22. SOFT MADNESS
「……」
その場の誰もが言葉を失っていた。緊迫感に満たされた部屋の中に、まるで不釣り合いなウグイスの鳴き声が伝わってくる。
「いや、そんな……突然変異とかじゃないんですか?」ようやく晴男先生が口を開いた。しかし、松崎先生は首を横に振る。
「違うな。こんなことは突然変異では起こり得ない。逆に、地球外からやってきたという間接的な証拠がある。ちょうど三月の中頃の夜中、長野市から見たら東の空に火球が見られただろ? その後すごい音がしたんで、おそらく
「でも、そんなことあり得るんですか?」カオ姉だった。「そもそもD型アミノ酸って、生命が作れるほど宇宙に存在するんですか? 確か、隕石に含まれているアミノ酸はL型が過剰だったっていう研究があったはずです」
「ああ、有名なマーチソン隕石の話だな」と、松崎先生。「中性子星由来の円偏光紫外線の影響や、素粒子のパリティ保存則の破れが原因でL型アミノ酸の方が優勢になる、という話もある。だが、隕石の中のアミノ酸はL型とD型が等量含まれるラセミ体の形で見つかることも多いんだ。『はやぶさ2』が回収した『リュウグウ』の試料にもアミノ酸が含まれてたが、やはりラセミ体だった。そもそも非生物的な過程でアミノ酸が出来たとしたら、普通はラセミ体になるからな。だからD型アミノ酸もそれなりに宇宙に存在する、ってことだ」
「だけど、キラリティが違えば、必要とする栄養分のキラリティも違います。D型アミノ酸による生物は、地球上に既にある栄養分を消化出来ないから繁殖も出来ないのではないですか?」
「エナンチオマー型の栄養分なら、な。香織君、よく考えてくれ。アオコってのはシアノバクテリアの集合体だ。こいつのメインの栄養分はなんだ?」
「あ……」カオ姉が恥ずかしげに顔を伏せる。「そうですね……
「そうだ。CO2は当然キラリティなんかない。クロロフィルもcを除けばエナンチオマー型じゃないからな。そして、シアノバクテリアにはクロロフィルcは含まれない。だから光合成にも問題はないだろう。加えて、D型アミノ酸であればバクテリオファージにも手が出せない」
「バクテリオファージ?」僕は問いかける。聞いたことはある気がするが、よく知らない言葉だった。
「ああ、バクテリオファージは細菌に感染するウィルスだよ。細菌の中で増殖して、ひどい時はそれを殺してしまう。ファージは細菌がいるところなら必ずいて、細菌の増殖を抑止する役割を果たしているんだ。しかし、キラリティが違う野尻湖のアオコにはそれが効かない。だからこれも大量発生の一つの要因だとは思う、が……」
そこで松崎先生は、表情の険しさを強め、言った。
「アオコの大量発生には、富栄養化が必要だ。もちろんその成分はエナンチオマー型の有機物じゃない、リン酸塩や窒素化合物といった無機物だな。だが、今の野尻湖には富栄養化する理由がない。考えられるとすれば……野尻湖のアオコは、湖水中にもともと存在する微生物をそう言った栄養に変えてしまっているのかもしれない……」
「!」
僕は息を飲む。それじゃ、まるで……
「待って下さい」真っ青な顔で、カオ姉が言った。「それじゃ……アオコは、既存の微生物に置き換わろうとしているのですが?」
「そうだ」
苦々しい顔で先生が続けた。僕の脳裏に浮かんだ、そのままの言葉で。
「これはおそらく……宇宙からの侵略だよ……」
---
再び部屋の中に沈黙が訪れた。
宇宙からの侵略、だなんて……普通に考えれば、荒唐無稽にもほどがある。だが……つい先日、僕はそれに近いトンデモな話をしたばかりだ。そして……そのきっかけとなった、森下さんに起きている謎の現象……果たしてこれらの間に、何の関係もないのだろうか……
「もしかして……芹……いや森下さんはその侵略を、植物を通じて……感じているのかもしれない、ってことですか?」
僕がそう言った瞬間、芹奈がビクンと顔を上げる。
「そう考えると、いろいろ辻褄が合うことが多い」と、松崎先生。「以前竹内君も言ってたけど、彼女が感じているのは皆ネガティブな感情だ。植物たちが自分たちに対する脅威を認識している、ってことだろう。それに彼女にそのような現象が起き始めた時期も、火球が目撃された時とちょうど重なる。そして……以前は桜に対して何も感じていなかったのに、野尻湖では恐怖を感じた、って言ってたな? それは、アオコの大量発生で桜が覚醒したせいかもしれない。君らは湖面にアオコが繁殖している様子に気がついたか?」
「い、いえ……そこまでは気づきませんでした」
「そうか。まあ、君らが行ったときにはまだそんなに繁殖していなかったかもしれないな。だが、桜はそれに気づいた。そして……彼らなりに戦ったのかもしれない。だから急激に花を散らせたんだ」
「え、どういうことですか?」
それの何が戦いなんだろう。僕には分からなかった。
「花を散らせれば、水面に花びらが敷き詰められる。日光が遮られるだろ? そうしたらアオコは光合成が難しくなる」
「ああっ!」
そうだ。確かに。
「ひょっとしたら君らは、地球生物対宇宙生物の戦闘の最前線に居合わせたのかもしれないよ。その時にはもう、この宇宙戦争は始まっていたんだ」
「……!」
僕の脳裏に、あの日見た桜吹雪の様子が蘇る。なんてことだろう。あの光景に「壮絶さ」を感じたのは間違いじゃなかった。あれはまさに、戦争だったのだ。
「ちょっと待って下さい」杉浦だった。「なんで桜がアオコを気にするんスか? 陸上で生きてる桜と水中のアオコは、あんまり関係ないように思うんスけど」
「それが、関係大アリなんだよ」松崎先生が応える。「侵略者は大胆にも、地球の支配者に直接攻撃を仕掛けてきたんだ」
「地球の支配者? それって人間じゃないんスか?」と、杉浦。
「バカ言っちゃいけない。人間なんてせいぜい世界人口全部合わせても数十億だろう? だけどな、微生物は桁違いだ。君の腸の中にいる微生物の数だけで、軽く百兆になる。世界人口の数十万倍だ」
「ひぇっ!」杉浦が変な声を上げて絶句する。
「そして、微生物は地球上のどこにだっている。南極の氷の中にも、灼熱の砂漠にも、一万メートルの深海にも、一万メートルの上空にも……もう三十億年も前からそうだ。もちろん連中は他の生物の中にもたくさんいる。植物も動物も体内の微生物なしには生きていけない。人間だってそうさ。だから……地球の支配者は微生物なんだよ。遥か昔からね」
「……」
誰もが言葉を失っていた。それに構わず、先生はさらに続ける。
「もう分かっただろ? 侵略者はそれをターゲットにした兵器を送り込んできた。それが例のアオコだ。そいつは野尻湖の水中の微生物をことごとく自分の栄養源にしてしまった。そして……ひょっとしたら、それに代わる、自分たちとキラリティが一致する微生物を投入するかもしれない。そうなると、水中だけでなく陸上の微生物も置き換わっていく。土壌は微生物の宝庫だ。それが失われれば……植物も無事に済まない。植物が滅びれば、当然動物も影響を受ける。生物の大絶滅が引き起こされるかもしれない……」
そこで松崎先生は、僕をチラリと見て、少しだけ口元を歪めた。
「竹内君、ひょっとしたら君は正しかったのかもしれないよ。君が言うとおり黒幕が木星かどうかは分からんが、少なくとも敵は隕石を使って地球上の生命に攻撃を仕掛けてきた。ただし、大質量隕石によるハードキルじゃなく、生物兵器を乗せた小隕石によるソフトキル路線で、だけどね」
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