18. PARADIGM

「ほう。それはすごいな」晴男先生はニヤリとした。


「え?」


 どういうこと? 何も感心されるようなことはしてないつもりなんだけど。


「ダテに高い値段のシミュレーションじゃなかった、ってことだな。自然法則に忠実に作られてる」


「そうなんですか?」


「ああ。君、バタフライ効果って知ってるかい?」


「なんか、名前だけは聞いたことあります」


「そうか。じゃ、どういうものかは知らないのかな」


「そうですね……」


「あ、あーし知ってますよ!」林さんだった。「映画で見たッス。”中国の一匹の蝶の羽ばたきが、カリブでハリケーンを引き起こす”ってヤツッスよね!」


「その通り! よく知ってるね」晴男先生が笑顔になる。


「マジで?」林さんの隣で、杉浦が目を剥いた。「たった一匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたところでハリケーンを起こす、って言うのか?」


「そうッスよ。それくらい天気予報って難しい、てことッス」


「へぇ……」


「林さんの言うとおりだよ」と、晴男先生。「日本でも言うじゃないか。”風が吹けば桶屋が儲かる”ってさ。これらはカオス理論の結果なんだ。いわゆるニュートン力学は、方程式を解けば未来は完全に予測できる。だけどそれは質点とか、非常に単純なものの運動に限られる。ほら、竹内君や杉浦君は物理学科なんだから、これまでそういう勉強はしてきてるだろ?」


「え、ええ」僕と杉浦が同時にうなずく。


「でもね」晴男先生は続けた。「気体みたいな、かなり自由に動ける大量の小さな原子分子で構成された系は、一個一個の構成要素の動きなんかとても追うことは出来ない。だから厳密に未来を予測することも難しいわけだね。それでも流体力学の方程式を解けば、それなりに予想は可能だが……そういう方程式は非線形で、初期条件の少しの差で結果が一気に変わってしまうこともよくある。それがバタフライ効果の理論的背景だ」


「へぇ……」


 そう言えば、カオスってのも聞いたことだけはあるなあ。高校や大学一年で習った範囲では出てこなかったけど、この先流体力学で学ぶことになるのかな。ちょっと楽しみだな。


「ああ、ちなみに流体力学は君らが三年になったら学ぶことになる。担当は僕だからね」


 晴男先生が白い歯を見せると、杉浦もニタァと笑った。


「マジすか。先生、単位の方、よろしくお願いします!」


「それは君の頑張り次第だな」さらりと晴男先生は杉浦の申し出をかわした。


「ぎゃふん」杉浦のいつもの昭和ギャグに、その場の全員が引き笑いする。今時「ぎゃふん」って口に出して言う人間が存在するとは……


「そう言えば、生命はカオスの縁の現象だって話、ありますよね」カオ姉が晴男先生に顔を向ける。彼女は調査班のアドバイザーだ。


「おお、さすが博士課程ドクターだね」晴男先生が満足そうにうなずく。


「カオスの縁? なんスカそれ?」杉浦だった。


「あ、それはね、ええと……やっぱり専門家にお任せしますわ」照れくさそうにカオ姉が晴男先生に目を向けると、

「おう、任してくれ」先生が大きく胸を張り、「それじゃ講義を始めようか」と言いながらつかつかと歩いて壁に備え付けのホワイトボードの横に立つ。


「カオスってのは、今言ったみたいに基本的に予測不可能なわけだ。スケールの大きい気体や液体の運動なんかまさにそうだね。そもそもカオスは“混沌”って意味だからね。そして、それに対するのが“秩序”……コスモスだ。実はこのカオスとコスモスの両方の状態を取り得る系が存在する。その代表的な例がセル・オートマトンだ」


「セル・オートマトン?」杉浦が首を捻る。


「早い話が、白か黒に変化するマス目だな。正方形のオセロのコマ、とでも思えばいい。一番簡単な一次元セル・オートマトンは、ひたすらそれらが並んでいるようなものだ」


 言いながら、先生はホワイトボードに一つ正方形を書き、その右に続けて同じような正方形を次々に書いてみせた。


「これらのマスは一秒ごとに白になったり黒になったりできるとしよう。もちろんそれにはルールがあるわけで、例えばオセロみたいに両側が黒になったら黒、両側が白なら白、とかね。もっと簡単に、右隣と同じ色にする、でもいい。これら以外にもいろんなルールを考えることが出来る。で、そんな風にルールを変えてセル・オートマトンの時間変化をシミュレーションしてみると、面白いことが分かったんだ」


「面白いこと?」と、僕。


「ああ。結果が大きく四つのパターンに分かれたんだ。一つは全部黒もしくは全部白になるパターン。これは完全なコスモスだね。二つ目は、ある周期で同じことを繰り返すパターン。三つ目は完全にランダムでいつになっても落ち着かないパターン。これは完全なカオスだ。そして……四つ目が問題だ。模様というか、構造みたいなものが表れたんだよ。誰もデザインなんかしてないのに、自然に、ね」


「構造、ですか……」と、杉浦。


「ああ。完全なカオスではランダムすぎて何も生まれないし、完全なコスモスでは安定しすぎて何も変化しない。カオスとコスモスのちょうど中間……この領域のことを『カオスの縁』って言うんだ。カオスの縁では自発的に構造が生まれる。そのような例はセル・オートマトン以外にもたくさん見つかってるんだよ」


「生命もその一つ、ってことッスよね?」林さんだった。「カオスの縁ってのは何となくわかったッスけど、生命のどこがカオスの縁なのかが、イマイチわかんないッス」


「ふむ……その辺は香織君の方が詳しいかな?」今度は先生がカオ姉の顔をうかがう。


「分かりました」ホワイトボードの前に立って、カオ姉は話し始めた。


「ダーウィンの進化論は知ってるよね? 生命は突然変異と自然淘汰で進化した、っていう話」


「当然ッス。あーしも生物学科ッスから」林さんがむくれ顔になる。


「そっか。それは失礼しました」カオ姉は笑顔で頭を下げ、続けた。「でもね、実は、それだけでは現在の生物の進化が説明できない。突然変異と自然淘汰だけでは時間がかかりすぎるのよ。だから、生命の進化にはこれ以外のファクターがどうしても必要だと考えられてた」


「だったら、ダーウィンは間違ってたんスか?」と、林さん。


「全部が全部間違いではないけど、不十分だった、ってことね」


「へぇ」


「それにね、そもそもアミノ酸が寄り集まって生命が誕生する確率は、十の四万乗分の一って言われている。竜巻がボーイング747を組み立てるくらいの確率というのは良く言われる喩えだけど、それくらいあり得ないってことね。だけどカウフマンという生物学者が、ある種の条件を満たせばアミノ酸から遺伝子が自動的に生成されることをコンピュータシミュレーションで示したの。カオスの縁のセル・オートマトンが、構造を自ら作り出すようにね」


「いや、でも、生命の起源は宇宙からやってきた、って話じゃなかったッスか?」


 林さんが突っかかるような口調になった。


「ああ、パンスペルミア説ってヤツだろ?」ドヤ顔になった杉浦が、カオ姉に顔を向ける。「香織さんの言う『十の四万乗分の一の確率』って、ホイルとウィクラマシンゲによる計算でしょ? この二人、天文学者なんですよね。俺も天文好きだから知ってんですけど、この二人はその計算をやったせいで、地球で自然に生命が発生するのは無理だから隕石に乗って宇宙から微生物がやってきたんじゃね? って言いはじめたんですよ。実際、隕石にはアミノ酸が含まれていることが多いですから。それでパンスペルミア説が有名になったんですよね」


「あら、杉浦君、すごいじゃない」カオ姉の顔がほころぶ。「その通りよ。なかなかこのメンバーは多士済々たしせいせいね。頼もしい限りだわ」


「てへへ……」杉浦が照れくさそうに頭を掻いた。


「だけど」と、カオ姉。「パンスペルミア説が正しいと証明されたわけではないからね。今のところは有力な学説の一つ、ってところかな。もちろんアミノ酸が地球由来とする化学進化説っていうのもある。1950年代に当時シカゴ大学の院生だったミラーが、メタンとかアンモニアとかを含んだ気体の中で高圧放電するとアミノ酸が生成されることを実験で確かめた」


「あ、それも聞いたことあります」と、杉浦。


「さすがね。でも、ミラーは原始地球の大気にメタンやアンモニアが含まれていると考えていたけど、その後それらは原始地球の大気にほとんど含まれていなかったことが分かって、今ではミラーの話はあまり支持されていないの。ただ、いずれにせよカウフマンが言っているのはアミノ酸が地球上に大量に生成された後の話だから、別に隕石に付着してたものでも化学進化説でも、どちらでも構わない」


「へぇ~」


 相変わらず林さんは不貞腐れたような態度のままだった。どうしたんだろう。彼女は快活な性格だったはずだが……

 しかし、カオ姉はそんなことはまるで気にも留めずに続ける。


「こういった現象は、自分で自分の形を作り上げていくから、自己組織化と呼ばれるの。生命ってのはまさに自己組織化する存在よね。そして、さらにカウフマンは進化にも自己組織化のメカニズムが働いている可能性が高いことを示したの。自己組織化がうまく働けば、突然変異と自然淘汰だけでは説明できないスピードで進化が進むことも説明できる、ってね」


「……」


 僕も含め、その場にいた四人の学部生は、みな呆気にとられていたようだった。僕も確かにダーウィンの進化論は知っていたけど、本当に突然変異と自然淘汰だけで進化が説明できるのか、という疑問は感じなくもなかった。やはりそれだけではなかったのだ。


「でもね」さらにカオ姉は続けた。「それって、ある意味当たり前って思わない? だって、崎田先生も言ってたけど、完全な秩序が保たれていたとしたら、そこから変化することも難しいでしょ? 変化できなきゃ進化もできない。かといって、逆にあまりにもカオスな状態だったとしても、不安定すぎて進化の方向に進むとは限らなくなってしまう。つまり、正しく進化するためには、適度に秩序とカオスの両方が共存している状態――カオスの縁であることが望ましいわけよ」


 そう言ってから、カオ姉はニヤリとした。


「恋愛もそういうとこあるよね。あまりに積極的でストーカーになるのもダメだし、かといって消極的すぎてなんにもしなかったら片思いで終わっちゃう。適度に積極的で適度に消極的でないとね。これもカオスの縁かな?」

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