33. GO FOR IT

 とにかく状況は一刻を争う。僕らは自衛隊のヘリで野尻湖に戻ることになった。僕ら三人に加えて橘先生の代わりの医師と看護師の医療班が一緒にヘリで移動するので、乗れる人数の都合上、崎田夫妻は病院に残ることになった。


 本当は僕もずっと芹奈のそばにいたかった。もちろんそれは許されない。せめて芹奈の顔を見てから行きたかったが、ICUの中で面会謝絶状態ではどうにもならない。今はとにかく自分たちのミッションを成功させることが最優先だ。それが彼女の望みでもあると思う。


 ヘリの座席はパイプの骨組みに防水の布がかけられただけの、かなり質素なものだった。お世辞にも座り心地がいいとは言えない。シートベルトも車のような三点式じゃなく、腰に巻くだけのシンプルなものだ。

 しかも飛行中のキャビン内はかなりうるさくて、とても会話なんて出来やしない。それでも僕の隣に座っている杉浦の目は、明らかにキラキラ輝いていた。こいつ……実は結構なミリオタなんじゃないか? まあ、何気に僕も軍用機に乗るのは初めてなので、気持ちは分からなくもないが。


 松本上空はすっかり曇り空になっていたが、まだ雨は降っていなかった。しかし長野市上空を通り過ぎた辺りで雨がポツポツと機体に当たり始める。


 30分ほどのフライトで野尻湖に到着。時刻は17時。かなり雨脚が強くなっている。気温も昼に比べたらかなり低い。


 最初に僕らを出迎えたのは、傘を差した松崎先生とカオ姉だった。


「ドローンを飛ばして、敵の状況は一通り把握したよ」と、松崎先生。「やはり岸辺付近はかなりダメージを受けてるようだが、沖合の方はまだ健在だな。ここに君らがマイクロバイオームをぶち込めば、おそらく効果は抜群だろう。頑張ってくれ」


「はい」僕はしっかりとうなずく。


「真、杉浦君、林さん……くれぐれも、無理はしないでね」カオ姉だった。


「大丈夫ッスよ、香織さん!」杉浦が片目をつむってサムアップを決める。その横で林さんがジト目になっている様子には全く気づいていないようだ。


「お待ちしてました、皆さん。それじゃ、さっそく着替えて下さい」


 防護服を着た町田二尉がやってきて、ニッコリと笑った。


    ---


 僕らは男女に分かれてテントに案内され、水着に着替える。今回の作戦を行う場所は岸から離れているので、自衛隊のエンジン付きゴムボートに乗り込まないといけない。


 テントを出ると、やはりかなり肌寒い。素肌に降り注ぐ雨が、さらに体温を容赦なく奪っていく。


「うわ……」


 声を上げた杉浦の視線を追った僕は、同じように息を飲んだ。


 そこにいたのは、黒いビキニを身につけた林さんだった……が……


 明らかに水着のサイズが小さい。芹奈のそれよりは間違いなく大きいバストは、かなりの部分が水着からはみ出しているし、下半身にもピッチリと水着が食い込んでいる。意外にも、日焼けしてない部分はかなり色白だ。水着を選んだときに見た芹奈の肌もかなり白いと思ったが、全然負けてない。


「み、見んといて下さいッスよ~」恥ずかしげに、林さん。「これっきゃサイズなかったんスから……つか、杉浦パイセン、見たくないとか言っときながらガッツリ見とるやないッスか」


「あー……そうだった。いかんいかん」慌てて杉浦が顔を背ける。しかし……


 彼からは見えてないだろうが、その後林さんは少し嬉しそうに微笑んだのだ。


 ボートのエンジンが始動し、けたたましい音を立てる。町田二尉が僕らにライフジャケットを配り、身につけるのを手伝ってくれた。


「皆さん、準備できたらボートに乗って下さい。乗るときは四つん這いでお願いします」


 町田二尉が手招きする。


    ---


 ほぼ無風状態のため、ボートはほとんど揺れることなく水面を進んで行く。乗っているのは僕ら三人以外にボートの操縦士と町田二尉、男性の自衛隊員と医師、女性の看護師が一名ずつだ。僕ら以外は皆防護服を着ている。


 バイタルセンサーが人数分無いため、今回僕らは命綱を腰に巻いただけだ。1分置きに声がかけられるようで、それに応答がなければ強制的に命綱が引き揚げられるという。


 ようやく現場に到着。エンジンが停止する。近くに琵琶びわしまが見えた。湖の中の島だ。神社があるらしいが行ったことはない。


 全員が防毒マスクを装着。僕らはライフジャケットを脱いだ。僕の命綱は男性自衛隊員、右隣の杉浦のそれはボートの操縦士、さらにその右隣の林さんのそれは町田二尉がそれぞれ握る。


一七一五ヒトナナヒトゴー時。作戦を開始します」


 町田二尉の掛け声で、僕らは湖に対して背中を向け、ボートの縁を掴んでゆっくりと足を下ろす。


「!」


 なぜか心の中に恐怖感がわいてくる。それも、自分が怖がっているのではなく、誰かが強く怖がっているのが伝わってくるようなのだ。


「どうした、竹内?」


 杉浦だった。マスクで顔の表情は全く見えない。


「杉浦、お前、何も感じないのか?」


「はぁ?」彼は首を横に振る。「何のことだ?」


 彼がやせ我慢をしているようには感じられない。僕は林さんに顔を向ける。


「林さんは?」


「別に、あーしも何も感じてないッスけど」


「……わかった。どうやら、僕だけみたいだ」


「何がだよ」と、杉浦。


「恐怖を感じるんだ。たぶん……芹奈が感じたのと同じだ。おそらく……アオコが怖がってる……僕らのことを……」


「そりゃまあ、森下ちゃんに一番近い状態なのがお前なんだから、彼女と同じ感覚を持ってもおかしくねえだろうな。いいじゃねえか。今さら怖がったって、もう遅い、ってな」


 そう言って、杉浦はゆっくりと爪先を湖に沈め……いきなり大声を上げる。


「冷たっ!」


 それも当然だ。僕も足の先が水に浸かった瞬間、電流が走ったかのようだった。ハンパじゃない冷たさ。芹奈の時はそれでもまだ水温が高かったとのことだが、それほど変わらないだろう。こんな中に彼女は10分も身をうずめていたのか……


 そろそろと、慣らすように体を水中に沈めていく。太ももから腰、腹、胸……肩まで浸かったところで命綱が引っ張られ、それ以上沈まなくなる。


 じわり、と先ほどの恐怖感が強くなった。これは……アオコたちの悲鳴なのかもしれない。


「今から5分、そのままでお願いします」町田二尉だった。


「……」


 寒いなんてもんじゃない。感覚的には、痛い、と言ってもいいくらいだ。すさまじい勢いで体温が奪われていく。


 時間が経つのが、遅くて仕方ない。


「はい、1分経過しました。大丈夫ですか?」と、町田二尉。


「はい」と、僕。


「大丈夫ッス」と、林さん。


「まだ1分スか!」と、杉浦。


 どうやら、まだみんな元気なようだ。しかし……


 とてつもなく長い1分だった。これがさらにあと4回繰り返されるのか。本当に、大丈夫なのか……?


    ---


 ようやく3分経過。みな、だんだん応答に元気が無くなってきた。それでもあと2分耐えられれば作戦完了だ。しかし……


 足の先、指先の感覚がない。体が芯から冷え切っている。ともすれば、意識を持って行かれそうになる。


「おい、なっちゃん、大丈夫か?」


 杉浦が呼びかけるが、がくりとこうべを垂れた林さんの応答は、ない。

 まずい。意識を失っているのかも。


「くそっ、しょうがねえな!」


 いきなり杉浦が林さんを抱き寄せた。


「……!」林さんは気がついたようだ。が、やはり元気がない。「ちょ……杉浦パイセン……何やってんスカ……あーしを……どうするつもり……」


「あっためてやってんだよ! だからと言って、こんなこと彼女がいる竹内にやらせるわけにもいかんだろうが。嫌かもしれねえが、少しあったまったら離れるから……今は我慢しろ」


「……そんなこと言って……自分もあったまりたいんっしょ……」


「ちげぇよ……おま、めちゃ冷え切ってるじゃねえかよ……これだけくっついてても、全然あったかくねえって……」


「サーセン……」


 そう言ったきり、林さんは動かなくなった。


「おい、なっちゃん! しっかりしろよ!」


「林さんはもう限界ね。引き揚げます」町田二尉が命綱を持ち上げる。


「待って下さい!」と、杉浦。「俺ら三人全員が5分間浸かってないとダメなんですよ! せめてあと1分だけ……お願いします!」


 しかし。


「ごめん。それは出来ない。彼女は低体温症にかかっている可能性が高い。昼の森下さんと同じ症状なのよ。だから、すぐに引き揚げないと」


 そう町田二尉に言われてしまうと、杉浦も引き下がらずを得なかった。やむなく彼は林さんの体を離す。そのまま彼女はボートに引き揚げられた。


「杉浦」僕は彼の方に向く。


「なんだ?」と、杉浦。


「こうなったら、僕らが彼女の分も頑張らないとダメだ。5分以上水に浸からないと……な」


「……そうだな」


 杉浦は力強くうなずいた。


    ---


 7分経過。


 辛うじて、僕は意識を保っていた。だが、辛うじて、だ。


 杉浦は6分の時点で応答がなくなり、林さん同様に引き揚げられた。もはや残りは僕だけ……だが……


 体の感覚がない。まるで頭が働かない。目の前がぼやける。おそらく僕ももう限界なのだろう。


 目の前に芹奈の笑顔が浮かんできた。


 逢いたい……逢いたいよ、芹奈……


 そのまま、僕の意識は薄れていった。

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