[26] 誘い
バッハ流しつつクンデラ読んでたらパソコンがぴこーんと音を鳴らした。あきらかにバッハの音作りに入っていない音で起き上がって確認してみたところテキストメッセージが届いていた。
闇子から。
話は変わるけどクンデラは姓である。フルネームはミラン・クンデラ。でも普通彼について言及する時にミランとは言わない。スターンだってディドロだってそうだ。対して漱石は漱石と呼ぶ。鴎外、一葉、露伴、鏡花、どれも名前の方だ。
なんでなんだろう? ――まあいいや。
テキストメッセージ、内容は非常に簡単で
『今時間ありますか?』
どう返すか文面を考えるのが面倒になったので音声通話をこちらからかける。向こうからヒマかと聞いてきたのだからだいじょうぶだろう。
さほど待たされることなく応答。
つながって香波は第一声、
「なんか用?」
返ってきたのは沈黙。機械の不調を疑いかけたタイミングでようやく闇子は口を開いた。
「これから30分ぐらい時間とれます?」
言われて右下で現在時刻を確認。夕ご飯までだいたい1時間といったところか。
「あるけど?」
それで用件はなんなんだと若干いらついてた香波に対して、闇子はまったく唐突に切り出してきた。
「1局指しましょう」
10分切れ負け。持ち時間はそれぞれ10分でそれがなくなったら強制的に負け。
遅くとも20分後には勝敗がつく、長引くことはない。アマだとよくあるルール、プロでやってるのはあんまり見たことない。
香波は後手。
指す前はなんで将棋? と思っていたが指し始めたらどうでもよくなってきた。
用がなんかあったとしたらそれは闇子の方で本人がそれについて話す気がないならそれで構わないことだ。
こっちとしてはちょうど暇を持て余していていきなり将棋を指す相手が現れた、ただそれだけ。
楽しく指せればそれでいい。
闇子とは指したことがない。いったいどの程度のものやら?
リアルだったら手つきで慣れてるかどうかわかるかもしれないが、今はネット越しでそこのところから推し量ることはできない。
自分から挑んできたぐらいだからまったく指せない――なんてことは多分ないはず。
先手の闇子は普通に角道を開けてきた。
香波も同じく角道を開ける。角と角が正面からぶつかりあう。よくあるオープニング。
ついで闇子は飛車先をつく。
これもまだよくある形、とりわけプロなら。
アマだとどうだろう? 珍しくはないけど、先手は自信あるんだなと思ってしまう。
ここから後手の選べる戦法はめったに見ないようなB級戦法も含めて非常に幅広い。
先手はそれらすべてを受け止めてみせるから好きにやって来いと言っているに等しい。
本当に強いのか? あるいは何も考えてないのか?
香波は4二に飛車を振る。名前はいろいろあるけど角交換四間飛車、今のところは。
ここから角道をとめてノーマル四間飛車に変更することも可能。
ゴキゲン中飛車も考えたが前の配信でさんざんやった。それを見てたとしたら準備されてる可能性がある。
とか考えたわけではない。なんか気分で選んだ。
遊びでやってるんだから、そういう気分大事。
「なるほどなるほど」
闇子が低く、聞こえるから聞こえないかの、小さな声でつぶやいた。何がどう『なるほど』なのかはさっぱり読み取れない。
けれども当初の予定がなんだったにしろ闇子の方も楽しんで指してることは感じられた。
ので特にそれ以外のことは忘れて全力で集中して香波は指した。
先手の居飛車に対して、後手は四間から三間に振り直して石田流を目指すいわゆる4-3戦法。
慎重に金銀を寄せて玉を固める闇子に一瞬の隙をついて強引に捌いていく。
先に龍を作れたが桂を損する。だいたい互角、もしくはちょっと振り飛車がよくない。
受けに回るか? 迷っていられる時間は少ない。残り時間はほぼ同じ、中盤考えすぎて両者すでに2分を切っている。
ここは怯んだら負けだ。
多少無理でもこの短時間なら押しきれるはず。
今の状況なら攻めてる側の方が精神的に楽だ!
自玉の安全に目をつぶって香波は敵陣に踏み込んでいく。
――投了、1手届かなかった。
1手は僅差なこともあるが基本的に僅差でない。
将棋は1手でも先に相手を詰ませば勝ちのゲームだ。
2手も3手も差をつける必要はない。
きっちり1手先に詰ませられるとわかっていればそれを読み切っていれば堂々とその筋に入っていけばいい。
恐らく適当にやって結果1手勝ちになったわけじゃない。
しっかり速度計算した上でこの局面に持ち込まれた。
香波は思う、闇子は強い、自分より明らかに。
10回勝負して1回も勝てないかというとそんなことはない。そこまで力量は離れていない、多分おそらく。
けれども7対3か8対2か、こちらの勝ち数が少なくなるのが確実だ。
自分より将棋が強い人が世の中にいっぱいいるのは知っている。
前の配信でだって普通に負けた。
けど知ってる範囲で自分よりちょっとだけ強い人がいるのはなんかいやだ。
悔しい気分がまさる。
今の勝負、どこがよくなかったのか?
最終盤、香を補充した手がぬるかった気がする。
あのあたりから一気に攻め込まれて手がつけられなくなった。
だがあの手にかえて何を指せば――
「大型コラボに参加しませんか?」
そんな香波の思考を断ち切るように闇子は言った。
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