第2話 煽動ではなく啓蒙

人民報とは、報道機関として、その辺(あたり)に転がっている情報を、ただ漫然と取り上げているわけではない。

かといって、欧米流のマスコミのように、何かの企みのある、謀(はかりごと、もくろみ、計略)を秘めた意図的・恣意的なニュース・記事によって、国民を(ミス)リードしようという意志は感じられない。

極端な言い方をすれば、人民報とは、中国人に中国人であることを気づかせてくれる・自覚させてくれる出来事や人を選んで紹介することで、自発的な自分の追求・探求に向かわせてくれる(啓蒙・啓発)という姿勢。

欧米流のプロパガンダ(洗脳・宣伝・煽動)ではなく、国民(人民)一人一人の内なる自覚を促すことをその任として、真面目に実行している新聞という感じがします。


〇 無理やり(何かを)教えるのではなく知らせる・気づかせる

  読者である中国人に、中国人であることを気づかせてくれる(記事を提供する)。

  私たち「非中国人」の場合には、自分という存在が人間であるのだ、ということを自覚させてくれる。中国人という枠を取り払った、人間としての存在感を実感させてくれる。

正しい事例(ニュース)を取り上げ、且つ、その紹介の仕方が、嫌みや癖のない素直なスタイルです。

京都大徳寺「一久」の精進料理のような、野菜のアクを抜き、野菜本来の持つおいしさを(外からの味付けだけで行うのではなく)野菜そのものから発揮させるような料理の仕方。それが人民報による「情報の料理の仕方」と言えるのではないでしょうか。


〇 知識(を学ぶの)ではなく道(を鍛錬する)機会を与えてくれる

西洋文学のシェイクスピアにしてもセルバンテス(ドン・キホーテ)にしても、(中国古典籍群に比べれば)表層的な文学であり、普遍的といえるほどの人生哲学を教えてくれるわけではない。ここ数百年という西洋の歴史事象をベースにした、ある人間社会の典型を描き出しているだけのことです。

明治期の日本人がシェークスピアに代表される西洋文学を積極的に日本語訳したのは、当時の西洋文明(船や自動車・大砲のような武器)を支える精神的な力としての文学を畏敬したからに過ぎないのです。

何百万年という人類の歴史、或いは、その何百万年の無限の繰り返しという、およそ悠久の時と無限の空間に流れる一瞬を切り取ったかのような、老子や荘子の「道(タオ)」を一時的に忘れた日本人ではありますが、本家本元の中国人は、しっかりとそれを骨肉にして現代に至るまで継承している。人民報の記事には、その営みがしっかりと表われています。中国古典籍からの引用は多々あるが、シェークスピアの言葉など(寡聞にして)私は見たことがない。「シェークスピア」とは、英国人がその(残虐で野蛮なインド統治といった)行為を正当化する為の、便宜的な道具のひとつでしかないのです。

中国人の凄みとは、文字のみに拠らず、太極拳という「踊り(武道)」によってまで、その悠久無限の時空を表現してしまう、というところにある。「中国人に哲学(という学問)は不要、彼らの血の中に哲学が流れているから」と(私が)いうのはそういうことです。


西欧社会で生きていく上で、ひとつの記号としシェークスピアの言葉の一つや二つ覚えておくのは、そういう限定された社会では、多少なりとも良いことがあるかもしれませんが、所詮、中国の古典に比べれば「ガキの戯言」でしかない。

  この世で、世界中どこへ行っても中国人として存在し、尚且つ、来世でも来来世でも、何度でも中国人を繰り返すという次元で考えるならば、(本当の)人間として必要なのは、記号(知識)ではなく道なのです。





〇 コピーの繰り返しではなく、湧き出でる創造(力)

西洋流の、単なる思想や文化のコピーではなく、確かな道を往くことで人としての形而上下の再現性を追求する、という人民報の基本姿勢。

西洋流の大量生産方式、スクラップ・アンド・ビルドスタイルとは、技術の真似・生産方式の真似による(コピー)社会の構築でしかない。

一方、完全な民族性(同じルーツ)による、個人個人の自由度から発揮される同一性という創造スタイルが中国式社会。そこには、真の人間のやることには全く同じ創造が生まれるという、(創造的な)再現性を見ることができます。


  金儲けの為の対処療法(便宜的で適当な:いい加減という意味も含む:処置を、何度も繰り返す)ではなく、病(やまい)や問題点の根本的な解決を目的とした処置を行う(根本治療)。

「務本。本立而道生」。根本の精神を忘れないから、何度やっても同じことができる。その場・その時・その相手に即した「創造性のあるコピー」を生み出せる。

これが「世界の100円ショップ」の源泉です。湧き出でる創造力を、的確に(安くて使いやすくて堅牢な)商品として具現化し、タイムリーに大量生産できる。

全ての商品に「安くて使いやすくて堅牢な」という民族哲学が存在するという意味において、創造的コピーといえるでしょう。

私が台湾にいた頃に感じた、Made in 中国とMade in 台湾の違い、とはそれです。

台湾の商品はコピー(違法コピーということではなく、西洋の技術と思想をそのまま使った生産物という意味)であり、中国製品は中国人としての哲学に裏打ちされた同じ機能と堅牢性を持つ独自の商品を大量に創造する、という意味でのコピー。


  人民報にはこの創造性が根底になっているので、社会の観察・政治の分析にしても、独自の創造的なアルゴリズムを工夫している。

中国人という血の濃さ由、欧米流の歴史観や欧米式の国家や社会を規定する価値観からフリーであるために、「そういう視点があったのか」と、新鮮な気分にさせてくれる記事が多い。

中国の長い歴史と伝統から醸造された視点や論点なのでしょうが、私たち外国人にとっては新鮮に感じるのです。

〇 単に変化を記録するのではなく、歴史(努力して・意識して作り上げた進化)として捉える

  「とっさに言葉が出てこない?「語彙が乏しくなっている」とした回答者は7割以上」

   人民網日本語版 2023年03月10日10:33 

   http://j.people.com.cn/n3/2023/0310/c94475-10219891.html


まさに「文字」「書」を専業にしている人たちならでは、ともいえる問題意識に由来する、優れた中国社会の洞察といえるでしょう。

この記事中の「書を読みて万巻を破り、筆を下せば神有るが如し」という言葉が、私の所有する本には見つからなかったのですが、「書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧の傭と為る。讀書不見聖賢、為鉛槧傭。・・・。」という一文がありました。

ここから思量してみれば、中国人に限らず現代人は、豊富な文字に囲まれながらも、その文字面に囚われ・押し流されて、文字のもつ精神やそれを書いた聖賢のスピリッツまで味わう余裕がない、という位相も見えてくるかもしれません。

  こういう現代社会の問題点を「文字失語症」という言葉で表現し、タイムリーに指摘できる人民報の力こそ、「社会の鏡」としての報道機関の存在意義を確かに示しているといえるでしょう。

社会の様相・人々の諸相を流れとして捉え、時流・趨勢に流されず、往くべき道を踏み外さぬように(人と社会を自然な形で)リードしようとする編集哲学。



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