第3話 御前様
叔父にして、伊賀の里の上忍三家の藤林三十郎が微笑みながら、さも普遍的に語る。
「先々、熱田と夫婦になるもよし。ただその為には、鷺乃の利き手の指三本を証しとして差し出して貰おうか。この先、そうそう、表舞台に上がる事はなかろうて」
利き手の指三本は、中指、薬指、小指の事だ。親指と人差し指があれば、左手で支えながら火縄銃位は握れるだろうだ。
当然抜刀は出来ない。しかしそれでは、熱田事お市様を背負って守りきれぬ。熱田と夫婦になれば、早々に私と熱田は一緒に埋められる。伊賀の里は非常に合理的だ。
伊賀の里は、2度織田家に殺戮されている。縁故を辿れば、どうしても織田家憎しにもなる。
ただ、伊賀は合理的で、現在の伊賀は、徳川家に傅いており、織田を的確に抱えよと密命を帯びている。
ごく最近では、お市様の三女のお江様が、徳川次期当主徳川秀忠におり、徐々に豊臣と徳川の均衡が崩れつつある。ここに存命するお市様をそれでも表舞台に引き出せば、徳川の天下を含めた言い分は幾らでも成り立つ。
そもそも、熱田の面倒は、私が同じ女性として、伊賀の里で二人仲良く暮らしているのに、どうして夫婦などと。
所謂形式と言うものは、男と女と繁栄を重んじれば、どうしても求められるものかと、何故か溜め息しかない。
叔父三十郎は、困る事でもあるまいと。私を女性扱いで、右肩をそっと撫でて後にする。問題の先送りは、一番良き判断とは分かっている。
+
私と熱田が暮らしている離れは、伊賀の中砦に当たる要害に地に当たる。いざ急襲されても中にも外にも避難出来る作りだ。
その離れは、職業研修機関として、組紐の仕組みを教える場所、組紐蔵であり、卒業しても女子が何かと集う場所になっている。
熱田も、生来のうつけの感覚から、都への行商に渡しても人気になる事から、ごく早くの内に師匠扱いとなる。
そうとなると、私は手余りとなっては、田畑に出て耕作を手伝う。至って長閑な生活だ。ただ、それも熱田の長患いの右足踝の障害の平癒が、神仏に届けばと日々願っている。
あの日、北ノ庄城陥落のした夜半。私達は、誰も気付かれずに天守閣から、文字通り落ち延びた。
ただその際、お市様の上背いが大きく、私の保護が至らず、右足踝に激痛を与えて、長らくの障害になる。お市様が歩けぬ事から、投降しようと思案したが、それでは秀吉の慰みものになると、頑として撥ねられた。
権六様の今際の際“生きよ“に反する行為。お市様が気丈なのは、その心強き言葉あればこそだろう。
北ノ庄城は成り立ちから、一揆が激しい土地で有り。至る工夫がされている。私はその抜け道全て、権六様から授かっており、地下道を抜けて、深夜の森に出た。しかし、そこには前田家の親兵がいた。
ただそれは、前田家に捕縛と言うより擁護される形になる。前田家も、猿に何時迄も付き合う訳ではないとの、切り札扱いされ、要所の豪商に擁護されながら、時間をゆっくり掛けて伊賀の里に入った。
現在豊臣家が燦然と輝く位置にいるも。武家の均衡としては、豊臣秀吉の老いと共に斜陽に入っている。
そう、豊臣家が没落する過程の中で。徳川家が、見まごうなきお市様、織田家の御意見番をこれ迄に投入するつもりがないなら、もう、お市様はお役御免の筈だった。
私は素直に、熱田に、叔父三十郎に釘を刺された経緯を話す。熱田は、爆笑すると思いきや。姫たるお市様の麗しさで説に解く。
世の大戦が始まろうとしている。それは朝鮮の役かだが、お市様は首を横に振る、日本国ですと。西と東は逃れらぬ宿命か。そして、お市様は我慢しましょうと、溜め息を大きく着く。いや、ごく自然に我慢で、私が砕けた。
私とお市様の距離で、恋慕が何故発生したかだ。いつから、いやいつでもいいが、私では役不足ではと、素直に告げる。鷺乃は私を懸命に守り抜き、存命しておる。彼の旦那様達よりは、役目は上等な筈だが、鷺乃は何を卑下すると。微笑みながら、熱田としての涙腺が崩れ、床に跳ねる。
私は思う、私は死ねない。そして傅くお市様を生涯守らねばならない。文字通り手と足となり、生涯付き添うとここに宣言した。
素直にお慕い申し上げると言えば良いが、ここでは二手の意味に取られる。それは下男の使う言葉ではない。
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その日の夜半。夏半ばなのに肌寒かった。そのせいか寝付きがやたら悪かった。
不意に衣摺れの音が聞こえたと思えば、忍び配合では無い芳醇な香りが背後に有り、背後から女性ならではの体温に包まれた。
この寝所には、どう見ても女性二人しかいない。見た目女性の長い私と、熱田事お市様だ。娘も立派に巣立ち、伊賀の男性にも目もくれなかったのに、女性の業が、何故今と困惑する。
「鷺乃も寒かろう、この距離を、今責めようものがおろうか」
「なりませぬ。伊賀の里は衆人環視です」
「それは、鷺乃が私を抱きしめず、片思いであれば、道理は何処まで通ろうぞ」
熱田は、私の首筋に口付けをしては、次第に和やかな吐息で眠りにつく。
こんな、カチコチの私を抱きしめて眠れるなんて、どんな武家の度胸かと思ったが、長政様、権六様、でハッとし。そう言う事かで、私も諦めて、久しぶりに深い眠りに入った。
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その抱擁の翌朝から、私はいつも以上に畑作作業に、何を力んでか、昨晩の事を忘れようと汗だくになって働いた。
そして昼を告げる、昼鐘が古寺から鳴ると。やたら元気な女性が、叫びながら左手に杖を突き近ずく。周りの従事者は次第に爆笑し、私が素になる。
「御前様!御前様、何を惚けておる。手弁当を持って来ましたぞ。何をとぼておる。鷺乃、日比鷺乃。お主は、御前様では無いのか。昨夜の契りは無かった事か、女性の甲斐性とは何ものよの。私は私が不憫でならぬ」
私は、田畑そこより、高く舞い飛び、熱田の背後にへばりついた。どちらかが死ぬ、それよりだったら、主人を生かす。
そこで、在住の女性の黄色い声が飛ぶ、まずい、毒矢か。
「あらやだ、私より皆が照れてます。鷺乃も、イケズよの」
日比鷺乃一生の不覚。これでは熱い抱擁そのものだ。不犯で有り続けたのに、何故本能でしがみ付く、この歳で何故色香に迷うか。私はどうして全身が強張る。
「良いのう。鷺乃は、これで良いのじゃ」
私は思慕が溢れ切り、飽くまで熱田の背中を抱き続けた。そして見る間に女性衆に、益々黄色い声で囲まれる。この巧みな陣の隙の無さ、人垣の盾、私達はただ愛情を持って守られる。
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その三日後、指南所に私は呼ばれた。上座には伊賀の里の上忍三家、百地・服部・藤林の頭領居並ぶ。
やはり、右手指三本かと覚悟したが、やたら上座がにやける。祝言ならば、里全員呼ぼうか、いや仮にも熱田とあれば関連商家も呼ぼう。私の頭上を遥かに超えて、ああでも、こうでもが続く。
あのう、繁々と切り出すと。訝しい顔で女性衆からの婚姻嘆願血判状と渡される。
頭から一字一句見逃さず受け取った。それは野蛮そのものだ。
この起請文が届かねば、小指一本添えようか。足らぬのならもう一本も、ならばもう一本もと。度肝に抜かれるものだった。
逆に婚姻せねば、私が死ぬ。さて、そうであろう。私は安堵な途方に暮れる。
+
それから間も無く、私と熱田は、両思いで夫婦となった。
そして、やや時が経ったと言うのに、二人でいるだけで黄色い声が掛けられる。ただ、その微笑ましい毎日でも、熱田の長患いの右足踝の障害の平癒は明けなかった。
私の咄嗟の不手際で招いてしまった、お市様の障害は、それも時間を経るごとに夫婦として支え合う事で薄れていった。
熱田として生きる上で、長政様も権六様も、忘れねばならなくなったが。そこは戦国成り行きとして、今は御前様にゾッコンだと、何故かうつけ時代に口調が戻る。再びの日焼け顔そのままでは、本当年齢不詳の美女だと、心底私が照れる。
「熱田の物言い、腰が落ち着かぬものですか」
「腰使いは、鷺乃が男性らしく励めば良いと」
私は唯一の弱点を懲りずに突かれる。その都度私は落胆するものの、柳腰も悪くはないと、ただ熱田に慰められる。まあこの世に稀有なたった一組の夫婦と思えば、誰よりも結びつきは強かった。
そして、古寺の昼鐘がなると、いつもの夫婦仲良くの昼食になったが、熱田が右足を摩りながら、東の空をただ遠くに見上げる。熱田は、にわか雨が近づくと、古傷が痛むらしく。
「熱田、またにわか雨ですか」
「関ヶ原、」
その瞬間に、遠雷が鳴り響く。いや、熱田、織田家のお市様はたま突拍子も無い事を言うが、それは兄上譲りの感だと諭す。そこはかとない硝煙の香りが、鼻の奥を擽るのだろう。
「早く、休み屋に入りましょう」
「このひびき、夜迄続くであろう。御前様、私を背負いたまえ」
私は熱田を背中に背負い、お開きとばかりに、農道を歩み組紐蔵へと帰る。
熱田の、この背負い給えは、夫婦の符牒になる。昼から伽に入り、夫婦の熱量を確かめ合う。
組紐蔵は、雨でも何かと甲斐甲斐しく人の往来があるが、私が熱田を背負うと、これは仲が宜しいようでと、皆が微笑ましく頷く。
そうなのだ。昼からの伽を漸く察してくれるのは、長く時間が掛かった。その見目麗しい伽は最上のものだと、元気一杯の初芽が触れ回ったものだから、初芽は本当に、何かと可愛くも煩わしいものだ。
「この引け、明日も雨かの、」
「そうだと宜しいですね」
「あな珍しや。鷺乃、熱田は、御前様にゾッコンであるぞ」
「有難きお言葉にございます」
私達は、雨の甘ったるい香りの中、固い、普通、と飽きずに夫婦の会話を繋ぐ。
御前様 判家悠久 @hanke-yuukyu
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