第5話 とある戦場の一コマ

 戦いに来たのは、好き好んで、ではなかった。

 最初は、だ。今は違う。

 違う、はずだった。

「ほぅ、坊や……抱いてやろうか?」

 古びた家の地下室。敵方の一般市民の逃げ場は、大体そこと決まっている。

 開けた瞬間、逆に撃たれるのではないかと身を隠しながら開けたドアが、ギシぃと錆びた音をたてながらゆっくりと開いた。

 途端に広がるカビの臭い。

 オレは微かに眉を顰める。銃声はしない。

 あまりの臭いに一瞬だけ手で鼻と口とを覆ったが、オレは意を決してドアの前に立ち、中に向かって銃を構えた。

 え……今……なんて言った?

 目の前の暗がりには、ぼんやりとした明かりを放つランプ。その横で微笑む女がいた。

 銃は構えていない。ナイフもだ。

 薄ぼんやりとした光の中に浮かぶ長い黒髪はつやりと光り、淀んでいるように見える瞳の奥には媚びとは真逆の鋭い光が浮かんでいる。

 まさしく妖艶という言葉がふさわしい美女だ……その身からにじみ出る不気味さすら、彼女の魅力を引き立てるものでしかない。

 しかし、先程の高圧的な言葉が気になった。

 抱いて

 いったい、何様のつもりか⁉

「命乞いのつもりか……貴様、さてはそうやって生き延びてきたんだな!」

 オレはジリっと一歩を踏み出した。

「命乞い? まあ、そうだね……命は大事だ……それにしても、お前達兵士のやることは、いつの時代も大差ないな……殺し、汚し、奪い……そして狂う」

 女はランプを手に立ち上がった。

 長い手足に、黒いロングドレス……ドレス? なんでドレスなんか着てるんだ!?

「近づくな……撃つぞ!」

 部屋中に充満するカビの臭いに、なにか甘い匂いが混じっている……いつからだ? まるで、なにかの花のような……くそ、視界がぼやけて……

「どうぞ……その指が司令塔であるお前の脳のいうことをきくのなら、撃てばいい」

 女が言い終わらない内に、手の中から銃が落ちガシャン、と派手な音をたてた。

 かと思うと、すぐにズズズーッと床を這い暗闇に溶けていく。

 指が……いや、力が入らないのは指だけじゃない。視界もぼやけているし……そうか、これは毒だ……

「悲鳴一つあげない女など、組み敷く気にならないか? こないだの兵士がそう言っていたわ。きゃあぁあ、とか、ひぃいぃ、とか叫んでみろ、とな……それとも、あまりの恐怖に言葉も出ない、ってパターンがお好みか? あいにく、そんな言葉は言ってやらないし、そんな表情かおは見せてやらないが、言わせてやってもいい……させてやってもいいぞ、お前にな」

「ち、近づくな」

 オレは勘を頼りに、仕込みナイフに手を伸ばす。伸ばしたつもりだった。

 バタン。

 なにかが倒れたような音がする。もうなにも見えないし痛みも感じない。それでも体がひやりとするのは、かいた汗のせいだろうか?

「残念だねぇ……一歩遅かったよ……お前の敗因は、悟る能力の欠如……人以外の存在を悟り、避ける能力の欠如だな」

 それがオレの記憶に残る、女の最後の声だった。

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