八章 たったひとりの人類大戦
「
マークスは呻いた。
その顔は『信じられないものを見た』ときの人間の表情の見本。そう言いたくなるものだった。目は見開き、汗が流れ、全身が小刻みに震えている。ふたつの拳は知らすしらず力いっぱいに握られていた。
「なぜだ、なぜ、きさまがいる⁉ きさまはあのとき、確かに倒したはずだ!」
そうだ。
そうでなければいけない。
マークスにとってそれは、とうてい受け入れられないことだった。
現実から目をそらす。
いつだって勇敢で誠実だった騎士マークス。そのマークスがそんな思いに駆られたのは人生ではじめてのことだった。
そんなマークスに
「愚かな。
「な、なんだと?」
「そも、お前たち、
ハッ、と、マークスは直感した。
突然、
マークスは剣の束に手をかけ、抜き放った。
物心つく前から握っていた剣。
王国を
それは、歳老いたいまでも決して衰えてはいなかった。それでも――。
とっさの出来事に対する反射神経はさすがに鈍っていた。
三本。
「グッ……」
マークスが呻いた。よろめいた。異界のものに身を傷つけられる痛み。それはまるで、自分の肉のなかに直接、酸を入れられるようなもの。傷口がブスブスと泡立ち、痛みと、それを越える熱さとが襲ってくる。
傷口は異界に
傷の痛みにマークスは
歳老い、傷つこうと、マークスはあくまでも騎士だった。
そんなマークスに向かい、
「老いたな、マークス」
「なに……?」
「かつて、
「なんだと?」
「お前自身、よくわかっていよう。あの頃と比べ、自分がいかに歳老い、衰え、醜く、弱々しい存在になったかを。
どうだ、マークスよ。あの頃の力を取り戻したくはないか?
「永遠にかわらないだと? この城の外にうごめく動く死体となってか?」
「『動く死体』などお前たち
「死ぬこともない、か。ならば、生きているとも言えないな」
「あの戦いで死んだ兵士たち。蘇らせたくはないか?」
「なに⁉」
思わぬ
マークスは思わず叫んだ。
「あの戦いでどれほどの人間が死んだ?
「黙れ! きさまがこの世界に来たりしなければ、誰も犠牲になどならずにすんだんだ!」
「
「グッ……」
あの戦いから数十年。マークスは一度だって多くの兵士たちを死なせた罪悪感から解放されることなんてなかったのだから。
「だが、
「なんだと⁉ あの戦いをなかったことに……本当に、そんなことができるというのか?」
「むろん。
「本当に……本当に、あの戦いをなかったことにできるのか?」
「出来る」
「誰も……兵士たちの誰ひとり、死ななかったことにできるのか?」
「そうだ」
「本当に?」
「むろん」
「そうか」
と、マークスは手にした剣を降ろしながら息をついた。
「それができれば。
これまでの人生で何度、そう思ったか知れん。あの戦いで失われた何百万という生命。何百万という人生。その人生が残ることで生まれるはずだったさらに多くの生命と人生。そのすべてが失われてしまった。もし……もし、それを取り戻すことが出来るならどんな代償を支払っても惜しくはない。そう思ってきた」
その言葉の意味は僕にはよくわかった。マークスの記憶に共鳴し、マークスの記憶のすべてを見ている僕には。
この何十年もの間、死んでいった兵士たちと再会する夢を見ては喜びのなかで目を覚まし、それが夢であることに気付いて絶望の涙を流す。
そんなことを何度、繰り返してきたかわからない。マークスの抱えてきた悲しみと罪の意識。それを知るだけに僕は、マークスがなんと答えるかにハラハラしていた。心臓を直接、ギュッと握りしめられるような息苦しさを覚えていた。
「ならば、話は簡単ではないか。
これほど素晴らしいことはないではないか。万物が『死』から解放された世界が出来上がるのだ。それこそ、お前たち人間の究極の願望であろう。そこになんの問題がある?
「なるほど。それは確かに魅力的だ。死んでいった兵士たちが蘇るとなれば、おれとしてはその誘惑には逆らえないな……」
ギッ、と、マークスは目を見開いた。
「だが、断る!」
いいぞ!
それでこそマークス!
「すべての兵士たちは、きさまからこの世界を守るために死んでいった! この世界をきさまのものとしないために死んでいったんだ! それなのに、いくらかの
「……愚かな。自ら時に縛られ、歳老い、衰え、死に逝く定めを選ぶと言うのか」
「確かに、人間は歳老い、衰え、死んでいく。だが、だからこそ、成長がある。おれが歳老い、死んでいこうとも、その跡を継ぐ人間は必ず現れる。次の世代が思いを引き継ぐことで人類は成長していく。個々の人間は死のうとも、人類という種は無限に成長をつづける。そして、いつかは、永遠にかわらぬ存在であるきさまなど、足元にも及ばぬ高みへと至る! それが、人類というものだ。その証拠をいま、見せてやる!」
マークスは懐からひとつの小瓶を取り出した。小瓶の
「……これは」
はじめて――。
ブスブスと、液体のかかった
マークスは叫んだ。
「この数十年、人類がなんの進歩もないと思ったか! きさまによって変質させられた世界。その世界をもとに戻すため、世界中の人間が異界の解明に取り組み、浄化するための術を見つけようと尽力してきた。その液体もそのひとつ。異界の
マークスは剣を構えた。
叫んだ。
「忘れるな!
マークスは走った。
あの頃のような速さも力強さもない。それでも、いまのマークスに出来る最大の力と速さで
「おおおっ!」
マークスは剣を振るった。
あとには静けさだけが残された。
――夢だったのか?
マークスが思わずそう疑うほど、なにも残っていなかった。
夢ではない証拠にマークスの両肩につけられた傷はいまもブスブスと泡立っている。
マークスはそっとその傷口にふれた。
「……死んでいった兵士たちを蘇らせることが出来る。本当に……断ってよかったのか?」
そう呟き、うなだれるマークスの顔が光に照らされた。
顔をあげた。マークスの眼前。そこに――。
大きな光の門が現れていた。
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