19. ALL YOU NEED TO KNOW

 なぜかカオ姉が僕の顔を意味ありげに見つめる。


「え……?」


 僕と芹奈が彼氏彼女の関係になったことはまだ伝えてなかったはずだが……ひょっとしたら二人の醸し出す雰囲気から見抜いたのか? だとしたら、やはりカオ姉恐るべし、だな。


「そういう香織さんも、カオスの縁なんスよね?」


 林さんのジットリとした視線が、カオ姉の右手に注がれていた。


「え、どういうこと?」と、カオ姉。


「その右手の薬指のお相手と、ッスよ」


「ああ、これ」クスクスとカオ姉が笑う。「そうね。今のところは、順調かな?」


「そうッスか……それは良かったッスね……」


 なぜか、二人の間に火花が飛び交っているようだった。林さんは松崎先生とカオ姉の関係は知らないはずだが……これも女のカンで見抜いたのかな? ひょっとして……さっきから彼女がやけにカオ姉に突っかかるのもそれが原因かもしれない。彼女は松崎先生推しだからなぁ……


「まあ、それはそれとして」晴男先生が取りなすように言った。「自己組織化ってのはまるで熱力学の第二法則……エントロピー増大の法則に逆らっているように見えるよね。シュレーディンガーもこう言っている。『生命は負のエントロピーを食べて生きている』ってね」


「シュレーディンガーって、あの『シュレーディンガーの猫』の人ッスか?」林さんが目を輝かせる。


「そうだよ。量子力学の基本であるシュレーディンガー方程式を考えた人だ。彼は『生命とは何か』っていう本の中で、生命についてそう表現した。本来エントロピーというものは必ず増大し、減少することはない。そしてエントロピーの増大は秩序が失われることを意味する。なのに、生命は秩序を保とうとするだろ? そればかりか、子孫を増やし進化していく。エントロピーを減少させているんだ。不思議だと思わないか?」


「それは……そうッスね」


 それ以上林さんは何も言えないようだが、僕はそれについて少し知識があった。


「それは生命が開放系の中にいるから、ですよね」


「おおっ!」晴男先生が大声を上げる。「竹内君、よく知ってるな!」


「開放系?」林さんが僕に顔を向けた。


「ああ。正確に言えば、エントロピー増大の法則は閉鎖系にのみ適用されるんだ。閉鎖系ってのは外部とのエネルギーや物質のやり取りが全くない系のことで、密閉された部屋に閉じ込められるようなものだ。そんなところに生命が置かれたら、食べ物もなくなるし呼吸も出来なくなって、最終的には死んでしまうよね。だから結局生命もエントロピー増大則には逆らえない。閉鎖系の中ではね」


「なるほど」林さんがうなずいたのを見て、僕は続ける。


「だけど地球は太陽からエネルギーをもらって、宇宙空間に余計なエネルギーを捨てている。だから閉鎖系じゃなくて開放系なんだ。だから生命も生きていられる」


「その通りだ」晴男先生だった。「しかし……この宇宙が閉じているのか開いているのかはまだ結論が出ていないらしいが、もし閉じているのであれば、閉鎖系だからいずれはエントロピーが最大になる熱的死と呼ばれる状態になる。と言っても何千、何万億年後だろうけどね。エントロピーの式を導いたボルツマンっていう物理学者は、最後は自殺してしまったんだが、一説に依れば宇宙の熱的死を悲観したのが原因、なんて言われてるな」


 そこで晴男先生はニカッと笑う。


「いずれにせよ、竹内君が言った通り開放系では自己組織化って現象は決して珍しくないんだ。そもそも生命がそうだし、空には雲なんて形が自然に生じたりするだろ? 雲は太陽熱で蒸発した地表面の水が空に上って冷やされてできるわけで、太陽から入ってくるエネルギーの産物だ。開放系だからこそ、の話だな。そう考えると、生命も雲も、どちらも開放系での自己組織化による現象に過ぎないわけで、案外大差ないものなのかもしれないな」


「そんなもん……なんスかねぇ……」


 いかにも納得行かない顔で、林さんが呟いた。


    ---


「今日の崎田先生と香織さんの話、すごく面白かった」


 家に向かう道すがら、助手席で、芹奈は彼女にしては少し興奮した様子だった。まだ空は明るかったが、雨が降ってきたので、僕は彼女を車で家まで送ることにしたのだ。


「エントロピーとか自己組織化の話?」


「ええ。ほら、お味噌汁をお椀に注いでしばらく放っておくと、模様が出来るでしょ? あれなんかも自己組織化なのかな、なんて思った」


「ああ、まさにそうだね。あれはベナール対流って言うんだ。うろこ雲ができるのも同じ理屈だよ。対流は熱が出入りすることで起こる現象だし、熱が出入りするってことは、やっぱ開放系だよね。しかもベナール対流が起きるためにはある条件が満たされないとダメらしいんで、となるとまさしくカオスの縁だね」


「まるで生物の細胞が並んでいるように見えることもあるから、晴男先生の言うとおり、生命もそんなものなのかも」


「そうだね。だけど……」


「だけど?」芹奈が僕の顔を覗きこんだ。運転中の僕はちらりと横目で彼女を見ただけで、また正面に視線を戻し、続ける。


「生物は複雑すぎる。単純に自己組織化によって生まれただけのものとは、ちょっと違うような気もするよ」


「……そうね」芹奈がうなずいた、その時。


 ”目的地に近づきました。案内を終了します”


 カーナビの音声だった。僕は彼女の家の前で車を停める。


「ありがと、真。それじゃ、お休みなさい」


「ああ、お休み。またね」


 ドアを閉めた芹奈が、パシャパシャと水音を立てながら家の玄関に向けて駆けていった。


    ---


 自分の部屋に帰ってから、僕はベッドに転がり、ぼうっと考えていた。


 生命が開放系でないと存在できないとか、ベナール対流の話は知っていたけど、それらが共に自己組織化という枠組みで説明されるのは知らなかった。複雑系っていうのは思っていたよりも奥が深そうだ。ネットでもセル・オートマトンについて調べてみたけど、λパラメータというものの値で状態がカオスかコスモスか、それともカオスの縁か区別されるらしい。ベナール対流の発生は、温度によって変化するレイリー数に左右されるから、その辺りもすごく似ている。


 なんだろう。何かが引っかかる。


 今、芹奈の身に起こっていること……なんだか、説明がつきそうな……


 植物の知性、感情……木星と金星……自己組織化……ミラーの実験……パンスペルミア説……


 ……!


 思わず跳ね起きる。僕の脳内に閃いたそれは、まさに天啓だった。だが……あまりにも荒唐無稽だ。笑い話にしかならない。


 それでも、明日の放課後のプロジェクト勉強会の時に、みんなに話してみよう。それで笑ってもらうのもいいかもしれない。

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