事件の発生
で、自分はいま半熟目玉焼きをつくっておる。が、しかしまあ横たわった白身の中央に据わった黄身という構図全体をよくぞ目玉に見立てられたもんだと思う。これが目玉だとどうにか見立てたとして、すると虹彩、瞳、角膜、盲斑、視神経といった構成要素はどないなってんやろか。黄身は当然のことながら瞳、ていうかこれしかなく、それを覆う膜が角膜、割れば半なまの黄身が流れ出、これがガラス体なのか。したら盲斑は視神経はどこや。どこやねん。おい。どこじゃと訊いてんねんこらあッ。答えろッ。どこをどう見立てたら目玉に見えんじゃこの噓吐きがッ。
と思いたくなるのは自分が目玉を百個ぐらい焼いてきたからである。目玉を焼く、焼き続けるっちうのは身体の疲弊をじかに感じてしまう行為である。飽きる。合せて目玉焼きを食べられないことも辛かった。
いま思い出してもむしゃくしゃする。おばあさんは百万円を得たいがためにおれを出し抜いたのだ。あんばばあめ。いくら自分がカワイソウな立場にいるとはいえそれを利用するのは卑怯だ。断れないじゃないか。しかもTV局まで見送りに行くとまで言い出すのは明らかに計画的である。
スタッフに連れて行かれたのはキッチンで、さらにあとからやつてきた女たちがぞくぞくと羽織っていた上着を脱ぎエプロン姿に着替え始めた。スタッフにこっそりと聞いたところ
「エプロンがない? あなた調理師でしょ。なんで持ってないの。はあ、これだから困るんですよね、ちゃんと用意して下さらなきゃ。あのね、あとで洗って返してくださいよ。」
と顔をしかめて真っ白のエプロンをぶっきらぼうに渡された。そのときは大喰いの際に胸が汚れてもいいように着けるのだろうと納得したが、なぜかおれはいま目玉焼きをつくっておる。
は?
いったいぜんたいどういうことだろうか。おれは何もかも厭になって目玉を睨みつけ、三個ほど卵をくすねてトイレットに出かけるふりをした。
階段のまえまで来ると案内板が眼についた。
五階 第六スタジオ
そうだ。どうせTV局に来たのだから大喰いぐらいしてやろうじゃないか。おばあさんがおれを出し抜くつもりなら、逆におれがおばあさんを出し抜けばいい。
スタジオには百人程の人がひしめきあっていた。十人十色さながらの、学生もいれば爺さんもいる、小学生もいれば中年もいるといった様ざまな世代からの物好きが雛祭りの飾りつけのように段段に並んで坐っている。と、手前に立っていた女が名簿を確認しながら
「早くこっちへいらっしゃってください!」
鋭い眼差しで腕をむんずと摑んで駈けてゆき、エプロン姿のままでセット裏に連れて行かれた。スタジオ内部からマイクの声が響いていた。
「次の方はこちらです、どうぞ!」
カーテンが引かれて太陽を突きつけられたかのように眼の前がまばゆい。仕方ないから闇雲に前へ進むと脇からにゅうとマイクを差し出された。
「お仕事は精神科医でいらっしゃる? 普段はどのようなことを?」
「ええ、そうですな、はい。実はかれこれ三十年くらいロボトミーの手術をやっておりますです、はい。」考えるより先に口が滑ってしまっている。
「ロボトミー? なんですかそれ。」
「ロボトミーはロボットとミー――すなわちわたしのことですが――の略語でして精神科医といっても最近はカルテはすべて電子カルテですし予約受付もインターネットで済ますようになりましたもんで、はい。ですから機械と医師という連繫が必要不可欠な手術なのですな、はい。」
司会者は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに気を取り直して笑みを浮かべた。
「では今回もし百万円を獲得なさいましたら、何にお使いになりますか?」
「寄付です寄付寄付。世界の飢餓に苦しむ何千万という人びとを救うために、わたしがただ大喰いするのではなく、かれらにもたんと喰わせてやりたい。それを願うのみですな、はい。」
司会者のほうに目をやるとかれはしかめっ面をしていた。恐らく今までにこのような理由は聴いたことがなかったのだろう。旅行に出かけるやら留学資金やら親孝行やら私利私欲にまみれた紋切型の願いばかりなのは目に見えている。
「それでは参りましょう! レジェンド・クイズ、スタート!」
待て。クイズだと。どういうことだ。おれは謎の人物への変り身ならぬ代り身を果そうとして饒舌に語った。あまりに夢中で気がつかなかったが、ここ第六スタジオは大喰い会場ではないのか。よくよく気にしてみればステージに立っているのは司会者とカメラマンそのほかもろもろがゐる。壁には大きな画面が広がっている。それにおれはスタッフに小型マイクまで着けてられている。まさか咀嚼音を集積するわけではあるまい。これらを綜合して、とても誰かと競う状況には見えない。そもそも精神科医がなぜ大喰いなどに参加しなければならないのだろう? 食欲とドーパミンの関係を調べるためか? それとも
「おっと時間が過ぎてしまった! それでは答えてもらいましょう。第一問の答えを!」
しまった。考えるのに熱中して問題を見ておなかった。画面画面どこだ画面画面画面。
第一問 中華人民共和国の国旗に描かれている星の数は五
わっ。消えた。問題が消えたわ。焦るな焦るな。まだ第一問だぞ。きっと簡単なはず。中国の国旗には星が五つ。それはわかるわ。だがこの後に続くのはなんだろうか。国旗・星ときているのだから同じ国旗・星にちがいない。すると同じ社会主義国家のヴェトナムか? ヴェトナムの星はひとつ。しかしあまりに安直過ぎる。恐らく中国と対照をなす国だらう。とすると……
「五十個。」民主主義国家のアメリカ合州国…… 星条旗と言うぐらいだから出てくるに決ってる。
「いやあ、この問題はさすがに簡単でしたね、先生。」
「いや、むずかしかったですな。」
この調子で答えていった問題を並べると次のようになる。
第二問 千代田区は元もと何区と何区とが統合してできたか。
答 神田区と麴町区。
……
そのとき舞台裏でビンの割れる音がした。おれは何事ならんと脇目も振らずうしろへ駈け出し、つまづきながら薄暗い辺り一面の向こうに白い靄が見えて近寄るとひとり突っ伏して魚みたいに伸びている。「あっ」血や。血が床にぶち撒けられておる。殺人・殺し。そげな物騒な言葉ばかり浮んでくる。尋常じゃない。それじゃあこりゃ屍体の仏か。放つ言葉が見つからず脚が棒になっているところへ次つぎスタッフがたかってきて「ちょっとちょっと何してんすか撮り直しっすよ。クイズに戻ってください。」言ったかと思うと一目見て固まる者、しゃがみ込む者、後退りする者など様ざまおる。天井の照明を浴びせてみると大きな溜息を漏らす者もいた。というのは道理で、そこには鴉よりも真っ黒に染まった床に覆いかぶさるようにして女が倒れていたのである。
「墨汁ですな。」キャメラを担いでいた男が呟いた。
「どうしてこんな所で寝るのかな。ほら、起きてくださいよ先生。」
隣のスタッフがしゃがんで女の帯を揺さぶったがすぐに顔をしかめて手を離した。掌が墨汁にまみれていた。
「きゃー」
すると井戸の底から湧き上るかのような悲鳴が響いて空気が凍りついた。恐る恐る振り向けば女のスタッフが今にも眼鏡から眼が飛び出しそうになって
「ひ、ひひひひひひひひひひひひいいいいいいい」
あまりの奇声にみな押し黙っていると
「ひひひ百万円がないないどこにもない!」
蜂の巣をつっついたかのように騒ぎ出した。
次回、最終回(未完)
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