31 I'M IN YOU
テントを飛び出そうとした僕の左腕を、誰かが掴む。
「待ちなさい!」
振り返ると、それは絵瑠沙先生だった。女性にしては凄まじい力で僕の腕を握りしめている。彼女はそのまま僕をまっすぐ見つめ、言った。
「今君が行ったところで、何が出来るって言うの? プロに任せなさい。あそこにいる人たちは、全員がスペシャリストなのよ。状況がはっきりするまで、ここで待ちましょう」
そこで先生は、表情を少しゆるめた。
「……わかりました」
そうは言ったものの、心の中では全く納得できなかった。それでも……絵瑠沙先生の言うとおりだ。僕には何もできない。
突然、キュイーンという金属音が聞こえ始めた。それは徐々に甲高くなっていき、やがてパタパタという風切り音がそれを上書きしていく。
「ヘリの音だな」杉浦が言うと、絵瑠沙先生がうなずく。
「確か自衛隊のヘリが待機していたはず。万一の時、最短距離で彼女を大学病院に運べるようにね」
「ってことは、もう森下ちゃんはヘリに運ばれたんですか?」
杉浦の言葉をそこまで聞いて、僕は外に飛び出す。今度は先生も止めず、むしろ僕のあとについて外に出てきた。カオ姉と杉浦、林さんもそれに続く。
爆音が一気に高まり、近くの体育館の駐車場から一機のヘリコプターが垂直に上昇していった。ローターが巻き起こした突風が僕らの周囲を吹きすさぶ。
「陸自のUH―1だな」
声に振り向くと、杉浦だった。遠ざかっていくヘリを見上げながら、彼は続ける。
「汎用のジェットヘリだ。200キロは出るから、松本まで30分もかからんだろう」
「お前……詳しいな」僕が言うと、杉浦は事も無げに応える。
「え、これくらい常識だろう?」
「はぁ?」
「自衛隊のヘリなんか、みんな知ってるだろ? UH―60とかAH―1とかAH―64Dとか……」
「フツーの人は、知らねッスよ」林さんが呆れ顔になる。
「え……マジ? 竹内も?」
「ああ」
お前の常識は偏りすぎだ。僕は心の中で付け加える。まあ、実は僕も戦闘機は好きだけど、その嗜好を大っぴらにするつもりはない。回転翼機は正直あまり詳しくないし。
着信音。絵瑠沙先生がスマホを耳に当てた。
「……はい。分かりました」電話を切って、先生が告げる。「バスが出るわ。大学病院まで行くみたい。私たちも行きましょう」
---
一時間半の道中、バスの中は重苦しい沈黙が支配していた。誰も一言も喋らなかった。
橘先生と松崎夫妻(?)、そして内調の二人はバスに乗っていない。橘先生は医師として芹奈に付き添いヘリに乗ったのだろう。松崎先生とカオ姉は野尻湖に残り、現地の生態系を詳しく調査する、とのことだった。内調の二人については良く分からないが、別の車に乗ってきているのかもしれない。
僕の隣——芹奈が座るはずの席は空っぽだ。その事実が僕の胸をかきむしる。一刻も早く彼女のそばに行きたかった。
そして、ようやくバスは大学病院に到着。僕らはそのまま関係者控え室に案内される。第3カンファレンス室とドアに書かれたその部屋の中には、八つの長机が長方形の形に並べられていて、それぞれの机に二つずつOAチェアがあてがわれていた。会議室のようだ。それぞれ席に着いたものの、やはり誰も口を開こうとしない。
やがて。
ドアがノックされ、引き戸を開けて入ってきたのは……白衣姿の橘先生だった。
「橘先生!」僕は思わず駆け寄る。「芹奈は、どうなったんですか?」
「率直に言えば……危険な状況だ。危篤とまでは言わんが」深刻な顔で先生が言う。「低体温状態だったのだが、それが回復した途端に発熱してね。意識レベルも下がっている。感染症なのだろうな。今、病原菌を特定しているが……未知のものである可能性が高い。今のところ解熱剤でなんとか保っているが……今後、病状がどうなるかは何とも言えない」
「そんな……お願いです、彼女を助けて下さい!」
「今、彼女はICUで24時間監視されている。我々もできる限りのことはやるつもりだ。病原菌の性質がさらに分かれば、抗生物質の投与も考えている」
「すみません、先生。それはちょっと待ってもらえませんか」
引き戸を開いて入ってきたのは……内調の松田さんと矢島さんだった。松田さんは続ける。
「やはり、ちょっと時間が足りませんでした。アオコはかなり撃退できたのですが、50%以下には至っていません。これでは元の木阿弥になってしまいます。そのためには彼女のマイクロバイオームがどうしても必要です。が……抗生物質を使ってしまったら、彼女のマイクロバイオームも大きな影響を受けます。アオコに対抗する能力を失ってしまうかもしれません」
「何を言っているんだ」橘先生が松田さんを睨み付ける。「君は、今の状態の彼女を、また野尻湖に戻して湖水に浸そうというのか?」
「残念ながら、そうせざるを得ません」
「バカを言うな!」橘先生が大声で一喝した。「そんなことをしたら、間違いなく彼女は死ぬぞ!」
「我々だってそんなことは望んでいません。ですが……どうにも出来ないんです」松田さんが苦渋の表情で唇を噛む。
「アオコの個体数が減ったのなら、なんとか薬剤で駆除できるのでは?」晴男先生だった。「手術のあとに放射線ないし抗ガン剤治療するのは、ガンの標準治療ですよね?」
しかし、橘先生は辛そうに首を横に振ってみせる。
「ダメだ。今薬剤を使ったら、せっかく投入した森下君のマイクロバイオームも死んでしまうし、そもそもそれで全滅できる保証がない。ヤツらがそれに耐性を付けたりして、少しでも生き残ってしまったら……もっと酷いことになる。だから薬剤に頼らず、湖全体に彼女のマイクロバイオームを行き渡らせるのが、長期的に見ても一番確実なんだ」
「……そうですか」晴男先生はうつむいてしまった。
「だが……彼女をもう一度出撃させるのは、絶対に反対だ。医師として許すわけにはいかない」
橘先生が毅然とした様子で言い切るが、松田さんも負けじと食い下がった。
「それではどうすればいいんですか? 人類の未来がかかっているんです。今なんとかしなければ……我々も滅びてしまうんですよ?」
「……」
室内を沈黙が支配する。
もう一度芹奈を野尻湖に……なんて、僕も絶対にさせたくない。だけど、彼女のマイクロバイオームが足りないのも確かだ。それをさらに追加するためには……
その時だった。
ふわり、と芹奈の匂いがした。だけど、彼女がここにいるわけでもないのにそんなはずはない。気のせいだろう……
いや、待てよ。
人の匂いを作っているのは、その人のマイクロバイオーム。そして、昨日僕と彼女はそれを互いに激しく交換した。だから、彼女の匂いが僕の体からしても、おかしくはない。彼女のマイクロバイオームが、僕の体に……
……そうだ!
「橘先生!」
思わず大声になってしまったためか、先生がビクンと背筋を伸ばす。
「どうした、竹内君……大声を出したりして、びっくりするじゃないか」
「先生、僕の体にも芹奈のマイクロバイオームがあるはずですよね。だったら……僕は彼女の代わりになれませんか?」
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