26. KNOCK ME OUT
「えええっ!」
思わず悲鳴のような声が口をついて出た。
「つまり、あんたたちはお互いに直に体を触りあって、マイクロバイオームをさらに交換しまくる必要がある、ってことよ。そうすれば、森下さんのマイクロバイオームはアオコに対して攻撃力を増すことができる。で、若い男女が互いに体を触りまくってたら、そりゃもう……したくなっちゃうでしょ?」
カオ姉の顔は、熟したトマトをさらに赤方偏移させたような色になっていた。
「ちょ、ちょっと待って……そもそも、芹奈が野尻湖に浸かる、って言うのはもう決まってる話なんですか?」
「本人は了承している」松田さんだった。「家族の了承も得た。地球の危機だと切実に訴えたら、分かってくれたよ」
「竹内君、君はウィルスや細菌の進化がすごく早いのは、なぜだと思う?」と、橘先生。「コロナウィルスなんか、三年ほどの間に何度も流行のウィルス株が入れ替わったよね」
「それは……わかりませんが……」
「それはね、ウィルスや細菌は遺伝子の水平伝播が起こるからだよ」
「水平伝播?」
「ああ。普通、遺伝子ってのは親から子に受け継がれるものだが、個体同士や他の生物との間でも遺伝子がやり取りされることがある。これが水平伝播だ。これが起こるから、ウィルスや細菌の進化は早いんだ」
なるほど。それは分かった。が……
「そうなんですか……それで、その話がどういう関係があるんですか?」
「森下君のマイクロバイオームが取っている戦術が、それなんだ。遺伝子の水平伝播だよ」
「え……」
「彼女の体と湖の水中は、当然ながら温度もpHも違う。だから彼女のマイクロバイオームは、普通なら死んでしまうか死なないにしても活動がかなり弱くなる。ところが、それでもマイクロバイオームはわずかに生き残っている水中の既存の微生物たちに、自分たちの遺伝子を水平伝播で伝えるんだ。特に彼女の持つ酵母菌は、水中の温度でも十分活性化するラセマーゼを生成する。これが水中の既存の酵母菌に伝わり、増殖したとすると……敵に致命的な打撃を与えることになる。だが……」
そこで橘先生は、眉根を寄せた。
「そのためには、彼女のマイクロバイオームをそっくりそのまま水中に持っていく必要がある。酵母菌だけじゃうまく機能しない。他の微生物との協力が必要なんだ。かといって、マイクロバイオームをそのまま培養するにしても、培地として彼女の皮膚と全く同じ条件を再現するのは難しい。そうなると……やはり、彼女自身が水に浸かるのが最も迅速で有効な手段、ってことになる。残念だがね」
「……」
「そして、単純に薬剤を撒いて奴らをせん滅させるのがダメな理由も、水平伝播なんだ。これのせいで細菌の進化は早い。抗生物質への耐性菌が増えているのもそれが原因だからね。だから、奴らが耐性を身につけてしまったら全く意味がなくなる。より強力な薬剤を使ったら、環境負荷がとんでもなく大きくなる。だが、奴らに対抗するのが細菌だったら、奴らの進化に対して自分たちも進化する。環境負荷もほとんどない。要するに、細菌の相手は細菌にさせるのが一番妥当、ってことだね」
僕は林さんが以前同じような話をしていたのを思い出していた。なるほど、細菌の進化が早い原因は、遺伝子の水平伝播なんだ。
「これは時間との闘いなんだ。ガンと同じでね。手をこまねいていたら手遅れになる。崎田さんのシミュレーションによれば、地球の土壌のマイクロバイオームが全てD型に置き換わるのに、わずか一ヶ月しかかからない、ということだった。そうなったら植物も動物も大絶滅することになる。早期発見出来たのは、本当にラッキーだったよ。今奴らを完全につぶさないと、人類……いや、地球生物の未来はない」
そう言って、橘先生は話を締めくくる。
「……」
なんということだ。まるでSF映画に登場するようなセリフが、矢継ぎ早に飛び交っている。これは本当に……現実なのか……
僕は芹奈を見つめる。
「芹奈……本当に、いいの?」
「ええ」ためらいなく芹奈がうなずく。「これは私にしかできないこと……そして、それで全ての生物が助かるのなら……やらなきゃならないことだと思う」
「でも、危険だよ? 命がけになるんだ。ひょっとしたら、死んでしまうかも……僕はそんなの、耐えられないよ……」
僕がそう言うと、さすがに芹奈も顔を曇らせた。
「そうね。私も死にたくはない……けど……私がやらなかったら、真も死んでしまうかもしれない。それはもっと嫌だから……」
「とりあえず、現状で最高の医療が受けられるように、感染症のエキスパートに声をかけてある」橘先生が自信たっぷりに言った。「地球の救世主を、絶対に死なせたりしないよ。ただ……そのためにも、竹内君、君にはやらなければならないことがある。分かるね?」
「う……」
それは、つまり……芹奈と……その……
---
とりあえず、僕と芹奈とカオ姉は、松崎先生の車で長野市に戻ってきた。
”いい、とにかく優しくしてあげるのよ。胸を鷲掴みするとか、最悪だからね”
というありがたいアドバイスをカオ姉からいただいて、僕らは送り出されたのだが……カオ姉、鷲掴みされた経験あるんだろうか……
それはともかく。
作戦の決行は、明日の14時と決まった。天気予報は晴れのち雨だ。水温がピークの時間に行うという。そこから逆算して、マイクロバイオームが安定化するまでの時間を考慮に入れると、今日の21時というタイムリミットまでに、僕と芹奈は……結ばれなければならない。
今日、芹奈は僕の家に泊まることになった。橘先生によれば、行為の場所としてはマイクロバイオームが常に付着している僕か彼女の家のベッドが最適だ、ということだが……彼女の家ではさすがに家族がいて気まずい。となれば必然的に僕のアパートのベッドで……ということになる。
正直、心の準備が追い付いていない。芹奈とはまだキスはおろか手もつないだこともないのに、いきなり……ソレ……?
もちろん僕も男だから、したくないと言ったら大嘘になる。でも……芹奈はどう思っているんだろう……
「どうしたの?」
助手席で、芹奈が問いかける。
「あ、いや……何でもないよ。行こうか」
ショッピングモールの駐車場に停まった車から、僕らは降りた。
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本当はもっとかわいい水着を売っているところで買い物したかったが、もう19時を回っている。この時間開いている、水着が買えそうな店はこのショッピングモールの中しか思いつかなかった。しかもシーズンよりもかなり前なので、品揃えが少なすぎる。
しかし、彼女の水着を選ぶのも彼氏の仕事だ。楽しくてワクワクするシチュエーション……のはずなのに……心が重かった。が……
「こ、これ……どうかな……」
頬を染めた芹奈が試着室のカーテンを開けた瞬間……そんな気分は吹っ飛んだ。
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