七、星を見るひと

 すでに高い位置にかかった月の明かりが、〈星見の丘〉に集まった三人の青年たちに淡い光を投げている。ひとりは、優れた予言者としてマレビトたちの間で名高い〈星見のアルトリウス〉だ。他のふたりは、彼の友人――〈レムナのリシャール〉と〈魔力なきエウゲニオ〉だった。


 出自も、才も、性格も、好みにすら似たところのない彼らは、それでもどういうわけか馬が合った。あるいは、似ていないということがかえって彼らを結びつけたのかもしれない。


 「〈さだめ語れよ 天の星

   神の形の 金砂子

    川と流れる 銀砂子

     わたしゃ地の花 咲いたはいいが

      我がことでさえ 見えやせぬ〉……」


 楽器を適当につま弾いていたエウゲニオが一曲完成させた。アルトリウスは手がけていた星図から顔を上げ、リシャールと顔を見合わせて笑った。リシャールは雲を動かして月明かりの光度を調整している最中だったが、彼らしい穏やかな口調で友人を称えた。


 「おまえは〈詩人のエウゲニオ〉と呼ばれるべきだね。〈魔力なきエウゲニオ〉だなんて呼ばせておくのはもったいない」

 「詩人はちょっとカッコよすぎるなあ」


 エウゲニオは緩んだ弦を巻き直しながらはにかんだ。


 「おれが魔法を使えないっていうのは本当だし、気にはしてないけどね。でも、せっかくアルトリウスのところに来てるんだから、おれもリシャールみたいに手伝えたらいいのにとは思うけど」

 「何言ってるんだ。作業中に音楽があるのとないのとじゃ、はかどり方が全然違うよ」


 アルトリウスはエウゲニオが作ったばかりの曲を口ずさみながら言った。彼は誰もが認める予言者であると同時に、祝福に彩られたような美しい声の持ち主でもあった。


 「音楽だって魔法の一種だ。それも、普通の魔法じゃ禁忌とされていることも許されるんだぞ」

 「人の心を動かすから、だろ。おれ好きだな、その言い方」

 「人のきめ台詞を取るなよ。……よし、いいぞリシャール」


 アルトリウスの合図でリシャールが魔法を解くと、雲に遮られていた月光が近くの星々をかき消した。リシャールとエウゲニオが両側からアルトリウスの星図を覗きこむ。エウゲニオは眉間にしわを寄せた。彼からすると、アルトリウスの描いた星図は小さな点を無造作に打ったようにしか見えないのだった。


 「この間から何か変わった? 」

 「星の位置は変わり続けるんだよ」


 アルトリウスは点のひとつに印をつけた。


 「雨の星が、月明かりで消えていた――しばらく晴れの日が続くな」

 「水不足になりそうなら言って。雨を降らせるのなら得意だよ」

 「そうだな、リシャールがいれば天気は安泰だ。まあもう少し様子見だな。今年は豊作の予兆も出ているから、心配ないとは思うが」


 アルトリウスは雨の星の横に〈要観察〉と書き足した。今晩の仕事はこれでひと区切りだ。エウゲニオが完成した旋律を繰り返しながら彼を横目で見た。


 「――で? 君の〈星〉とは、何か進展した? 」

 「……エレニアのことか? 」

 「アルトリウスがそう思うならそうなんじゃない? 今日だって昼間ふたりで会ってたんでしょ? 」


 エウゲニオは鼻歌の合間に、呆れたような声でリシャールに言った。


 「未来が分かるくせに、どうしていつまでもぐずぐずしてるんだろうね」

 「言ってやるなよ、エウゲニオ。未来が分かるってことは、自分が失恋する兆しだって事前に見えるんだぞ」


 アルトリウスは身を震わせた――失恋! 冗談じゃない! 


 「不吉なこと言うな! ……大体おれの〈星〉って、なんなんだその呼び方は」

 「そりゃあ、〈星見のアルトリウス〉が年中飽きもしないで眺めてる相手なんだから〈星〉で間違いないだろう」


 リシャールはのほほんと言った。


 「それともなに? そんなつもりないとでも? 」

 「そんなつもりない、とは、言うつもりはないが………」


 アルトリウスは自分の歯切れの悪さに辟易しながら言った。


 「――人の気持ちの全部なんか、読み切れるもんか」

 「少なくとも、君の〈星〉の位置はずっと変わってないように僕らには見えるけどね」


 リシャールは茶化さずに言った。


 「もしかして、君の気持ちの方が変わってしまったとか? 」

 「そんなわけないだろ! 」

 「だよねえ」


 いきり立つアルトリウスに向かって、友人たちはやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。エウゲニオが言った。


 「心配ならどうなるか見てみればいいじゃない――本当は星なんかなくたって、アルトリウスは見たい未来が見えるんだろ? 」

 「馬鹿言うな」


 アルトリウスは思わず握りしめてしまった星図のしわを伸ばした。


 「〈見えすぎる〉のは異常だ――それに、完全じゃない。何度嫌な目に遭ってきたかしれないよ」

 「ふうん、未来が分かるなんて便利なことしかなさそうだけどね」

 「そうでもないさ――おれはもう、あんな力に振り回されるのはまっぴらだ」

 「何がまっぴらだと? 」


 青年たちの背後から低い声が割って入った――予言者のヴェルフレッドだった。彼は常と変わらずしわの寄った眉間を緩めず、つけつけとアルトリウスに言った。


 「星見は終わったのか? 夜が明けるまでこんなところにいるつもりか、おまえたちは」

 「仕事が終わったらヴェルフレッドもどう? このあと、エウゲニオに今育ててる竜の子どもを見せてもらうんだ」


 アルトリウスは気楽に誘ったが、ヴェルフレッドにますます不機嫌そうな顔をされただけだった。


 「いいから星図をよこせ。おまえが星図をよこさんと、おまえの言うわたしの仕事が進まない」


 アルトリウスは素直に星図を渡したが、ヴェルフレッドは紙にしわが寄っているのを見咎めてちくちくと小言を続けた。彼が星図を指で弾くと、しわは消えて元通りになった。ヴェルフレッドの魔法は彼本人と同じように几帳面なのだった。


 「どうしてこの短時間でこんなに折りじわができるんだ。おまえというやつは、もっと繊細な仕事ができんのか、大雑把め。まったく、バルドラの予言者ともあろうものが……この〈要観察〉はなんだ? 」

 「雨の星が隠れていたから、水不足になるかもしれない。念のため、動向を見たい」

 「そうか。ではその旨記載しておく。……仕事を終えたからといってあまり騒ぐようなら閉め出すからそのつもりでいろ。まだ仕事をしているものもいる」

 「毎回ああやって言ってくけど、一度も閉め出されたことないよね」


 去っていくヴェルフレッドの背中を見送りながらエウゲニオがにやにやと言った。リシャールやエウゲニオはバルドラにやってきたばかりの頃こそヴェルフレッドの厳格な態度を恐れていたが、そのうちに言葉ほど厳しい人物ではないことに気がつき、今やアルトリウスと一緒になってヴェルフレッドの説教をおもしろがっている節があった。


 「あの人は不器用なだけだからな。騒ぐと閉め出すというのだって、〈風邪を引かないうちに早く休め〉くらいの意味だろう」


 アルトリウスが言うと、リシャールとエウゲニオが顔を見合わせた。


 「エレニアの気持ちもそのくらい分かればいいのにね」

 「自分だって手のひとつも握れない体たらくで、よく人に不器用だなんて言えたもんだよ」

 「似たもの兄弟ってことじゃないか? 長く過ごしてきた相手とは似てくるっていうだろ」

 「顔は全然似てないのに不思議だよね」

 「………ほっとけ」


 やぶへびだった。アルトリウスは友人たちから視線を逸らし、それ以上余計なことを言うまいと口をつぐんだ。



 アルトリウスは捨て子だった。赤ん坊の頃、木箱に入れられてバルドラの海岸に流れ着いているところを拾われ、そのままバルドラでマレビトとして育てられた。両親は分からない。恐らく、人間の両親が生まれてきた我が子に異質なものを感じ、海に流したのではないかと周囲は噂した。


 両親に捨てられたのも無理はない。〈金眼のアルトリウス〉と呼ばれていた幼い頃、自分の名とともに語られるおもしろ半分の噂話を、アルトリウスは何度も物陰で聞いた。


 彼が持つ金色の虹彩はマレビトたちの中にあっても珍しく、特に高貴なものとされていたが、それもアルトリウスが優れた予言者として認められるようになってからの評価だ。かつては彼の異端を裏づける色とまで言われ、夜の闇の中でも鋭く光をはじく彼の目は、しょっちゅうこんなふうに噂されていたものだった――あの気味の悪い目! なんでも、未来が見えるって言うよ。あいつと目を合わせると、その人死んじゃうんだって!


 アルトリウスに未来が見えるというのは、本当だった。当時も今も、予言者たちの中にさえそんな力を持つものは他にいない。視線を合わせると、見ているものが数分後、数時間後、あるいは数日後にどうなるかが手に取るように見えてしまう。その上アルトリウスに見えるのは現状から起こりうる〈結果〉だけだったので、〈先見さきみ〉をしたアルトリウスから警告された未来を避けようとして対象者が予定外の行動を取った結果、予言どおりの結末が招かれるという皮肉なこともよく起こった。


 おまえのせいだ。そんな未来は知りたくなかった。余計なことを言うな。なぜもっと早く教えてくれなかった。役立たず。役立たず。役立たず。理不尽な罵詈雑言にさらされ続けたアルトリウスは、次第に自身に本来備わった予言の力を使わずにおくようになった。


 彼にとって幸いだったのは、未来を見るかどうかは彼自身が選べたということだけだった。〈見たくない〉と念じれば、それだけで先見の力は封じておくことができた。


 アルトリウスを〈星見の丘〉で予言者として鍛えたヴェルフレッドと幼馴染のエレニアがいなければ、今頃彼の人生はまったく違ったものになっていたことだろう。不遇の時代が長かったアルトリウスが心を曲げずに済んだのは、ひとえに彼らの功績と言っても過言ではなかった。


 ヴェルフレッドは引き取り手が見つからないまま〈星見の丘〉で育てられたアルトリウスの星見の師で、アルトリウスにとっては歳の離れた兄のような存在だった。彼は褒めることも笑いかけることもほとんどなかったが、アルトリウスを取り巻く根拠のない噂話を一蹴し、予言者として必要なことを何もかも教えてくれた。


 「力をつけろ。相手を黙らせるにはそれしかない――おまえの才なら星を読み解くだけでも十分な予言ができるはずだ。不幸を人のせいにして悦に入っている輩に予言者の名を汚させることは許さん」


 アルトリウスの前に星図を何枚も広げて辛抱強く空のことわりを教えながら、ヴェルフレッドは言ったものだった。


 一方、エレニアはアルトリウスと同じくバルドラの外から流れ着いた捨て子で、悪意に囲まれて育ったアルトリウスにただひとり、親しく心を寄せてくれた少女だった。エレニアの瞳は矢車菊のような澄んだ青紫色に銀の縁取りがなされた美しいもので、その瞳が穏やかにほほえみかけてくれるたびに、アルトリウスは何度となく救われてきたのだ。幼い頃、アルトリウスに向かって偽りなくほほえんでくれたのは彼女だけだった。


 同じ捨て子であってもアルトリウスのような辛酸を舐めずに済んだ彼女は、自分がそう扱われてきたのと同じように誰に対しても優しかった。そして、かつて一度だけ自分とのつきあいを考えた方がいいと切り出したアルトリウスに、優しい口調を崩さずに言ったものだった。


 「あなたといたくて一緒にいるんだから、いいのよ。あなたが嫌でないなら、わたしの好きにさせて」


 アルトリウスは他者からの無礼をあっさり忘れることができる才と情の深さを多分に備えた青年に成長したため、予言者として認められる以前に人々から受けた仕打ちを水に流す一方でエレニアに対する少年時代からの愛を忘れることはなかった。彼は彼女を他の誰よりも愛し、その愛情に生涯をかけて貫くだけの値打ちを感じていた。


 ところが、こうした誠実さや優しさに代表される美点が数々散りばめられているにもかかわらず、かつて冷遇された経験が無意識の劣等感となって決定的に彼の足を引っ張り、彼とエレニアとの仲は十数年の間〈幼馴染〉からちっとも進展しなかった。アルトリウスは自分が愛するものにいくらでも愛を注ぐことができる性分だったが、逆に自分が愛を受け取る側に立つのを想像することは、どうしてもうまくできなかった。


 彼女の優しさは彼に対する愛ではなく、同情や憐憫から来ていたものだったのではないか。みなから慕われ、日に日に美しくなっていくエレニアを前にして、アルトリウスはそんなことを考えて立ちすくんでばかりいた。



 「昨日も星を見ていたのでしょ? 」


 野の花を摘みながら、エレニアがアルトリウスの前髪を優しく払った。アルトリウスがエレニアの薬草集めを手伝うのは昔からの習慣で、予言者としてかつてとは比べものにならないほど忙しくなった今でも、たとえ深夜までの星見が続いて寝不足になろうとも、彼は決まった曜日に必ず時間を割いていた。


 リシャールやエウゲニオがバルドラの住人に加わったばかりの頃は彼らも一時的に参加していたが、それぞれに昼間の仕事を担うようになると、アルトリウスとエレニアはまたふたりになった。友人たちがわざわざ席を外しているのは明らかだった――バルドラではマレビトたちの魔法によって豊かな暮らしが守られているため、よほどのことがない限り仕事に追われて自分の時間を作れない、などということにはならないはずだった。


 エレニアはふたりだろうが他に友人がいようが態度を変えず、幼い頃からそうであったように、優しさやいたわりを誰に対しても忘れることはなかった。言うまでもなくそれは彼女の美点だったのだが、アルトリウスの背を押してくれはしなかった。


 幼馴染として彼女のそばにいたのがアルトリウスではなかったとしても――たとえばリシャールやエウゲニオだったとしても、彼らは今のアルトリウスと似たような関係をエレニアとの間に築いていたことだろう。冷静で穏やかなリシャールや陽気で人好きのするエウゲニオには、それぞれ男としての魅力が十分にある。そして、エレニアのことを好きにならない男などいるはずがなかった。


 エレニアが目の前にいなければいくらでも美しい言葉を思いつくのに、面と向かって言葉を交わすとなると、今や不機嫌なのだと誤解されないように相槌を打つので精一杯というありさまだった。いつからこんな情けないことになってしまったのだろうか――かつて気負いなく彼女をエリーと呼び、笑い合っていた頃が懐かしかった。


 自分の細い指を額に触れさせただけでアルトリウスが心臓をどぎまぎさせているとは思いもしないのだろう、エレニアは黙っているアルトリウスを心配そうな顔で覗きこんだ。


 「疲れているのではない? 昨日も遅かったんでしょう? 」

 「……ごめん、ぼんやりしてたかな」


 覗きこまれた瞳に吸い込まれそうになり、返事もおぼつかなくなっていたなどということを悟られるわけにはいかない。アルトリウスはぎくしゃくと笑顔を浮かべた。


 「ちょっと休みましょうか。今日は暖かいし、眠くなってしまうわね」


 エレニアはアルトリウスの隣に膝を横向きに揃えて座り、小さくあくびをした。艶やかな黒髪が風に吹き流され、ぬくもりを含んだ甘い香りが鼻先をくすぐる。彼女がここまで隙を見せるのはアルトリウスに対してだけだった――仮に、エレニアがアルトリウスならどんなに緩んだ姿を見せても自分を嫌いはすまいと油断しているのだとしたら、それはその通りだと言ってよかった。


 「ごめんね、アル。遅くまでお仕事なのに、いつも野原になんてつきあわせてしまって」

 「それはいいんだ。おれも楽しみにしてるんだから」


 エレニアが申し訳なさそうに眉を下げるので、アルトリウスは慌てた。エレニアは困ったような眉のまま、瞳の表情を和らげた。


 「あなたは、バルドラのみんなにとって大切な人だもの――わたしがこんなふうに独り占めしていたらそのうちに怒られてしまうわね」

 「そんなことないさ。まだおれと目が合ったら死ぬと思ってるやつもいるんだから」

 「あなたの目、とってもきれいなのに」

 「〈陽射しを集めてできているみたい〉? 」

 「そう……あなたは自分じゃ見えないでしょうけど」


 エレニアは手すさびに手近の花を摘んで編みはじめた。彼女の胸元に揺れる首飾りの青い石が光をはじく。まだ彼女と気楽に話をしていた頃、アルトリウスがエレニアに贈った首飾り――彼女は、ずっと大切に身に着けてくれている。


 自分が何を伝えようとしているのかも心に描かないまま、アルトリウスはエレニアの名を呟いた。


 ねえ、エリー。エレニアが彼を見上げた。そのまま言葉が滑り出るのに任せてしまえば、柔らかな水の流れにゆったりと押されてゆくように、すんなりとエレニアの手を取れるのではないかと思われた――。


 「――あら、あの子たち………」


 エレニアがふいにアルトリウスの背後に気を取られた。アルトリウスは我に返り、急いでエレニアの指す方を振り向いた。


 草地を少女らしき人影がふたつ歩んでくる。バルドラの乙女の誰かではなさそうだった――遠景に煌めく海を背負って旅支度に身を包んでいるせいで、外海から流れ着いた旅人のように見えた。


 「外から来たのかな? 」


 突然リシャールがかたわらに現われ、アルトリウスはぎょっとした。その横にはエウゲニオもいる――自分で魔法を解除できない彼は、肩の辺りがまだわずかに透けていた。


 「おまえたち、見てたのか」


 まさか、これほどそばにいられて気配も感じ取れなかったとは。アルトリウスは怒る気にもならなかった。リシャールはけろりと言った。


 「今回だけね。昨日結構けしかけたつもりだったから、ちょっと様子を見ようってことになって。……やあ、エレニア。最近は、僕ら手伝えなくてごめんね」

 「アルトリウスがはっきりすればまた来られるんだけどね」


 エウゲニオがエレニアには届かない声量でぼやいた。リシャールはエウゲニオの肩をもとに戻してやりながら彼を宥めた。


 「まあ、今回は仕方ない。お客さんだ」


 少女たちは四人に気がつき、彼らに歩み寄ってきた。目深にかぶった外套の陰から覗く顔はうりふたつだった。片方の少女が――彼女の方が年長なのかもしれない――尋ねた。


 「ごきげんよう。ここはなんという国かしら? 」

 「ここはバルドラよ、お嬢ちゃんたち」


 エレニアが彼女たちに目を合わせて答えた。少女たちはエレニアの瞳の色に気がつき、顔を見合わせた。少女はさらに尋ねた。


 「それじゃ、あなた方も〈妖精〉? 」

 「ヨーセイ? 」


 四人の声がきれいに重なった。少女たちは頷いた。


 「わたしたち、妖精の国を探して歩いているの。バルドラもそうでしょう? 人の身を超えた力を持つものが隠れ住む国のひとつで、魔力を持つものしか辿り着けない――そう聞いているわ。さっき海竜がいるのも見たしね」

 「僕らは自分たちのことを〈マレビト〉と呼ぶんだよ。希少な力を持つ人、って意味さ」


 リシャールが言った。


 「外の国じゃ〈妖精〉って呼ぶの? 初めて聞いたなあ」

 「呼び方はいろいろあるわ……〈妖精〉〈魔法使い〉〈精霊〉、あと〈賢者〉とか。わたしたちは人間の国で人間の両親から生まれたの。だから、いろんなふうに呼ばれてきたわね」


 少女は見かけに反して大人びた口調で言い、ふたりして妙に説得力のある、憂鬱そうなほほえみを浮かべた。そして、外套で隠れていた顔を見せて挨拶した。


 「わたしはクーナ。彼女はメリル。あるものの消息を追って、ふたりで旅をして回っているの」



 クーナとメリルの姉妹はバルドラに客人として迎えられ、〈星見の丘〉で外界の様子や自分たちの旅の目的をバルドラのものたちに話して聞かせた。


 「わたしたちは、〈闇魚あんぎょ〉を探しているの」


 クーナが言うと、バルドラのものたちは一様に首を傾げた。アルトリウスは困惑した――彼だけならともかく、日々あらゆる知識を蓄えているヴェルフレッドや他の予言者たちも知らないというのだから、よほどのことだ。


 沈黙するバルドラのマレビトたちを前に、クーナは続けた。


 「〈闇魚〉は、目には見えません。〈不可視〉の魔法を与えられているから。魔法で攻撃することもできません。魔力を食べるように造られているから。剣や矢で攻撃しても、すぐに再生してしまうの。〈闇魚の真珠〉を取り除かない限りは」

 「それに、空を飛ぶわ」


 メリルが姉のかたわらで囁くように言った。姉妹は顔立ちこそそっくりだったが、メリルはクーナと比べると引っ込み思案な性格をしているらしかった。


 座の注意を集め、メリルは頬を赤らめながら言った。


 「普通に立ち向かっても、殺すことはできないわ」

 「……謎かけか何かかね? 」


 フィネストが言った。フィネストは長年〈星見の丘〉の統率を取ってきた偉大な長老だったが、その彼でさえ頭を抱えた。


 「何か、この世の真理を怪物にたとえた話だとかかね? 」

 「いいえ。〈闇魚〉は現実の脅威です、フィネスト。特に、わたしたちのように魔力を持つものにとっては――〈闇魚〉にとって、魔力はエサそのものですから」


 クーナは集まった誰よりも大人びた態度で言った。


 「わたしたちは妖精……〈マレビト〉の国を回り、注意を促すことにしたのです。でも、ほとんど効果はなかったわ。わたしたちが到着したときにはすでに滅ぼされたあとか、誰もわたしたちの言うことを信じてくれないかのどちらか――〈闇魚〉の特徴は、記録に残らないことです。不可視の災厄だから。国を端からだんだん食べられていき、気がついたときにはもう手遅れなのです」

 「……おれ、その〈闇魚〉ってやつ、知ってるかも」


 聴衆の沈黙を破ったのはエウゲニオだった。彼はらしくなく眉間にしわを寄せて話しはじめた。


 「おれは、もともとタラトポリスで暮らしてた。海の中にある町で、毎日魚やどっかの国の船底が頭の上を通るんだ。だけどあるとき、町の外でソロルと――ソロルっていうのはおれの友だちの海竜なんだけど――遊んでたら、突然町が端から消えていったんだ。おれに分かったのはそこまで。ソロルがおれの首根っこを咥えて、気がついたときにはバルドラの海岸の近くだった。ソロルに言っても、戻ってくれないし。おれはひとりじゃ海の中に帰れないからさ、そのままになってた………いつか、ソロルも帰る気になるだろうって」


 エウゲニオは両手で顔を覆った。クーナとメリルは顔を見合わせ、


 「タラトポリスは……」


 と切り出しかけたが、エウゲニオは彼女たちを遮った。


 「いいんだ。分かってた……何も見えなかったけど、あのときあそこには何かがいて――ソロルはおれを助けてくれたんだって。認めたくなかったんだ。だって、何も見えなかったから。見間違いかもしれないって思っていたかった。でも……」


 エウゲニオは顔を覆ったまま静かに肩を震わせた。アルトリウスはかける言葉もなかった。エウゲニオはたまたまバルドラに迷い込み、そのまま居ついた気のいい青年だとみなに思われていた。魔力は持たないが音楽に秀で、ソロルをはじめ生きものによく好かれるので、〈魔力なきエウゲニオ〉などと呼ばれながらもすっかりバルドラになじんでいた。


 友人たちですらそれを信じていて、いつも明るく朗らかな彼の過去をあえて深く聞き出したことなどなかったのだ。エレニアがそっとエウゲニオの肩を支えた。


 「僕もいいかな? 」


 みなが水を打ったように静まり返る中、リシャールが続けて手を上げた。


 「僕はレムナの生まれだ。〈レムナのリシャール〉ってみんな呼ぶくらいだから、僕が空から降りてきたことは覚えていると思う。レムナは天空都市だった。特殊な鉱石でできた土台に町を作って、みんなそこで暮らしていたんだ。だけど、あるときタラトポリスと同じように――町が土台ごと消えていった。雷がひどく鳴っている日だった」


 リシャールはそこで一度言葉を切った。そして、呟くように先を続けた。


 「今にして思えば、僕は〈闇魚〉を見たかもしれない」

 「なんですって」


 姉妹が身を乗り出した。


 「それは本当なの? どうやって姿を見たの? 」

 「確証があるわけじゃない。それまで見たことのないものを見たあと、経験したことのないことが起きたというだけで」


 リシャールはそう断った上で話した。


 「たまたまだった――雷が〈何か〉に落ちたんだ。目の前に、一瞬山みたいなものが浮かび上がった。そのあとすぐ町の西側が消えたんだ。悲鳴も残らなかったよ。――自分の見たものが何なのかは分からなかったけど、みんなに知らせに行こうと思った。でも、その前に土台が崩壊してしまったんだ」

 「あなたたちが無事でいてくれてよかった」


 クーナが思いやり深く言った。


 「今まであちこち訪ねてきたけど、まともに話を聞いてもらったのは初めてよ」

 「その〈闇魚〉がバルドラにやってくる可能性はあるのか? 」


 ヴェルフレッドが話の要点を几帳面に書き留めながら聞いた。姉妹は首を振った。


 「分からないわ。あの災厄が今どこにいて、次に何をしようとしているかを正確に探り出すのはとても難しいことなの。だけど、バルドラだけが無事でいられるとは……思えない」

 「おれが星を見よう。そんなに大きな災いなら、空に現われるはずだ」


 アルトリウスは言った。


 「予兆が現れても、何のことだか分からなければ読み切れない。だが、事前に知識があれば話は別だ」

 「予兆を読むなんて、思いつかなかったわ……どうやっても気配を察知することすらできないと思っていたから」


 姉妹はアルトリウスを眩しげに見つめた。フィネストは頷いて了解を示し、ヴェルフレッドは丸めた議事録でアルトリウスを小突いた。


 「変わったものが見えたらすぐ報告を上げろ。……地上の〈星〉に気を取られて怠るなよ」

 「……星を見ながら上の空になったりはしないよ。〈星〉のためにも」

 「当然だ」


 小声で交わされるやり取りをよそに、エレニアは心配そうに姉妹に尋ねた。


 「〈闇魚〉を探しているって言ったわね。どうしてあなたたちみたいな小さな女の子が、そんな大変なことをしているの? 同じことをしている人が他にいるの? 」

 「あら。わたしたちあなたより年上なのよ、エレニア。もしかしたら、フィネストよりもね」


 マレビトたちはぎょっとして姉妹を見た――姉妹の顔立ちは、どう見てもアルトリウスたちより幼かった。だが、彼女たちの振舞いの中に少女らしからぬ気配が見え隠れしていたのもまた確かだった。クーナとメリルは唇の端を少し上げて、長い旅路に疲れ切った老女のような、無邪気さとはかけ離れたほほえみを見せた。


 「わたしたち、自分で自分に呪いをかけたのよ。目的を果たす前に寿命が来てしまったら困るもの」

 「自分たちの時間を止めているのかね」


 フィネストが呆気に取られた様子で姉妹に尋ねた。クーナがあっさりと頷いたのを見て、表情が歪む。命や時に関する魔法は、ほとんどが禁忌の領域だ。たとえ禁じられていなくても、たやすく成就させられるような安易な魔法とは違う。


 クーナは静かに言った。


 「魔法の出来は使い手の意志の強さに影響されるわ、フィネスト。わたしたちは、どうしてもこの呪いを成功させなければならなかった。わたしたちの手で〈闇魚〉を完全に消滅させるために」

 「……なぜそうまでして〈闇魚〉を追うのかね? 」


 フィネストは得体のしれないものを見るような目を姉妹に向けた。アルトリウスは視線を逸らした――フィネストの目の表情は、かつてアルトリウスが人々から浴びせられてきたものとまったく同じだった。


 クーナはひとつ息をついたが、隠し立てはしなかった。


 「〈闇魚〉を作ったのは、わたしたちだからよ」



 外界の国では、人間の王が魔力を持つものを補佐につけて政を行うことは珍しくないのだとクーナは語った。人目を引くような強い力を持つものほど、そうして誰かに仕える以外に道はない。クーナとメリルも、物心ついた頃には生まれた国の王宮に迎えられていたという。


 彼女たちが生まれた国は、周辺の小国を併呑するうちに大きくなった国だった。代々の国王は気性が荒く戦好きで、姉妹が仕えた君主もそれは同じだった。彼女たちはいくつもの戦の行方を占い、幸先が悪ければ確実に勝利を呼び込む方法を考え出さねばならなかった。


 ある戦は、はじめる前からすでに負けが見えていた。侵攻しようとしている国の王宮にも魔力を持つ賢者の補佐がおり、彼の魔法によって作り出された兵団が、こちらの軍勢を完膚なきまでに叩きのめす――姉妹は主を説得しようとしたが、無駄だった。何か対抗策を打ち出さねば首をはねると脅された。ふたりは魔法の軍団を相手取っても対等以上に戦える方法を考えざるを得なかった。処刑など、魔法を使える彼女たちにとっては何の脅威にもなりえない。だが、戦に負ければ民の多くが故郷を失うことになるのだ。


 姉妹は魔力を糧とする生物を作り出すことにした。魔法による攻撃を受けつけず、目で見ることもできない。剣や弓を使えば傷を負わせることはできるが、傷つけてもすぐに復活する――相手は対策を立てることもできず、端から食われることになるだろう。陸地の罠にかからないように、空を飛ぶものがいい。生きている限り大きくなりつづける魚がいい。クーナとメリルは、被検体の魚に魔力を込めた真珠を食わせた。他の方法では、普通の魚を怪物に仕立て上げることはできなかった。空を飛ぶ怪魚は、〈闇魚〉と名づけられた。


 ところが、成果を急いだ君主は調整途中の闇魚を姉妹のもとから持ち出し、勝手に解放した。制御や対抗のための決定的な弱点を与えられないまま解き放たれた闇魚は魔力の軍勢を平らげて力をつけ、瞬く間に不可視の災厄と化した。闇魚は人間たちが暮らす土地の微量な魔力をその上に住む人間たちごと無差別に呑みこみ、誰にも気づかれずに次の土地へ去っていった。ふたつの国も、民たちも、痕跡すら残さず歴史から消えた。


 クーナとメリルはみずからに呪いを課した。闇魚を無力化し、人々にとっての脅威がなくなるまで、彼女たちは歳を重ねることができなくなった。約百年。彼女たちは、旅を続けている。……


 「ああしてると、三姉妹みたいだね」


 夕闇が迫りつつある〈星見の丘〉でリシャールが言った。西日が射す広場で、エレニアが姉妹と何やら楽しそうに話しているのが彼らから見えていた。年長の姉と、年子の妹たち。何も知らなければそう思うところだ。


 実際にはクーナたちの方が年上なのだと分かってさえ、アルトリウスたちは姉妹を妹のように扱い、姉妹の方でも彼らを兄や姉と思っているような節があった。特に同性のエレニアは彼女たちと親しみ、折に触れて世話を焼いている場面によく出会った。幼くして王宮に仕え、その後旅をし続けてきた姉妹は、互いの他に誰かと深く関わり合いにはなってこなかったのだろう。人一倍の知識を蓄えてはいるが、心は無垢なままなのかもしれなかった。


 アルトリウスは闇魚によって故郷を失った友人たちがその元凶である姉妹にどう反応するかが少し心配だった。しかし、リシャールもエウゲニオも表向き特に目立った変化は見せなかった。


 「なんにも思わないってほど人間はできてないけどさ」


 エウゲニオは愛用の楽器を調弦しながら言った。


 「別にあの子たちが悪いわけじゃないしね。そこまで人でなしにはなれないよ」

 「百年も姿の見えないものを探し続けてるっていうんだから、僕らには計り知れない世界だ」


 リシャールの言葉もあくまで穏やかだった。


 「責める気にはなれないよね。あの子たちはきちんと責任を取ろうとしているわけだし、実際にもう、個人が責任を負える範囲の話じゃなくなってるもの。――三人とも上がってくればいいのに。アルトリウスの仕事が進まないったら」

 「………まだ明るいんだから仕方ないだろ。星なんかろくに見えやしない」

 「女の子だけでなに話してるんだろうね」


 渋い顔をするアルトリウスを尻目に、エウゲニオはにこにこと少女たちを見下ろした。青年たちがいる場所からは、彼女たちの表情の動きは見えても詳しい話の中身までは聞こえなかった。


 リシャールにぼやかれるくらい、アルトリウスはエレニアの表情に目を奪われていた。クーナとメリルに挟まれて井戸端に腰かけているエレニアが手前にいるクーナの方を見たときだけ、彼から彼女の表情が見えるのだ。アルトリウスたちが見下ろしているのと、エレニア自身が姉妹のために目線を下げて話しているのとで普段より伏し目がちなその面持ちは、ただ優しくて甘やかだった。何か楽しい話をしているのだろう、姉妹と笑い合っているのを見ていると、彼女たちがいる場所にだけ昼の陽光の名残りがあるようだった。


 「ねえ、アルトリウス。あそこにずいぶん明るい星があるよ」


 リシャールにつつかれ、アルトリウスは我に返った。空はまだ星で満ちるほど暗くはない。しかし、リシャールが示した方には確かにやけに明るい星が輝いていた。


 見慣れない星、というわけではなかった。いつもは内側に光を入れたような淡い輝き方をするその星は、魔法によって外界から隠されているバルドラの象徴として読み解かれるのが常だった。


 アルトリウスは目を細めた。星の配置からして、そう遠い未来を表しているわけではなさそうだった――しかし、誰よりも星と親しんでいる彼が自分の見立てを疑うくらいに、示された未来には現実味がなかった。


 「バルドラが〈現れる〉……」

 「え? 」


 エウゲニオが怪訝そうに振り向いた。


 「現れるって、どういう意味? 外の国と交流するようになるってこと? 」

 「外の国から見えるようになるなら、確かに〈現れる〉だね」


 リシャールが腕を組んだ。


 「でもそれって相当難しいというか、歴史がひっくり返るようなことなんじゃない? レムナやタラトポリスだって、はじまりは同じさ――マレビトが自分たちだけで隠れ住むようになったのは、〈魔力なきひと〉とマレビトがうまく折り合わなかったからだ。いつも結論は同じ。それこそ、クーナたちがそうだったみたいにね」

 「今も状況は変わらないのかな? おれたちは誰も外のことなんか分からないけどさ、今でもマレビトってその……おかしな力を持ってるって思われてるのかな? 」


 エウゲニオの疑問はもっともだった。アルトリウスは他の星の状況を見極めようとしたが、明るい空の中に辛うじて見えている星だけでは詳細は分からなかった。


 「マレビトが隠れるようになってからもう千年は経っている。そして、クーナたちが王に仕えていたときからもすでに百年経っている。まだ人間と一緒に暮らしているマレビトがいるかどうかは分からないが、今となってはマレビトなんて忘れられているかもな」

 「だとしたら、余計に不思議だよね。どうして今さらバルドラが〈現れる〉ことになるんだろう……僕らが言うような意味だったとしたら、だけど。何か、他に読み取れることはないの? 」


 リシャールが言うので、アルトリウスは空に目を戻した。明るい空に輝く星が現れたことも、何かの予兆に違いない。だとしたら、夜を待たずに読み取れる情報がまだあるはずだった。


 すると、バルドラの星のそばにいくつか星が光りはじめているのが見つかった。アルトリウスは自分が受け取った兆しを口にするしかなかった――予言者が自分の理解力に合わせて星の輝きを疑うことは許されないのだ。


 「バルドラの中に〈魔力なきひと〉が現れる」

 「おれのこと? 」


 エウゲニオが首を傾げた。アルトリウスは星図に書き取った星と空を何度も見比べたが、他にできそうな解釈は今のところなかった。


 「いや、〈魔力なきひと〉が新しく現れる――あの辺りの星なんだが、あれはいつもこの時間には見えないんだ。輝き方が変わっている。マレビトだったものが、〈魔力なきひと〉に変わる、ということかもしれない。……そして、バルドラは〈現れる〉」

 「そのふたつに関係があるってことなのかな」


 リシャールは目を細めて、自分も星を探した。ところがそのとき、濃い色をした夕刻の雲が空を滑ってきて、三人が見ていた辺りを覆い隠した。輝き方が変わった星がいくつか、鈍く光り残った。


 「あらら。上の方、風が強いのかな? 」


 どけようか? リシャールは言ったが、アルトリウスは黙り込んだ。的確な予兆が受け取れたわけではない。だが、バルドラを覆うように現れた巨大な暗い影は、たとえようもなく不吉なものに感じられた。


 星見における〈雲〉の解釈は何通りかある。雨や雷を隠し持っていることから見えざる敵を暗示することもあるし、未来を見るにはふさわしくない時期であるため、天の意思によって星が隠された、という読み方をすることもある。あるいは、待機が望ましい時期。あるいは、水面下で進む状況。


 またあるいは、つかみどころがなく、対処の難しい災い。


 「フィネストとヴェルフレッドに報告を上げる」


 アルトリウスが呟いたので、友人たちはぎょっとした様子で彼を見た。彼らに自分の解釈を打ち明けたものかどうか、アルトリウスは迷った――自分が見たものは、まだ予兆にすぎない。予言者同士で共有するのはともかく、友人たちにまでいたずらに話して彼らの平穏を削り取りたくはなかった。リシャールが不安げに言った。


 「どうしたの? 見えちゃマズいものが見えたとか? 」

 「……いや。未来は変わる」


 アルトリウスはこれ以上ふたりの注意を引かないように、ちらりと笑ってから星図を丸めて片づけた。これは夜空について記したものとは別に、あとでヴェルフレッドたちのところへ持って行かなくてはならない。


 予言者は自分の理解を超えた兆しでも素直に受け取るのが鉄則だ。彼の意思や望みに合わせて予言を歪曲することは決して許されない。しかし、今度ばかりはさすがのアルトリウスも、できることなら自分の解釈違いであってほしいと思わずにはいられなかった。


 「なになに? もしかして、ついに失恋の兆しが見えた? 」


 エウゲニオが沈黙を和らげてくれた。彼には分かりやすい魔力こそないが、人の心の機微を読み取る力が頭ひとつ抜け、どんなに気づまりな雰囲気でも打開する一言を的確に発することができた。アルトリウスは彼に乗ることにした。


 「おまえ、またそれか! 縁起でもないこと言うなって! 」


 ところが、エウゲニオは眉を下げた。


 「冗談だから言えるんだよ……エレニアがアルトリウスを選ばないなんて、考えられないもの」

 「そうだね。なんなら本当にバルドラが〈現れる〉ことの方がよっぽど可能性があるよ」


 友人たちが続けざまに言い、彼らの顔がどちらも思いがけず真剣だったので、アルトリウスはまた黙り込むはめになった。


 「アルトリウスってさ、どうしてそんなに自信ないの? 」


 エウゲニオが穏やかに尋ねた。


 「おれたちは昔のバルドラを知ってるわけじゃないけどさ……でも、そのときのことがまだ君を縛っているとしたら、それは君がその場から動くのを自分であきらめているだけなんじゃないの? 」

 「あのさ、アルトリウス。子どもの頃縄につながれていた猛獣が、大人になったときどうするかってやつ知ってる? 」


 リシャールがふいに言った。アルトリウスはぎくしゃくと答えた。


 「……そりゃあ、自分をつないでいた連中を片っ端から食ってしまうんじゃないか」

 「違う。大人になっても、猛獣は縄につながれたままその場でうずくまっているんだ。子どもの頃に逃げられなかったから、大人になってからも逃げられないと思い込んでしまう。いや、自分が大人になって、前とは違うということにも気がつくことができないんだ。実際には縄を切り裂く頑丈な爪が生え揃って、君が言うように人間を襲うことだってできるのに、だよ。……僕らが言いたいこと、分かるよね? 」

 「分かるさ」


 アルトリウスは辛うじて言い返した。ふたりとも友人のじれったい色恋沙汰を楽しんでいるだけだろうと思っていたのに、本当はどうやらそうではなかったらしいということにアルトリウスはようやく気がついたのだった。


 「今のおれは、予言者だ……昔とは違うさ」

 「才覚を理由にしている時点で分かってないんだよね。自分のことをきちんと認めているとは言えない。自分に対する考察が死ぬほど下手くそなんだ、君は」


 リシャールが手厳しく言った。今日の彼は、追及の手を緩めるつもりはないようだった。


 「君が僕らを友人と呼ぶのは、僕らの力が有用だから? エレニアのことを好きなのは、彼女が役に立つからなの? 」

 「違う! 馬鹿なこと言うな! 」


 アルトリウスは驚き、思わず声を荒らげた。リシャールは頷いた。


 「そう、そんなふうに人を判断するのは間違っている。まるで人でなしさ。でも君が君に対してしているのって、それに近い仕打ちだと思わないか? 」

 「確かに、アルトリウスが予言者だからっていう理由でなかよくしておこうと思っているやつはいるかもね」


 エウゲニオがリシャールと陽気に肩を組んだ。


 「でも、おれたちはそうじゃない。もちろん、エレニアもね。君が予言者だろうがそうじゃなかろうが、変わんないよ」


 このとき、広場の少女たちの方でも何か言い合いがあったらしく、エレニアが悲鳴のような声を上げた。アルトリウスは反射的に彼女を見た。なぜか、エレニアの方でもちょうど彼の方を見上げたところだった。遠いが、確かに目が合った気がした――その瞬間、エレニアがかつて見せたことのない表情を浮かべた。彼女は真っ赤になり、視線をうろうろさせ、実に気まずそうにアルトリウスから視線を外した。


 「クーナたちも気にしてたんだね」


 エウゲニオがさも当然のような顔をして言った。リシャールも頷いている。


 「エレニアとアルトリウスは恋人同士なの? ……とか、多分そんなこと聞かれたんだよ」

 「……なぜそんなことが分かるんだ」

 「僕ら、エレニアにああいう反応させたことあるから。アルトリウスのことどう思ってるの? って聞いたんだ――そのときなんて言われたか、教えてあげようか? 」


 アルトリウスは言葉に詰まった。だが、どんなに逡巡しようと彼はここまでつつかれてなお黙っているような性格ではなかった。


 「いや、いい――明日本人に確かめるから」

 「今からじゃないの? 」

 「おれにだって理想がある。……心配するな。もう先延ばしにはしない」


 うららかに晴れている日、見晴らしのいい草原で。高く澄んだ空と海の輝きに包まれながら。彼女に愛を打ち明け、手を取り合うのだ――いくら決意にこぎつけるまで十数年を費やしているからといって、長年胸に温めてきた理想を捨てて行き当たりばったりに告白するわけにはいかない。


 エレニアにとっても美しい記憶として残ってほしい――ふと思い出したときにいつでも煌めくような、鮮やかな思い出として。アルトリウスはエレニアとのかかわりの中で、そうした瞬間を彼女からいくつも受け取ってきた。できることなら、これから少しずつ彼女に同じような喜びを手渡したかった。


 リシャールとエウゲニオは笑って顔を見合わせた。


 「よかった。あと十年は必要かと思ってた」

 「……いくら何でもそんなに待たせたりしない」


 視線の先のエレニアは、クーナたちにつつかれて再びアルトリウスを振り向いた。アルトリウスはエレニアにほほえみかけ、彼女に手を振った。エレニアははにかみながら彼と同じように笑顔を浮かべた。長く一緒にいるうちに、ふたりの間に特別な約束は必要なくなっていた――明日もまた同じ場所で同じように顔を合わせることになるだろう。


 バルドラの星を覆う災厄の兆しが脳裏をかすめたが、長年のためらいを捨て去る決意をした彼の心を曇らせることはもはやできなかった。


 どんな予兆であろうと、まだ確定していない、無限に枝分かれした未来の可能性のひとつにすぎない。人は誰もが、今手元にあるものからでしか先を予測することができないのだ――今日の空になかった希望の星が明日突然に輝くかもしれない。望ましくない位置に陣取っていた星が急に流れるかもしれない。


 未来は変わる。それは咄嗟に出た一言ではあったのだが、確かに正しかった。そして、ひどく美しい希望に満ちていた。


 そう、未来は変わる。どんなに優しい明日の到来を確信していても。


 「誰か! 」


 翌日の明け方近く、〈星見の丘〉に駆け込んできたものがいた。


 バルドラの乙女たちだった。最初に気づいたのはアルトリウスだった――彼は数時間後に訪れるエレニアとの時間のことを思って目が冴えてしまい、自室の窓から次第に明るくなる空を眺めていたのだ。


 「どうした? 」

 「何の騒ぎだ」


 アルトリウスが彼女たちを出迎えるのと同時に、ヴェルフレッドも玄関へ出てきた。彼のことだ、この時間まで仕事をしていたのだろう。乙女たちは気の毒なくらい真っ青で、ふたりの顔を見るや否やがたがた震えながら泣き出した。


 「泣く前に説明しなさい……」


 ヴェルフレッドが眉を寄せた。アルトリウスはもう少し優しい言い方で彼女たちから話を聞こうとしたが、乙女たちが発した言葉で冷静さを失うことになった。


 「エレニアが……」


 アルトリウスは血の気が引くのを感じた。彼女たちの様子からして、いい報告ではないことは明らかだ。なぜそこによりによって、エレニアの名が出てくるのだ? なぜ彼女は、ここに来ていないのだ? 


 「……エレニアが、どうした? 」


 震える声が言った。細く気迫のない、情けない響きのその声が自分のものであるとアルトリウスが気づくまでには、しばらくかかった。


 明け方にしか採取できない薬草を摘むため、エレニアに手伝ってもらっていたのだと乙女たちは言った。海辺の森で目的の草を探している最中に突然大地が揺れ、前にいたエレニアが消えてしまった――自分たちは足元に迫る土地の崩壊に巻きこまれないよう逃げてくるのが精一杯だったのだと。


 乙女たちがいた場所はアルトリウスも知っている外れの森だったが、風景は様変わりしていた。乙女たちにここだと言われなければ分からなかったほどだ。森は半分以上が失われ、離れた場所にあったはずの海が足元にまで迫っていた。濁った水が、むき出しの土を浸して削り取っていた。


 「……エレニア? 」


 アルトリウスはエレニアがいたという場所に足を踏み入れ、彼女を呼んだ。エレニアがアルトリウスの声に応えなかったことは一度もない。だが、返事はなかった。


 「エレニア! 」


 アルトリウスの声に驚いた鳥が、近くの木から飛び去った。アルトリウスは気が遠くなりそうになるのを何とか抑えながら、意思に反してばくばくと高鳴りはじめた鼓動を鎮めようとした。まだ、分からない。本当にエレニアがここにいたのかどうかも、こんなに様相が変わってしまっては分からないのだ。


 だが。


 「……アルトリウス」


 ヴェルフレッドが低い声で呟き、足元から何かを拾い上げた。磯臭い泥にまみれて見る影もないそれが何であるか、アルトリウスは手に取ってしばらくしてようやく気がついた。


 ほとんど泥の色に染まってしまっている中で、わずかに残された鮮やかな空色。エレニアの衣の切れ端だった。



 これが闇魚という災厄なのだと、バルドラの人々は思い知った。闇魚は確かに実在し、姿を見せないままマレビトを食うのだと。闇魚が出現したのにバルドラがまだ滅びていないのは、バルドラという土地そのものの魔力の量が多く、闇魚がひとまず満足したからではないかというのがクーナの見解だった。


 〈星見の丘〉では連日闇魚に対抗するための手段が模索され、バルドラを滅ぼされずに済む方法が日夜議論された。


 「闇魚は去ってはいない」


 アルトリウスは星図を何枚も机に広げて言った。


 「この雲が、毎日濃くなっている――いつかはこの辺りの星がまったく見えなくなるだろう。そうなったらおしまいだ」

 「猶予はあるということだな……わずかにでも」


 フィネストは星図に記されたバルドラの星が辛うじて光を保っているのを見て言った。


 「我々は幸運だった。まだエレニアひとりの犠牲で済んでいるのだから」

 「フィネスト! 」


 ヴェルフレッドが声を荒らげた。だが、フィネストは取り合わなかった。


 「我々みなが一度に食われた方がよかったとでも言うつもりかね? 」


 アルトリウスは立ち上がり、部屋を出て行きざま呟いた。


 「おれはそれでもよかった」


 ヴェルフレッドがアルトリウスに続いて部屋を出て、彼の肩を掴んだ。


 「アルトリウス。おまえ、何日寝ていない」

 「寝てるよ、ちゃんと。今だって、これからひと眠りしようとしてたところだ」

 「リシャールとエウゲニオが言っていた――自分たちと別れたあとも、おまえが夜通し星を見ているとな」

 「あいつら……」


 アルトリウスがぼやいたとき、ちょうどその〈あいつら〉が訪ねてきた。リシャールとエウゲニオはふたりに挨拶しようとしたが、アルトリウスがどんよりと自分たちを見ているので立ち止まった。エウゲニオは片眉を器用に吊り上げた。


 「――その顔色はヤバいよ、アルトリウス。ちゃんと寝た方がいいって」

 「寝ようとはしてるさ。おれが過労死したってエレニアは戻ってこないからな」


 全員が沈黙した。アルトリウスは静かに笑った。


 「おれだって、休まずにいられるなんて思ってないよ。休もうと思ってもうまく眠れないだけだ」

 「――大丈夫か? 」


 ヴェルフレッドがそっと尋ねた。常日頃厳しい彼には珍しい口調だった。


 「起きていた方がマシなんだ」


 アルトリウスは眉間に力を入れた。そうすると、ふらつく頭が少しは楽になる。


 「うまく寝られても、夢を見るからな。願いが叶った夢だ。ずっと似たような場面ばかり見るんだ。そうすると、おれは嬉しくて飛び起きてしまう……でも、現実ではもう絶対叶わないと分かっている願いが叶った夢なんて、悪夢よりたちが悪いよ。……そうだろ? 」


 残る三人は――場を和ませる才を持つエウゲニオですら――何も言えずに互いに顔を見合わせた。アルトリウスが私怨から熱くなり、周囲に当たり散らしているというのなら、まだ救いがあった。


 あくまで穏やかにほほえんでいるその顔は、エレニアを失って心をすり減らしている証のように周囲には思えた。もはや、自分たちに八つ当たりする元気も彼には残っていないのだと――。


 アルトリウスは黙ってしまった友人たちの肩をそっと叩いた。


 「浮かない顔するな。現実に闇魚の害が出ているんだ――おれがのんびり寝ているわけにはいかないだろ。まだ具体的な対策もできてないんだから」

 「でもさ――」


 エウゲニオが諦めずに何か言おうとした。アルトリウスはそんな友人を見て、ふとかつて自分が読み取った不思議な空のことを思い出した。


 「バルドラに〈魔力なきひと〉が現れる……」

 「なんだと? 」


 ヴェルフレッドが聞き返したが、アルトリウスは聞いていなかった。闇魚の特性はなんだった? 魔力を食うために作られ、魔力を糧としているのではなかったか? ………


 「もしかしたら……〈魔力なきひと〉なら、闇魚に近づけるんじゃないか? 」

 「この間の予言が、ここにつながるのか」


 リシャールが腕を組んだ。


 「可能性はあるね――〈魔力なきひと〉を食わないというわけではないだろうけど、闇魚は魔力を食べるように造られてるんでしょ? マレビトと〈魔力なきひと〉が並んでいたら、マレビトの方に来るのかも」

 「そうだ。マレビトが囮になって闇魚を引きつけている隙に攻撃ができるかもしれない。まだ確証はないが――」

 「闇魚に関しては確証など得ようがない。戦うどころか、まともに認知されたこともない相手だとあの姉妹は言っていた」


 ヴェルフレッドは眉間の皺をいっそう深くした。


 「確か、魔法による攻撃は効果がないとも言っていたな。魔力を持ったものばかりでは対処が難しかったかもしれんが……試してみる価値はありそうだ」


 マレビトを〈魔力なきひと〉に変える。アルトリウスたちのこの提案はバルドラ中に賛否両論を巻き起こした。なぜマレビトである自分たちが力を持たないもののまねごとをしなくてはならないのかと正面切って反発してくるものもいれば、他に対処のしようがないのであれば仕方がない、試してみるしかない、と理解を示すもの、二度と現れないかもしれないもののためにそうまでして対策を取るなど大袈裟だというものもいた。〈死神〉の言うことなど聞けるか、と悪しざまに罵るものも現れた。


 だが最終的には数人の協力者が集まり、一時的に〈魔力なきひと〉に変えられることになった。その中にはヴェルフレッドも含まれていた。


 「わたしはもともと、おまえたちほど魔力が強いわけではない」


 ヴェルフレッドは自分の魔力がきちんと封じられたことを確かめながらアルトリウスに言った。


 「もし魔法でしか対処できない災厄であれば大して役には立たなかっただろう。……確か、闇魚は〈闇魚の真珠〉を摘出しなければ再生し続けるという話だったな。相手がどの程度の規模なのかはまだ分からないが、決着がつくまで食われるなよ」



 決戦の日はすぐにやってきた。バルドラで〈魔力なきひと〉が生み出された三日後の夕刻、アルトリウスは雲の動きが変わったことに気がついた。まだ星が見える時間帯ではなかったが、暗雲が垂れ込めてくる様子は誰の目にも不吉だったのだ。


 不可視の闇魚を捉えるため、リシャールの力によってバルドラに雷雨がもたらされた。アルトリウスはリシャールや姉妹とともに〈星見の丘〉に立ち、長らく使わずにいた先見の力を使って闇魚が現れる方向を予知しようとした。


 「西だ! 海の方から来る! 十分後! 」


 住人たちに避難が促され、〈魔力なきひと〉たちが家屋の屋根に上がった。エウゲニオは竜の背に乗り、上空から警戒した。


 「あそこ! 」


 メリルが空を指さした。降り続く雨が奇妙な形に途切れ、目に見えない異形がそこにいることを示していた。リシャールの雷がそちらを狙って撃ち落とされる――稲光によって浮かび上がったに、バルドラのものたちは絶句した。


 ――大きい。稲光は一瞬で消え去ったが、それでも闇魚の全長がいかに巨大であるかを人々に知らしめた。


 闇魚の頭はまもなく〈星見の丘〉に到達しようとしている。だが、尾びれははるか遠く、海原の上にあった。


 「うそ」


 クーナが青ざめ、妹の手を握った。


 「わたしたちは、あんなに……あんなに大きなものは………」


 リシャールが続けざまに雷を落とす。浮かび上がった巨体めがけて〈魔力なきもの〉たちが斬りかかるのが〈星見の丘〉から見えた。魔法で強化された剣には、ひと振りで闇魚を切り裂くほどの威力は確かにあった。尾びれや胸びれは本体から切り離されると姿を現し、空中から赤黒い体液がしたたり落ちた。西側の通りは、ばらばらになった闇魚の体で埋め尽くされた。


 だが、闇魚を止めることはできなかった。できたはずの傷はすぐに見えなくなり、さらに一撃を加えようとした青年と、近くにいたヴェルフレッドが突然横向きに吹き飛ばされた。


 エウゲニオが上空から闇魚の首を狙って奇襲をかけたが、結果は変わらなかった。頭を切り落とされても闇魚は止まらず、首から下の体が落下して町を破壊した……予想外の事態に反応が遅れたエウゲニオは、乗っていた竜もろとも闇魚に叩き落とされた。


 「………ダメだ! 逃げろアルトリウス! 」


 地面に積み上がった闇魚の一部の上に落ち、血まみれになりながらエウゲニオが叫んだ。


 「間に合わない! ……」


 リシャールが悲痛な声を上げた。雷が途切れ、〈星見の丘〉の目前に迫っていた闇魚が再び姿をくらます――周囲の柱が崩壊する――生温かい風のようなものが吹きかかり、闇魚の凶悪なあぎとが目の前で開かれているのを感じる――。


 「アルトリウス! 」


 リシャールの叫びは悲鳴に近かった。アルトリウスは立ち止まらなかった。背を追ってくる制止の声など、彼の耳には届いていなかった。


 こいつがエレニアを。闇魚が浮かび上がったとき、真っ先に彼の心を染めたのは恐怖ではなく怒りだった。全身を熱い血が巡り、手足が意志より早く動く。


 許さない。許さない、絶対に!


 体の左側に衝撃が走った。左腕が肩から消え、脇腹がえぐれている――だが、アルトリウスは止まらない。痛みは感じなかった。折れた柱を魔法で持ち上げ、自分の左側をめがけて叩き落した。あれだけの巨体だ。当たるに決まっている。


 串刺しになった闇魚から吹き出してくる血が目障りだ。アルトリウスは返り血を浴びるのも構わず、折れた柱を一本ずつ闇魚に突き刺して釘づけにした。


 「……アルトリウス」


 リシャールにそっと右腕をつかまれ、アルトリウスは我に返った。〈星見の丘〉は半壊し、柱で床に縫い留められた闇魚が横たわっていた。姿は見えないが、血だまりと中空に突き立った柱がその存在を示していた。頭を集中的に破壊されたために、死なないまでも一時的な行動不能状態に陥ったようだ。リシャールは泣いていた――ごめん、とその口が呟いた。


 アルトリウスは泣き崩れた。それまでどんなに泣こうとしても出てこなかった涙が、膝をついた床にぽつぽつと染みを作った。


 バルドラの人々が駆け寄ってくる。彼らの足音と遠い声を聞きながら、アルトリウスは意識を失った。



 アルトリウスに捕縛された闇魚は人々によって解体され、〈闇魚の真珠〉を探す作業が進められることになった。解体といっても、容易ではない。自己再生する特質を持った闇魚は、手を休めようものならすぐに復活する恐れがあった。その再生能力は凄まじく、切り離した部分がものの数秒で回復してしまう。解体と再生のいたちごっこが繰り返された。


 同じひれや骨が周囲に積み重なり、血と脂が大地を汚した。切り離された体は数時間のうちに腐り、死の臭いを撒き散らしながら灰になるのだった。


 重傷を負ったアルトリウスは〈星見の丘〉に隔離され、進展があったら必ず報せるから、と言い含められて療養していた。容体は安定せず、友人たちと言葉を交わせることもあれば、熱に浮かされ、震えながらうわごとを呟き続けていることもあった。


 彼が目覚めているときに一度、闇魚から見つかったという宝石らしきものが〈星見の丘〉に持ち込まれた。


 「これは〈真珠〉じゃないわ」


 クーナたちは見覚えがないと言ったが、アルトリウスはその石を知っていた。

 それは、アルトリウスがかつてエレニアに贈った首飾りの宝石だった。主役として使われていた青い石ではないが、間違いない。


 「あれは魔除けだったんだ――〈エリーに悪いことが来ないように〉って。いいことがあるように。幸せを………」


 アルトリウスはそのたったひと粒の宝石を握りしめて、病床でほのかに笑いながら涙を流した。闇魚を捕縛したときにアルトリウスを支配していた怒りと憎しみはすでに彼の魂から去り、失意と失血が穏やかに彼を弱らせていった。


 「よく似合ってはいたが、役には立たなかったな」


 〈真珠〉は一向に見つからなかった。百年の間各地で魔力を食い、作り出された頃の何倍にも育っているばかりか解体するそばから簡単に再生してしまう闇魚から指の先ほどの真珠を探し出すのは困難を極めた。


 「〈真珠〉が見つからない限り終わらないよ。あんな変なもの、この世の中にいたんだねえ」


 作業現場から交代してきたエウゲニオが言った。どんなに閉塞的な話題でも、彼が話すと気楽で愉快な世間話のように聞こえるのだった。


 「どんなに細切れにしてもだめだ――ひとかけらでも残っていれば新しい体が生えてくるか、かけら同士がくっついて一瞬で再生するんだよ。切っても切っても終わらない。でも、ここまで闇魚に関わったのはおれたちが初めてだってさ」

 「そうか………」


 アルトリウスは静かに相槌を打った。彼にはすでにひとつ考えがあった。


 「クーナたちはどうしてる? 」

 「ふたりとも闇魚を解体する現場に来ているよ。〈真珠〉がどんなかは、ふたりしか知らないからね」

 「そうか。……どちらかひとりでいい、呼んできてくれないか。相談したいことがある。リシャールとヴェルフレッドも、できれば」


 エウゲニオは何か言いたそうにアルトリウスを見ていた。しかし彼と視線が合わないと分かると、分かった、と短く言って部屋を出て行った。


 闇魚の時を止め、一時的に封印をほどこしてはどうか。アルトリウスの話を聞いた友人たちは絶句した。アルトリウスは説明した。


 「時間に関する魔法は伝説上のものだと思っていたが、クーナたちのような例がある。やろうと思えばできるってことだ」

 「強い魔法は代償も大きいのよ、アルトリウス」


 エウゲニオに連れられてきたクーナがおろおろと言った。


 「わたしたちは闇魚を退治するために人生全部を使うと誓ったわ。だから、闇魚の去った土地には長く留まることはできない。個人的な幸福すべてと引き換えにして、無理やり時間を止めているのよ」

 「つまり、できるんだろ。対価さえ差し出せば」


 アルトリウスは目を閉じた。


 「闇魚の時間を止める――代償は、残りのおれの命だ」

 「だめだよ! 」


 エウゲニオが悲鳴を上げた。部屋に集まっている中で声を上げたのは彼だけだったが、リシャールやヴェルフレッドも頬の辺りをさっと緊張させた。


 「どうして……おれ、そんなことだって分かってたら―――」

 「このままじゃ千年経っても同じことの繰り返しだぞ。闇魚は〈真珠〉を見つけない限り再生し続けるんだろ――〈真珠〉を見つけるどころか、作業自体が全然進んでいない。違うか? 永遠に根競べだ」


 友人たちは黙り込んだ。アルトリウスは深く息をついた。一度に長く話すことも難しくなっていた。


 「おまえが惜しむほどの時間はおれには残っていないよ、エウゲニオ。このまま何もしなくてもおれはもう長くない……正直、こうやって話しているのだってやっとなんだ」

 「でも……」

 「いいから聞いてくれ。……みんなに伝えておきたいことがある」


 アルトリウスは星図をたぐり寄せた。療養中もヴェルフレッドに頼んで手元に持ってきてもらっていたものだった。


 彼は先見によって星図の続きを予知し、そこにバルドラの行く末をいくつか読み取っていた。


 「おれがこのまま死に、みんなが闇魚を解体し続けた場合――遠からず作業の限界が来る。〈真珠〉は見つからず、闇魚は復活し、バルドラは今度こそ滅亡してしまうだろう」


 アルトリウスは一番上の星図を脇へよけた。その星図では、バルドラを表す星が夜空からまったく消えてしまっていた。


 「おれが闇魚を〈止めた〉場合――やっぱり、〈真珠〉は見つからない。だが、時間が止まっているからすぐには脅威にならない。だから、ほら――こっちの星図だと、雲が薄くなっているだろ。これが今から約三十年後のバルドラだ。ここでまた大きな出来事がある」

 「三十年後にまた復活してくるってこと? 」


 エウゲニオが聞いた。アルトリウスは首を振った。


 「三十年後、バルドラに大きな戦が起こる――マレビトと〈魔力なきひと〉との間で。バルドラはふたつに分断され、その片方が〈現れる〉ことになるだろう」

 「〈バルドラが現れる〉って、そういう意味だったの? 」


 リシャールは口調こそ普段通りだったが、その声はわずかに震えていた。


 「どうして戦なんて……闇魚はどうなったのさ」

 「善であることを重ねた結果が善ではないこともある」


 ヴェルフレッドが静かに言い、星図をなぞって解説した。


 「戦の予兆が出ている空はこれだ。この星図では、闇魚の象徴は去ってはいないが、さらに薄くなっている――恐らくだが、闇魚に対する何らかの対策が取られた結果、闇魚の脅威は現状よりも少なくなる。だが一方、魔力の有無によって人々の間に溝が生じ、それが戦に結びつくのだろう。魔力を持ったものとそうでないものとがうまく折り合ってきたという歴史はあまり聞かないからな」


 アルトリウスは目を押さえた。


 「戦によってバルドラは混乱する。〈魔力なきひと〉が国を作り、マレビトはバルドラの地を追われる。そのまま長い時間が経つうちに、マレビトや闇魚のことは忘れ去られるだろう」


 バルドラの民がマレビトを忘れ去る? リシャールたちばかりでなく、星見ができるヴェルフレッドでさえ、これには閉口した。魔法に守られたこのバルドラに、何の間違いがあったらそんなことが起こるというのだろう? エウゲニオが言った。


 「……でも、闇魚っていつか復活するんじゃないの? みんなが忘れちゃってたらマズくない? 」

 「バルドラがもう一度ひとつに統合される日がくる」


 アルトリウスは一番下の星図を開いた。彼が見た中で、その星図に唯一、希望らしきものが記されていた。


 「闇魚が力を取り戻す頃、〈魔力なきひと〉の国に魔力を持った王子が生まれる――この子がマレビトと〈魔力なきひと〉の手をひとつに結び合わせ、闇魚を討伐するだろう。この王子は――」


 アルトリウスはここで一度言葉を切った――。


 「この王子は、あなたの子孫だ。ヴェルフレッド」

 「……なんだと! 」

 「ふたつに分かたれたバルドラの〈魔力なきひと〉の国を、あなたの子孫が代々治めていくことになる。そして、その中にこの王子が生まれるんだ。約千年後。この子が闇魚を倒し、統合したバルドラを君主として統治する。〈妖精王〉――と称えられる名君になるだろう。おまえたちはヴェルフレッドのそばでともに国を治めるようになるが……」


 アルトリウスは友人たちを見て黙った。リシャールとエウゲニオは顔を見合わせ、笑って肩をすくめた。


 「どうも僕ら、あまりいい死に方しないっぽいぞ」

 「……ああ、そうだ。だが、おれは……」


 アルトリウスが言いよどむと、エウゲニオが唇を尖らせた。


 「おれたちを置いて真っ先に死のうとしてる君に先々の心配なんかされたくないね。いいから言いなよ……気になるだろ」

 「――ヴェルフレッド、リシャール、エウゲニオ。三人とも、三十年後の戦に巻き込まれて命を落とす。クーナとメリルはヴェルフレッドの王女とともに戦を終わらせ、〈魔力なきひと〉の国に暮らすことになるだろう」


 場が静まり返った。だが、それは一瞬のことだった。


 「今それを言ったってことは、僕らには選ぶ権利があるってこと? 」


 リシャールは猫のように目を細めた。


 「僕らが君に提示された未来を拒否して、君がいなくなった途端バルドラの外へ出て行く可能性は当然考えてるよね? ヴェルフレッドはともかく、僕やエウゲニオはもともとバルドラの生まれじゃないんだから。……僕らのこと、そんなに信用してるの? 」

 「おれは――………」


 アルトリウスは咳き込んだ。彼が吐いた血にリシャールとエウゲニオが青ざめるのを見て、そんな場合ではないのに笑いがこみ上げる。正直なやつらだな。


 「おまえたちに生きてほしい」

 「………馬鹿じゃないの」


 エウゲニオが顔を歪めて叫んだ。


 「おれたちがあんたにそう思ってないとでも思ってるの! そんなこと言われたって、どんな顔して聞きゃいいのさ! 」

 「わたしの子孫が闇魚を討ち果たすと言ったな」


 ヴェルフレッドがため息をついて腕を組んだ。


 「では、おまえがその王子――〈妖精王〉とやらに生まれると約せ。千年後のおまえにつながるというのなら、わたしはわたしの役割を果たそう」


 アルトリウスは呆気に取られた。だが、ヴェルフレッドが冗談を言うところなど見たことがなかった――彼はいつでも本気で思っていることしか口に出さないのだ。


 「いや、それはおれが決められることじゃ――」

 「つべこべ言うな。何事もすべては意思の力だ。それとも、わたしの子孫にだけ責任を負わせて自分は高みの見物を決め込むつもりか? おまえがした予言なのだから、自分で成就まで導くのが筋だろう」

 「そうだね。言い出しっぺは責任取らなきゃね」

 「いいなー、王さまだって」


 友人たちが常と変わらない様子で言う。それでも戸惑っているアルトリウスを見て、ヴェルフレッドはため息をついた。


 「そんなに心配しなくとも、おまえのような大雑把ひとりに国と民を預けたりはせん。わたしも同じ時代に生まれてやる……おまえが王になるなら、従者にでも大臣にでもなってやるから」

 「でも……」


 アルトリウスは黙り込んだが、やがて視界が涙で曇ってくるのを止めることはできなかった。疎まれることに慣れた彼の心は、温められることにあまり耐性がなかった。


 「選べるんだったら、また家族になってよ……」

 「――ああ。なら、血を分けた兄にでもなってやる。……だから、安心して生まれてこい」

 「それなら、わたしはバルドラ王家を守ることに力を尽くすわ。百年でも、千年でも――あなたたちがバルドラに戻ってくるまで」


 クーナも言った。アルトリウスはほほえんだ。たとえ夢のような話であっても、死にゆく彼にとってはみなの優しさがなによりも嬉しかった。


 後悔はなかった。


 「……分かった。魔法の効力が切れる頃、おれもバルドラに戻るよ――おれが選べればの話だけどな。だが、その前に〈真珠〉が見つかれば未来は変わる可能性もある。みんなに任せたぞ」


 アルトリウスは彼が生涯を過ごした〈星見の丘〉に葬られた。後年彼の予言どおりバルドラに戦が起こり、以後千年に渡ってマレビトたちは大地を追われることになったが、彼の名は〈妖精王〉の予言とともに広く語り伝えられることになる。


 いつかバルドラの地に祝福を受けた王子が立ち、呪うべき災厄を打ち滅ぼす。


 彼は分かたれていた民の手をふたたび結び合わせてバルドラを導き、〈妖精王〉と讃頌される君主となるだろう――と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る