第3話 アッカーは餌付けしたい
「アッカー様、昨日頼まれた書類終わりましたわっ!」
山のような書類を抱えたカタリーナはノックの返事も待たず、扉を開け放してそう告げた。
執務机の上でのんびり書類を見ていた内務官のアッカー子爵がびっくりしたように顔を上げた後、目を細めてこちらを見る。
アッカーはダークブラウンの髪を一つに括り、分厚い眼鏡をかけている二十代後半の男だ。一切外見に頓着しない彼らしく、今日も前髪は顔を隠すほど厚く、寝癖もそのままである。
よれよれのシャツにトラウザー、上着は背後の椅子に放り出したまま。こんなぼさっとした服装なのにしゃんと伸びた手足のせいで、とても動作が洗練されて見える。
だがぱっと見では、とても冴えない男だ。
だが、アッカーの瞳の色がとても綺麗なことをカタリーナは知っている。青とも緑とも、一言では表現できない素敵な色合いの瞳が、今もこちらをじっと見つめていた。
だがカタリーナは彼の目の下の隈をめざとく見つけ、眉を顰める。
「まさか昨日も徹夜しましたの?」
難しい顔で立つカタリーナに、アッカーは指先で執務机の前にあるソファに座るように促した。
「……さぁどうでしょう。貴女は今日も早いですね、ヴィレ嬢」
「もちろんですわ。これが昨日の書類と、これが一昨日申し上げたルスト邸の修繕費に関する申請書です。そしてこれが、来年の王城及び二伯の予算表で」
その手の動きを無視して、カタリーナは彼の執務机に書類を並べる。彼に合わせてのんびりしてはいられない。
時刻はまだ七時前だ。だが、アッカーは油断ならない。アーベルなら簡単に見落としてしまうようなカタリーナの間違いに気がついてくれるので、修正のためいくらでも余裕があったほうがいい。
それを無表情でアッカーはまじまじと眺めた。
「……さすがですね。今週中と申し上げたはずですが。……ああ、そういえば明日は夜会でしたか?」
何をわざとらしく。カタリーナは思わず彼の顔を睨みつける。
そもそも明日の婚活パーティーを紹介してくれたのは彼なのだ。彼はカタリーナが婚活に必死なことを知っていて、大量の仕事を押し付けるのだから、とても腹が立つ。
(わたしの婚期が遅れたらどうしてくれるのよ! この人は!)
ぎりぎりとアッカーを睨むが、アッカーは表情の欠けた涼しい顔のままだ。悔しい。
「そんなに怒らないでください。朝食がまだでしょう? 一緒にいかがですか?」
そんな彼女の仕草が面白くて仕方ないらしい。顔には表情はほとんどないくせに、その多彩な色合いの瞳は意外と感情的だ。
彼付の侍従がその言葉に応えて、テーブルの上に朝食を並べる。ちゃんとアッカーとカタリーナの二人分ある事が、今日もしっかり彼の掌の上で踊らされているようで腹立たしい。
「お誘いはありがたいですが、今日わたくしはさっさとこの書類を片付けてしまいたいんです!」
「ああ、その件ですが。少し変更がありますので、一部初めから作り直して頂かなければいけません」
「……え?」
変更? 昨日の夜何度も数字を確認して、間違いなく完璧に仕上げたはずの書類を見下ろして、カタリーナは絶句する。
「ええ、昨日の夜に伝令が飛んできまして。急遽、王族の予算を変更せざるを得なくなりました。というわけで、来年の予算表は作り直しです。ヴィレ嬢」
「いいい、今からですか!?」
「もちろんです。今月中に決定しないと、年始の式典に間に合わない」
はっきりと告げるアッカーを、呆然とカタリーナは見つめる。
短気なカタリーナは一瞬、叫びたい衝動に駆られたが、ここで彼に八つ当たりしても仕方ない。
さらにいえば、たとえ爵位がどうであろうが、アッカーは間違いなく帝国貴族、カタリーナは弱小国の貴族にすぎない。
しかも人手が足りず、どうしようもない状況のこの国に、伝手頼りで手伝いに来てくれている存在だ。間違っても失礼な態度は取るわけにはいかない。
だが、これで明日の婚活パーティー参加予定は飛んでしまった。
アッカーは呆然としたままのカタリーナの手を引き、ソファに座らせる。
そしてその前に、ふんわりと香るミルクティーを差し出した。
「どうぞ」
いまだ衝撃から立ち直れないまま、カタリーナは香りに惹かれるようにそっとティーカップに触れる。その後差し出されるまま、こんがりと焼いたパンに口をつけた。
「……美味しい」
この国では小麦の収穫が難しいので、パンは黒麦と雑穀を合わせたもの。少々酸味があり硬いが、その上にたっぷりと紫色のジャムが乗っている。口の中いっぱいに、甘酸っぱい香りが広がった。
思わず、強張っていた表情が緩む。カタリーナのその顔を見て、嬉しそうにアッカーが目を細めた。
「実家から取り寄せたベリーのジャムと蜂蜜です。気に入っていただけたなら、よかった」
そう言いながら、アッカーも手元にあるパンに齧り付く。ただし片手に書類を持っていて、とてもお行儀が悪い。
だがどこか華があるのは、彼が帝国貴族だからだろうか。
子爵位は基本的に世襲ではない。帝国の子爵位は高位貴族の下位爵位とされ、高位貴族に仕える者が叙爵されることが多い。
つまり彼は、どこかの貴族のお抱え文官か、もしくは貴族の家を継ぐことができなかった次男三男といったところなのだろう。
(それでも私に比べたら、ずーっと上位貴族よね)
とカタリーナは思う。
ティグノス諸島連合では、貴族籍に登録されている家は三家しかない。王家アインザーム、ヴィレ伯爵家、ルスト伯爵家である。それも帝国流の貴族ではなく、この国が国家として帝国の下に属したときに、特例として与えられた爵位だ。
どんなに取り繕っても、ヴィレもルストもアインザームも、戦斧を振り回して戦う海賊の末裔でしかない。
そんな自分が、たかが海賊の娘が、帝国貴族と朝食を共にすること自体がおかしいのだ。
(そもそも、どうしてご飯食べてるの…!?)
普通、貴族は家族以外と朝食はとらない、と貴族の学園にいた時に聞いたような気がする。
(これはなんだか、まずいのでは……?)
多少鈍感なカタリーナが、ようやくそのことに気が付き、恐る恐るアッカーの様子を伺うと、彼もこちらを見ていた。その目が、『おや気がついてしまったか』といっているような気がするのは、気のせいだろうか。
(なんか悔しい!)
カタリーナは脳内で絶叫する。しかしふと、アッカーの静かな目が何か言いたげにこちらをじっと見るので、首を傾げて彼を見返した。
「ところでヴィレ嬢、未だにアーベルの隣部屋から移動されていないとか」
そう、彼こそが前々からカタリーナの自由気ままな行動に文句をつける同僚である。
「未婚の女性として、それはどうかと思いますが」
重々しくため息まで付けられた。カタリーナは先ほどの葛藤のことなどすっかり忘れ、むっとして言い返す。
「この城はわたくしが生まれ育った場所です。どのように行動するかなんて、アッカー様に指図されたくありませんわ」
たいへんむしゃくしゃしたので、カタリーナは残りのパンを一気に口に詰め込む。やはりとても美味しかった。
「そういう話ではないと思います。あなたの品位が疑われるという事です」
「そんなの、言いたい人に勝手に言わせておけばいいと思いますわ」
噂話で実際のカタリーナの何かが損なわれるわけではないのだから。
実際、どんな行動をしていても、陰口は言われる。カタリーナの身分や、生まれた家系ゆえに。
「あなたのそういう潔いところは素晴らしいと思いますが……。ですが、一応、あのアーベルも男であることをお忘れなく」
子爵という身分のアッカーは、なぜか国王であるアーベルのことを名前で呼ぶ。たしかアーベルもニコルと呼んでいたので、二人は元々親しいらしい。
だが、あのアーベルとは何だ。少々失礼ではないのか。
「アッカー様、わたくしたちはあくまで兄妹ですのよ?」
確認するようにいうと、あからさまに面白くなさそうな顔をした。
「あなたに警戒心がなさすぎるのもいささか問題な気がしますが、何にせよ今年中にはお部屋は移動していただいた方が良さそうです」
突然のことを言う。
まだ納得がいっていないのかと、反論しようとするカタリーナをアッカーは手で制した。
「本当はあと数日のうちに。不要な誤解を避けるためにはその方が良いでしょう。ですがまぁ、無理でしょうから」
驚いて言葉もないカタリーナに、アッカーは淡々と告げる。
「先ほど、朝の鍛錬中のアーベルには話したのですが、これから三日後に、アーベルの妃候補の方が皇都からいらっしゃいます」
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