ビュッフェの惡夢

 ビュッフェの制限時間は二時間である。そのあいだ、すべてを喰らい、喰らいつくした。

 これだ、これしかない。春巻の廃棄を避けるにはこうするしかない。

 大皿はまたたく間に消失した。もとい、春巻はまたたく間に消失した。またたきしただけで消えてしまったようだ。あとはこなされるのを待つのみである。腹は渦巻いた。鳴門なると

 斜めの席にすわる女がこちらをじっと見据えていた。くやしそうな眼だった。その哀しみに満ちた女の顔は無言でこう語っている。

「春巻全部たいらげちゃったんですか」

 わっ、しまった。なんということか。蟹目的でないひとがビュッフェには来ていたのだ。

 当然のことながらこの自由民主主義社会においてはどんな思想も自由である。バナナが嫌いでも恨まれることはないし、毎日ご飯にチョコレートをかけても差別されず、きのこよりたけのこが好きでも危険思想だと判断されないのは憲法が保証しているからである。

 何人といえども蟹や春巻を不当に扱ってはならず、また、国民全体の幸福と衝突しな範囲で、蟹も春巻も自由に扱わなければならない。それを認知しない者などまことに鈍感としか言いようがなく、そういうひとに限って胡瓜をキューカンバー、苺をスチョロベリー、犬に向って猫などと叫び、わかめを昆布または海苔と信じて疑わないのだけど、他人から言わせりゃ「おまえこそ世の春巻好きを無視する暴挙に踊り出た頓珍漢の、眼が節穴の埴輪はにわだい。」とジャンピング土下座を迫られてもおかしくはない。

 哀しみの女に慰めるようにして寄り添っていたもうひとりの女が向こうからつかつかと歩み寄ってきた。

「やい、てめえ。そう、おまえのことだよ。よくもわたしの姉貴をいじめてくれたな。なんか言うことあんだろぼけ」

「や、やめてやめてやめてくださあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 幻聴が聞えてきた。いつの間にかわきはしめり、ひたいには朝露ほどの水滴がついていた。手は小刻みに震え、瞳孔は動かなくなっていた。女は席のすぐ脇に立ち、名刺を取り出した。

「先程の食べっぷり、とくと拝見いたしました。あたし、目本テレビの山羊と申します」

「テレヴィですって。きつい冗談よしてよっ」

「あははははは、うたぐるのも無理ないことです。あたしはただのスタッフですから」

 女はふところから二枚のチラシを取り出した。


 ザ・キング・オブ・フード 企画書

 ザ・キング・オブ・フード 予選案内


「なんです、これは」

「今度、日本中からたくさんの人を集めて食べっぷりを競うという企画があるんです。それであたしはその予選を担当しています。予選のメムバーはすでに決っていたんですが、こないだひとり倒れちゃいましてね、こう書くんですけど知ってますか」

 女は胸元からメモ帳を摑み出してすらすらと書いてみせた。


 喆嚞囍


 おれは、ふむと嘆息した。こんな人物がいるわけがないのである。芸名だとしてもこんな名付けはありえぬ。

 幼い頃に絵が文字になっているという漢字の合理性に感嘆し、最近では漢字が1秒に7字も理解できるものだと知ってますます感嘆したほど自分は漢字が好きである。

 高校のときに漢検1級を取得しようと本屋に出向いて対策本とやらをめくってみたことがある。しかし問題の出来のはなはだしさにあきれ、漢検そのものが漢字をよく知らないとわかりやめてしまった。

 また、おれは日本の食文化の源泉・ルーツは中国にありと睨んで、大学では中国の食文化の研究をしてきた。それゆえ第二外国語は中国語を選択し、卒業論文をこしらえる際には必要があって夏にもっぱら中国に滞在、日本の食文化は広東料理に由来しているのではないかと結論づけたのだったが、はっきり言って中国語を学ぶのは大変だった。

 日本も漢字の国だからと安易に思っているかもしれないが、実は漢字こそ曲者で、日本の漢字と中国本土の漢字、香港や台湾の漢字はそれぞれ互いに異るのである。漢字の分布を簡単に記せば、簡体字(中国本土等)、繁體はんたい字(台湾・香港等)、日本字(日本)となるだろうか。

 もちろん向こうに住まないかぎりは最低限の簡体字を知ればよい話だが、おれはできる限りの漢字を網羅しようとした。

 と言ってもむずかしいことはしない。ただ漢字辞典をすみからすみまで眺めるだけである。小学生の時のように漢字ドリルなぞ用いなくとも漢字にたくさん触れればおのずとその体系が吞込め、すらすらと頭に入るのである。

 たとえば「」は高と至を組合せた形であり、頭のなかで合体させて納得がゆけば忘れることはない。寿の旧字「壽」だって、「さむらいのフエは一インチ」という覚え方があり、これによっておれは家の正面にある蕎麦屋の屋号がようやく読め、開高健や山口瞳の勤めていたサントリーが一九六二年まで「壽屋」だったことを知ったのだ。

 また、代表作『国語入試問題必勝法』を書いたパロディストの清水義範よしのりによれば、かれは小説家なのに「挨拶」という字が書けず、ある日パーティで会った代表作『火垂るの墓』の野坂昭如あきゆきにムヤクタと覚えればいいよと教えられたそうである(え・西原理恵子『はじめてわかる国語』講談社文庫)。

 かくして中国人でさえ知らないような漢字や文字を幅広く習得したおかげで自分には筆蹟鑑定の力がついてしまった。今では崩し字や金釘流、学校の先生が厭がる下手くそな字でも読めてしまう。

 それらの智識を総動員して見れば「喆嚞囍」はかなり奇怪な字面だと言わなければなるまい。

 女の書いた吉は士の上端と下端がおなじ長さで、おそらくは過度にも几帳面なのかも知れないが、注目すべきはそこではなく「喆」と「嚞」である。

 実は「喆」と「嚞」とはともに哲の異体字なのである。

 つまり最初の二文字は「哲哲」。

 これだけでも妙なのにさらにもっと妙なのは「囍」で、卒業論文を書く必要があって中国へ出かけた際のことだったが、国文学を教えている助教授の結婚式があり御呼ばれされたことがあった。しきりに目についたのはその会場の窓や門に貼ってあった、大判の紙に紅い色で大書された「囍」で、隣にいた友人にそっと尋ねるとこれは婚礼などの祝い事に用いる「双喜字サァンシィズゥ」だと言う。喜がふたつ、花婿花嫁もふたり、まことにめでたいではないか。かれはそのとき「囍」をシィと同じくシィと発音していたが、辞典で調べてみるとこれはあくまで便宜的なものに過ぎず、驚くべきことに本来は発音などないとのことである。

 すなわち「喆嚞囍」は「哲哲囍」であり、発音のない字が入っているのであり、「哲哲」あるいは「哲哲喜」ともいえ、テレヴィに出演する以上こんな妙ちきりんな覚えにくい芸名に果してするものだろうか。

 考えられる可能性はただひとつ、たぶん当人は漢字についてはまったくの門外漢にちがいなく、どうせ映るんなら縁起のいい漢字を使おうという魂胆のもとにめくらめっぽう無理くり作った芸名なんだろうね。テレヴィ局はもちろん、当人でさえ読み方は知らないのである。

 とここまで考えたとき、沈黙のうちにおれが企画書と予選案内に目を通し熟読したとでも思ったのか、

「もうおわかりだと思いますが、このなんとかという人の代りを務めて欲しいんです。先程の春巻パワーを見せつけてやってくれませんか。我々一同、本大会はあなたのご活躍をお待ちしております。決ったらなるべく早目に名刺にお電話ください。よろしくお願いします」

 熱っぽくお願いし、女はぺこりとお辞儀して、さっさと席に引返していった。

 やべえな。やべえことになっちまった。あの女まだこっちをうかがってるよ。

 なんと彼女はこの、ビュッフェ、に腰を据え目を据えて予選人数の穴を埋めようとしていたのであったか。では斜めの席に坐る女は同じくテレヴィ関係者か。じっとくやしさをあらわにした眼でこちらを視ていたのではなく、春巻に喰らいつく様子を文字どおり喰らいつくようにして観察していたのであったか。

 ひゃあ恐しい。なんちうビュッフェの惡夢だろうか。恐しい恐しい。


 つづく

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