えば昔からそうだった。
秋葉の姓を名乗るだけでどんな相手もすり寄ってきた。
時代が変わっても権力者一族の威光は健在なのだ。
「騙していてごめんなさい……」
「いいんです。なんの価値もない僕にあるのは苗字……いえ、血筋だけですから」
「違う! 違うよ! 誠実にはたくさんいいところがある。そんな悲しいこと言わないで」
ああ、この人は本当に優しい人だ。
こんな時でも優しい嘘つきなのだ。
けれど……。
「ちょうだい」 「ください」
「なまえちょうだい」 「みょうじちょうだい」
「ぜんぶちょうだい」 「ほしい」
「いらないならちょうだい」 「くださいな」
「ちょうだいよ」 「ねぇねぇちょうだい」
この幻聴の正体もようやくわかった。名取だ。
親族に責められている時と同じ声だ。
その時なんと答えたのかも思い出した。
一言でいい。たった一言で僕の願いは叶うのだ。
「その優しさは……僕には辛いです……」
僕は愛想笑いを浮かべたまま手を離す。
それでも彼女は必死に手を伸ばしてくる。
すぐに心の中で名取に向かって告げる。
全部あげる、と。
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