第6話 ふたりの絆

 暗い夜道を並んで歩く。


 師匠は僕よりほんの少しだけ背が高いので、空を見上げると彼女の綺麗な顔もいっしょに視界に入ってくる。『美人は三日で飽きる』というけれど、あれは嘘だと確信を持って言える。


 僕は胸の鼓動をごまかすように尋ねる。

「もし坂爪日佐子さんが苗字もいっしょに取られていたらどうなってました?」

「片方だけなら時間をかけてゆっくり消えていくけれど、両方ならすべて一瞬で消えてしまう。誰もその人のことを覚えていないし、写真も戸籍もその人がいたという記録もなくなっちゃう。名前を取られた人は……なにもない真っ暗な空間で永遠に過ごすことになってしまうかな」

「それは辛いですね……」


 名前を取られると一時的に世界から消えるだけと言っていたけれど、それが一生続くなら死んだも同然じゃないか。それなのに名取を倒すことも捕まえることもできないなんて……。


「もう、そんな顔しないの。苗字も名前も両方取られてしまった人を助ける方法はあるよ」


 師匠が口元を手で押さえながら困ったように笑っている。


「日佐子さんもその方法を使えばもっと簡単に救えたんだけどねー。でも、それだと根本的な解決にはならなかったと思うんだ」


 結局のところ、名取という化物はいったいなんなのだろう。

 どうして人間の名前を取るのか。

 人間の名前を食べて生きているのだろうか。

 それとも人間を困らせて楽しんでいるだけなのか。

 考えれば考えるほどわからない。


 だが師匠はそれ以上詳しいことは教えてくれないし、名取のことは調べることも考えることもしないように忠告されてしまった。


「知らなくていいことは知らなくていいし、覚えなくていいことは覚えなくていいんだよ」


 いつも聞いてもいないことをベラベラ話す人なのに、珍しいこともあるものだ。

 いや、僕が未熟だから教えてもらえないのか。

 もっとがんばらないと……。


「それより誠実」

 師匠が手を差し伸べる。


 手のひらが上に向いているからお手を求められている?

 いやいや、犬のしつけじゃあるまいし。

 いくら師匠でもそんなことはしない……はず。


 先ほど見逃したものを渡せということだろう。

 周囲に誰もいないことを確認してから渡す。

 師匠もポリ袋の中身をチラッと確認してすぐに制服のポケットにしまう。


「すみませんでした」

「あれあれ? なんで誠実が謝るの?」

「その薬は、日佐子さんが名前を取られた直接の原因かもしれないのに……」


 名取は心の弱っている人間のもとに寄ってくるという。なんらかの理由でドラッグに手を出した日佐子さんは、精神的に不安定になってこの世から消えたいと考えた。その結果、名取に名前を取られたとしてもおかしくない。


「んー。たぶん違うんじゃないかなぁ」


 僕の考えを師匠はやんわりと否定する。

 それから足を止めて問いかけてくる。


「ねぇ誠実。陽介さんが日佐子さんと仲が悪いと嘘をついていたことには気づいてる?」

「はい。あんなに喜んでいる二人を見たら誰だって仲のいい兄妹だとわかりますよ」

「仲のいい兄妹……ね。本当にそう思う?」


 暗い夜道で師匠の表情がよく見えない。

 それでも明るい声は、しっかりと聞こえてくる。


「陽介さんがついた嘘はたくさんあるよ。日佐子さんが友達の家に泊まりに行ったこと、部屋に入ったことがないこと、それからお互い口を利かないくらい仲が悪いということ」

 師匠は陽介さんがついた嘘を次々に挙げていく。

 

 だが今ならいくつか思い当たる節がある。


 友達の家へ行って帰ってこないなら、その友達の家か、道中で名前を取られたと考える方が自然だ。それなのに師匠は、すぐに坂爪家へ行こうと提案してきた。


 陽介さんは、冷静さを欠いていたから日佐子さんの部屋に入っていないと言った。それなのに、彼女の友達に聞いたり学校の名簿を見たりと妹の存在を確認している。そこまで冷静に行動できている人が妹の部屋を確認しないのは考えにくい。


 師匠は最初から気づいていたのだ。

 あの部屋でふたりの間になにかあったということを。


「どうして陽介さんと日佐子さんは、仲が悪いように振る舞っていたんでしょうか」

「たぶん、仲のいい兄妹と思われたくなかったからじゃないかな」


 意味がよくわからなかった。

 どうしてそんなことをする必要があるのだろう。


 首を傾げながら歩いていると、前から談笑している男女の二人組が見えてきた。互いの背に腕をまわして抱き合っているから、すぐにそういう関係だと気づく。


 それが先ほどの坂爪兄妹の姿と重なった。


 その瞬間、一つの答えが導き出される。


 いやいや、あり得ない。

 そんなわけがない。


 だって、あの二人は……。


「陽介先輩と日佐子さんは、なんじゃないかなぁ」


 しくも師匠と僕の答えは同じだった。


「感動の再会を果たしたあの二人は互いの名前を呼びながら抱き合っていたね。まるで愛する人を呼ぶような甘い声で。いくら仲のいい兄妹でも年の近い男女がそんなことするかな」


 友達も教師も両親も忘れているのに、兄の陽介さんだけが日佐子さんを覚えていた理由。

 師匠は想いが強いおかげだと言っていた。

 それは妹としてだけでなく一人の女の子として愛していたからなのか。

 それなら誰よりも想いが強い理由にも納得がいく。

 憎悪ではない。

 とても優しくて尊い、愛情という強い繋がり。


「指輪の裏に印字されていたイニシャルは覚えている?」

「たしか……『Y to H』……あっ!」


 陽介さんのYと日佐子さんのH。

 あの二人のイニシャルと同じじゃないか。

 しかしシルバーリングなんて似たようなデザインのものがあるだろうし、イニシャルが同じ人だってたくさんいるはず。偶然だ。偶然に決まっている。


「陽介さんが左手の薬指にしていた指輪と小箱に入っていた指輪は同じものだよ。それから写真に写っていた二人は指輪をはめていたよ。誠実は見なかったの?」


 僕は小さく首を横に振る。

 そこまでちゃんと見ていなかった。


 そこで日佐子さんのノートにあった男の文字の正体にも気づいた。部屋に入ったことがないと嘘をついて勉強を教えていた陽介さんだ。

 受験に落ちると思っていたのも嘘だろう。あの人は妹想いの優しい兄であり、恋人と同じ高校に通いたいと願う男の子でもあったのだ。


「じゃあ、師匠が二人の記念日を聞いたのは……」

「うん。大切な人との思い出の品が入っているならそうじゃないかなぁと思って」


 あの二人にとっての記念日とは、兄妹でありながら恋人になった日だろうか。


「でも、本当に薬が原因じゃないんですか?」

「この薬の入手先は調べる必要があるけど、あの子から薬の臭いはしなかったよ」


 師匠は他人の嘘を五感で見破るだけでなく、薬を服用しているかどうかもわかるのか。

 麻薬探知犬みたいですね、と言ったら怒るかな。

 いや、笑顔でお手をしてきそうだ。


「なら日佐子さんが名前を取られた原因は……」

「名前を取り戻して姿を現した日佐子さんは『どこにも行かないで』と言ったよね。それから陽介さんは『どこにも行かない』と返した。でも、これっておかしいと思わない?」


 たしかに。

 どこかに行ったのは日佐子さんだ。

 それなのに陽介さんが「どこにも行かない」と答えるのはおかしい。

 互いの言葉が逆なら納得いくけれど。


「陽介さんはあの部屋で話をしたんだよ。たぶん、進路のことじゃないかな。三年一組の生徒なら県外の一流大学への推薦も受けられるから。でも、それが原因で口論になった。もし陽介さんが都会へ行くなら離ればなれになっちゃう。不安になった日佐子さんは、名取に苗字を取られてしまった。混乱した陽介さんはすぐに部屋を出ていったってとこかなぁ」


 陽介さんが部屋に入ろうとしなかったのはそういうことか。

 日佐子さんが苗字だけを取られた理由も察する。

 この国の法律では兄妹で結婚はできない。

 それならせめて同じ苗字でなければ……。

 苗字を捨ててでも愛する兄と結ばれたいと願ったせいではないだろうか。


「なんてね。私は嘘しか言わない騙り部だから。これも嘘か本当かわからないんだよ」


 悲しげな声が聞こえてくるのに、辺りが暗くてどんな顔をしているのか見られない。


「僕は嘘を見抜けないですし、兄妹がいないので本当のことはわかりません」

「……そうだね」

「でも、もし本当にあの二人が愛し合っているなら……末永く幸せになってほしいですね」


 部屋を出る時に師匠がかけたのは別れの言葉ではない。

 あれはきっと祝福の言葉だ。


 騙り部は人を幸せにする優しい嘘しかつかない。

 だから僕もそういう嘘をつきたい。


 師匠の右手が僕の左手に触れる。

 そのまま指と指が絡まっていき手と手が繋がれる。


 見上げると彼女は、なんてことないように微笑んでいるようだった。

 こっちは顔が熱くて仕方ないというのに。


「あの、師匠? どうしたんですか?」

「ふふふ。こうしていないと誠実がどこかに行っちゃいそうな気がしたから」


 その言葉をそっくりそのまま返したい。

 師匠は美しさといっしょに怪しさを持ち合わせていてどこか浮世離れしている。

 この人は目を離したら空へ昇っていってしまう天女てんにょではないかと思うことがあるのだ。

 そんなことあるわけないのに、どうしてか不安になる時がある。


「ねぇ誠実。今度デートしよう。服を買って、ゲーセン行って、いっしょに写真撮ろうよ」


 師匠の提案はいつだって突然だ。

 それでも僕は喜んでうなずいた。


「もしも私が名前を取られた時は誠実が助けてね。絶対だよ?」


 師匠の手は小さく柔らかくとても温かった。

 僕はその手を少しだけ強く握る。

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