喰いもんを粗末にすな

 もだえた。後ろにわんさか溢れる客人はますます増えるばかりで途絶える気配は皆無、早くもそのビュッフェとやらを拝んで帰りたい気持でむんむんだったが、早くもその気持は潰れた。沈降。騒騒しい所で飯など喰うと他人のくちゃくちゃだのもぎゅもぎゅだの生生しい人間らしさがそこらじゅう満遍なく散らされ、沙漠で遭難して今日やっと眼の前に懐かしい咀嚼音が現れたんなら泣くかはなをすするかして感動にふけったのだけど、あいにく今まで鳥取砂丘しか沙漠的な場所は未体験なので、涙は雀の涙ほども存在せず、ただ咀嚼音に幻滅するという現象のみそこには存在する。自分としては無論早くビュッフェを喰いたかった。いくら偽善のビュッフェといえどもまさか腹ぺこの人間を差し置くというわけではなかろうし、偵察とは言ってもあくまでそれに名目的な部分があるのは否めず、本質的なことは腹一杯喰ってくることだった。

 食事とは何のためにあるか。すなわち餓えを満たすためにある。これは真である。決して紙芝居を見たり鳩に米をやったりというような、しなくても生きてけることではない。食事は、原人、いやそれ以前のダニ、ゴキブリ、アブラムシ、カビ、大腸菌、コケ、草に至る祖先まで共通している普遍的かつ不変的な必須行為であって食事なしでこの世に存在する生き物など存在しない。って言ってるうちによくわかんなくなって「植物に口なぞあるまい。噓をほざくのはよせ。」と卓袱台ちゃぶだいをひっくり返し茶碗蒸しをぶち壊すおじさんが出てこないとも限らないのであらかじめ卓袱台をひっくり返し茶碗蒸しをぶち壊して説明すると、おれはわざわざ解りやすいように人間の言葉に直して食事と言ってるのであって、イートと言おうがハヴと言おうが何でもよく、栄養を得るための光合成が食事に含まれないと言うつもりはない。もしこのビュッフェがビュッフェと銘打ちながらもダーツなどするだけの不埒ふらちな場所であるとすれば、それはあらゆる生命に対する冒瀆であり、おばあさんのみならず鰻、蟻、バナナ、鮪、鰹、鰯、ゴリラ、チンパンジーそして人類などのためにビュッフェを徹底的に駆逐せねばならない。

 しかしビュッフェはきちんと食物を用意していた。見た目に関してのみ言えば、それは古今東西、和洋折衷の趣きを感じさせる色いろなものがあった。

 たとえば春巻があった。大皿に山盛りにされた春巻は如何にも大量生産品という雰囲気があった。わたしは悲しくなった。何と言ってもおばはんたちが蟹に群がっている様子がわたしの悲しみの横溢するところであった。悲哀の横溢おういつ。どばっ。蟹は注目される。春巻は注目されぬ。この差はなんだ。このまま消費されずに大量の春巻をゴミに出していいのか。いいはずがない。世界の飢餓に苦しむ何千万という人びとの眼の前でパンがなければケーキを食べればいいじゃん、ポイ、というような政権がことごとく人民によって鼻糞ポイされるのは周知の事実である。

 いったいどうすれば好いかしらと苦悩。春巻の中に蟹を詰込み、合体させて蟹を作ればいいのか。あるいは蟹型パンを大量に輸入すればいいのか。

 そのとき流れ星が光った。

 ある。ひとつだけ解決方法があるっ。


 つづく

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