八、復活

 ジェラルドは真っ暗な場所で我に返った。慌てて口を塞ぐ――どうやら、水の中のようだ。どちらが上かも分からない。


 彼のすぐ近くを見覚えのある円塔が沈んでいくのが見えた。バルドラ城の城門の一部だ。ジェラルドは塔を蹴って水面を目指した。頭のずっと上の方から月明かりらしい光が何条も差し込んでいる――。


 ジェラルドがようやく水面に顔を出すと、少し離れたところにリヒャルトの顔が現れた。彼はジェラルドに気がつくと、器用に水をかいて近づいてきた。


 「無事だったか! 怪我は? 」

 「ない……と思う。そっちも無事か」

 「ああ――なんていうか………」


 リヒャルトは眉を下げて何とも言えない顔でジェラルドを見た。だがリヒャルトが続きを口にするより早く、大きな影が水面を割ってふたりの目の前に現れた。


 わずかな月明かりにつやつやときらめく、美しい生きもの――山のようなその背で、青年がふたりに手を振っていた。


 「おーい! ふたりとも無事? 」

 「ユージーン! 」


 ジェラルドとリヒャルトの声がぴったり重なった。ジェラルドは何かに優しく背を撫でられるのを感じた。かなり遠くから回り込んできた生きものの長い尾が、ジェラルドとリヒャルトを促すように背をつついていた。


 「見て、これ! ソロルだよ! おれの友だちの! こんなにでっかくなってたんだ! 」


 海竜の背によじ登ったふたりに、ユージーンは嬉しそうに言った。ジェラルドがリヒャルトを見ると、リヒャルトもジェラルドを見ていた。このまなざしのやり取りだけで、彼らはお互いに何を考えているかが手に取るように分かった。


 リヒャルトがユージーンに尋ねた。


 「ユージーン。……おまえ、〈エウゲニオ〉だな? ソロルを知ってるってことは思い出したんだろう? 」


 その途端、ユージーンが胸を突かれたように黙り込んだ。頬から喜色が消え、今にも泣きだしそうな表情が現れる。


 「……あんたは、〈リシャール〉でしょ? あのあとどうなった? ……し、死んじゃったの? 」

 「――ああ。でも、王女をクーナに預けることはできた。バルドラが今でもあることを考えれば、無駄じゃなかったと思ってるよ」


 リヒャルトとユージーンは揃ってジェラルドを見つめた――いまだ、〈ジェラルドの使い〉の姿をしているジェラルドを。


 ユージーンはほとんど泣いているような顔で笑った。


 「……その目。アルトリウスと一緒だ」


 リヒャルトも消えてゆきそうなほほえみを浮かべた。


 「君、〈アルトリウス〉……ジェラルドだろ。薄々そうじゃないかとは思ってたけど、これで確定だ」

 「……いつから気づいてた? 」

 「歩き方を見て、なんとなく。確認したかったけど訳ありっぽかったからさ」

 「どうして急に前の人生のことなんか思い出したのかな? 」


 ユージーンが心細げに言った。


 「どっちもおれなんだ。覚えてる……でも、エウゲニオはもう死んだ。アルトリウスも、リシャールも、死んでしまった」

 「今思い出す必要があったのかもな」


 ジェラルドは言った。アルトリウスだった頃のことを思い出した今、ジェラルドでは知りようもなかった魔法の知識が彼に戻っていた。


 「記憶というのは、生まれ変わっても魂にずっと蓄えられているんだろう。……兄上も昔、闇魚を見て〈前〉のことを思い出したとクーナが言っていた。そのときはよく分からなかったが、こういうことだったんだな」

 「……気づくのが遅い」


 低い呟きにつられて青年たちが振り向くと、ソロルのひれの近くにヴェルフリートの顔が現れた。濡れた長い髪をうっとうしげにかきあげながら、彼はじろりと三人を睨んだ。


 「まったくおまえたちは、揃いも揃ってあの頃と何も変わらんな……特におまえだ、ジェラルド。自分で予言しておきながら、王都がこんなありさまになるまで何も思い出さんとはどういう了見だ。………第一、そんな姿になって一体今までどこで何をしていた」

 「城で黒い覆面のやつらに襲われて、逃げるときに姿が変わってしまったんだよ。そのあとはクーナのところにいた。……〈ヴェルフレッド〉こそ、前のことを思い出してたならあんなにおれを避けたりすることなかったじゃないか。せっかく本当の兄弟になれたのに」


 ジェラルドが文句を言うと、ソロルの頭に押し上げられてきたヴェルフリートは鼻を鳴らした。


 「思い出していたからこそだ……おまえを見ていると、どうしようもないことを望まずにはいられなかったからな――おまえは何も覚えていないのに。顔を見ていると、どうにも――……とにかく、わたしは千年前の二の舞はごめんだぞ」

 「――そうだよね。ヴェルフレッドはアルトリウスを看取ったし、おれも目の前で死んじゃったから……」


 ユージーンは頭を抱えた。


 「おれは……おれは、エウゲニオ……? 」

 「エウゲニオじゃない」


 ジェラルドはユージーンの肩を掴み、彼と目を合わせた。


 「おまえはユージーン。おれはジェラルド。リヒャルトと、ヴェルフリートだ。よく見ろ……まだ誰も死んでやしないぞ」

 「……うん」


 ユージーンは目をこすり、瞬きを繰り返した。記憶の中の光景と現実の光景に折り合いをつけているのだろうとジェラルドは思った。混乱するのも無理はない……アルトリウスは最終的には比較的穏やかに息を引き取ったが、他の三人はそういうわけにはいかなかったのだろうから。


 「――まあ、僕らそれぞれに言いたいことはいろいろとあるけど、それはまた後だね。現状の把握が先だ」


 リヒャルトがそういう間にも水の中からバルドラの人々が次々に顔を出し、妖精も人間も一緒くたに水に漂った。〈巌の間〉にいなかった町の人々もいる――全員が真っ暗な海の上に放り出されたような状態だった。


 王都は影も形もなかった。ジェラルドたちからは、明かりひとつない真っ暗な島影が月明かりに照らされ、すぐ近くにぼんやりと浮かび上がっているようにしか見えなかった。王城で見た竜たちが人々の頭上を旋回しながら飛び回っていた。


 人影を背負ったグラードがジェラルドたちに気がつき、水をかきながらこちらへ向かってきた。


 「我が君――ご無事で。お三方も」

 「ああ。どうも大勢巻き込んでしまったようだな――」


 話しながらも、ジェラルドはグラードが背負っている人物が誰なのかに気がついて血の気が引いた。


 「……エレニア……」


 よくこんな大切なことを忘れていられたものだ。ジェラルドはうかつに身動きしたせいでソロルの背から滑り落ちたが、側近たちの声にも構っていられなかった。


 「気を失っているだけです。心配はありません」


 グラードは海の中でじたばたともがくジェラルドを自分の肩につかまらせ、体を傾けてエレニアの様子を見せた。エレニアは青白い顔でぐったり目を閉じていた。


 ジェラルドはどうしようもない愛おしさで胸がいっぱいになった――千年前に、アルトリウスがエレニアに対して愛を抱いていたように。手を取り合う前に彼女を喪った悲しみ。絶望。再会の喜びと痛みに似た重い感情がないまぜになり、ジェラルドはそっとエレニアの髪に触れた。水に浸かっているのだから当然だが、温もりはまったく伝わってこなかった。


 「覚えてなくても、収まるべきところに収まるんだね」


 ふたりの様子を見ていたリヒャルトが呟いた。


 「エレニアを見たときにクーナがあんなに驚いていたのも、今ならなんとなく分かるな……僕らが何も覚えていないのに突然昔の友だちを連れてきたからだったんだ」


 グラードは目を丸くして呟いた。


 「あなたが何と言っているのか分かる」

 「僕らも君の言っていることが分かるよ。君たちはやっぱり、昔のバルドラ語を話していたんだね……僕らが生きていた時代の言葉が、そのまま残ってるんだ」


 ここで、ヴェルフリートがひとり訝しげに言った。


 「……待て。エレニアはおまえたちが森で見つけて連れてきたとクーナは言っていたが――わたしたちのように〈前のエレニア〉の生まれ変わりということなのか? 」

 「そりゃあ……」


 ユージーンは気楽に頷こうとしたが、ふと眉を寄せた。


 「……あれ……? そういえばさ、エレニアって……あのとき、〈前の〉服だったよね? グラードみたいな」

 「間違いない。……〈本人〉だよ」


 ジェラルドは請け合った。エレニアの胸に輝く青い石――これは、闇魚の中をいくら探しても見つからなかったエレニアの首飾りの石だ。ジェラルドがこの石を見間違えるはずがなかった。アルトリウスだった頃、エレニアの瞳の色とそっくりだと思って選んだのだから。


 「エレニアは、森でおれたちに会う以前の記憶がないと言っていた。エレニアという名もクーナがつけてくれたと。クーナはエレニアの格好を見たときに分かっていたんだ……エレニアが〈エレニアのまま〉だと」

 「となると、この娘……災厄に食われて命を落としたのではなかったのか? 」

 「だけど、闇魚はアルトリウスが――ジェラルドが捕縛したあと、僕らみんなで粉々に切り刻んだよね。回復とのいたちごっこではあったけど、一度も切らずにいたところはなかったと思う。エレニアが闇魚の中にいたなら、少なくとも途中で見つかっていたはずだ」

 「生まれ変わりじゃないとしたら、どうしてあのときのままなんだろ? 」

 「………あなたがたは、一体……」


 議論する青年たちを、グラードは呆然と見つめた。ジェラルドは苦笑した。


 「置き去りにしてすまないな。千年ぶりに再会したものだから」


 そのとき突然、みなの頭上でソロルが甲高く鳴いた。その声は千里先にいても聞こえたであろうというほど広く海上に響きわたり、ジェラルドたちだけでなく海に浮いていたバルドラの住人たちもみな一様にぎくりと身を縮めた。初めて耳にする海竜の声は何かの旋律のような素晴らしく美しいものだった――だが初めてでも分かるほど、その叫びの中には不穏な音色のようなものがはっきりと聞き取れた。ユージーンがソロルを見上げた。


 「警告だ……海竜は、何か危険に気がつくとああやって鳴いて仲間に知らせるんだよ」


 ソロルはしきりと海の中に頭を向け、明らかにその場を離れたがっている様子だった。


 「……やはり、闇魚か」


 ヴェルフリートが苦く呟いた。


 「〈誓いの間〉が崩れる直前にも、何かが土埃を攪拌しているように見えた――土地の力自体が強まっていたうえ、わたしが境界を開かせたために闇魚が急速に力を取り戻したのかもしれん。だから土地が崩壊したのだ」

 「ああ……バラバラにして埋めたのが裏目に出ちゃったのか」


 とユージーン。


 「いざ復活するとなっても、バラしておけば闇魚も困るかなと思ってさ、戦争がはじまる前にみんなであっちこっちに埋めたんだよね……まさか町全部ぶっ壊して出てくるなんて思わなかったよ」


 ジェラルドは長らく使わずにいた先見の力を使ってみた。眉間に力を集め、未来を手元にたぐり寄せる感覚――アルトリウス時代に散々呪い、なければよかったのにと何度となく疎んだ力は、やはり転生したくらいでは彼の身を離れていかなかったらしい。


 「……三十分後。闇魚は回復を終え、自分が腹を空かせていることに気がつく。おれの〈時止め〉の効果がまだ少し残っていて、傷口がなかなか繋がらないんだ。頭が回復した時点で、魔力に惹かれてバルドラに向かってくるだろう。その前に全員海から出ないと端から食われるぞ」


 ユージーンは首を伸ばしたソロルの頭の上から王都の辺りを偵察した。


 「王都はほとんど崩れちゃってる――闇魚を埋めてたとこはどこもだめだ。でも、他は無事みたい。森の中でよければ、みんな上がれそうだよ」

 「僕、ちょっとやってみていい? 」


 リヒャルトが呟き、次の瞬間には、ジェラルドたちは森の近くに立っていた。リヒャルトは嬉しそうに自分の両手を見下ろした。


 「やっぱりだ。僕も魔法が使える……なんで今まで使わずにいたんだろう」

 「学友殿も妖精なのか? 素晴らしい魔法だ」


 グラードはエレニアを寝かせ、不思議そうな顔でリヒャルトを見た。ジェラルドは説明した。


 「おれの側近たちは、おれがアルトリウスだった頃からの親友だ。一緒に災厄と戦ったんだよ」

 「また雷も落とせるよ」


 リヒャルトは両手の中に火花をはじけさせた。月明かりもろくに届かない森の暗がりにあって、その光は実によく映えた。


 「それ、もうしばらくやっててくれ。もう少し目立つように……おまえの光を目印にして、全員を海から上らせよう」


 ジェラルドはソロルの背の上に戻り、海に浮かぶ人々に向かって呼びかけた。


 「おれはバルドラの第二王子ジェラルドだ! 魔力を持つものたち、聞こえるか! 」


 彼の声に応えて、方々から魔力の光が瞬いた。ジェラルドはリヒャルトが火花を光らせている方を指さした。リヒャルトは久しぶりに手に戻ってきた魔法を試すのが楽しいのか輝く火花で夜空にさまざまな形を作って遊んでいたので、かなり離れた場所に浮いている人の目にもよく見えるであろうとジェラルドは思った。


 「あそこで光っているのは、おれの友の魔法だ! バルドラの王都は崩れたが、大地は残っている。魔力を持つものは魔力を持たないものを助けて、全員が無事に土を踏めるように手を貸してくれ! 」


 再度、海面に光が灯った。蛍の群れのようだ。ジェラルドがそのまま見守っていると、波に揺られる人数は少しずつ減って、次第に森の方から人々のざわめきが聞こえはじめた。戸惑う声、宥める声……そして、誰かのくしゃみ。ジェラルドは海面に残されたものがいないかを確認し、魔法に入り損ねたひとり、ふたりをソロルの背に拾いながら森の方へ戻った。彼らは生まれて初めて見る海竜に震えたが、真っ暗な海に取り残される恐怖には勝てなかったらしい。


 ジェラルドが友人たちのもとへ引き返すと、集まった人々によって明かりがつけられ、森の一帯だけが昼間のように明るく照らされていた。ジェラルドは何人も見知った顔を認めた――〈巌の間〉にいた騎士や妖精たちはみな揃っていたし、城にいたのであろうサウィンやフォーガル、一芸披露を仕切っていた道化のファーガスや、エレニアに結婚運を相談にきたグラーニャや、城を抜け出した晩に出会った酒場の主人もいた。


 彼らのそばにはカレニウスがいて、ジェラルドと目が合うと、これは仕方なくだからな、とでも言いたげに視線をよそへ逸らした。


 エポナの姿もあった。いつもの従者に厚い外套を着せかけられ、力なくうつむいている。無意識なのかどうか、青白い両手はまだ薄い腹を守るように置かれていた。


 「これで全部かな? 」


 リヒャルトは賑やかな森と静かになった海面を見渡し、ジェラルドがまだずぶ濡れなのに気がついて彼の肩に触れた。ジェラルドは全身が温かく乾かされるのを感じた。


 「やるな――ありがとう」

 「王子だけびしょ濡れじゃカッコつかないからね。……あそこ」


 リヒャルトが指した。クーナが背の高い人影を支えるようにして、ジェラルドたちの方へ向かってくるのが見える――クーナと、彼女が支えている人物に気がついた周囲の人間たちは、みな一様に膝を折った。


 父上。側近たちが膝を折るのを横目に感じながら、ジェラルドはバルドラ国王ベアルクの姿から目を離せなかった。最後に言葉を交わしたのが、はるか遠い出来事のように感じられた。


 ベアルクはジェラルドたちの方へやってくると、呆然と突っ立っているジェラルドを慈悲深いまなざしで見つめた。ヴェルフリートに脇を小突かれ、リヒャルトにふくらはぎをつつかれたジェラルドがようやく我に返って姿勢を正すと、豊かな口ひげに覆われたベアルクの口元が少しほほえんだ。


 「〈星見のアルトリウス〉……いや、我が王子よ。なるほど、確かに陽射しを集めたような目だ」


 ジェラルドはぎょっとしてクーナを見た。クーナは頷いた――ジェラルドはかすれる声で呼びかけた。


 「……父上」

 「先ほど、クーナに事情を聞いた――不思議な心持ちだ。そなたらはわたしよりずっと年若い青年でありながら、千年前のバルドラに生きていたというのだからな」


 ベアルクは膝をついている側近たちのそばに自分も腰をかがめた。側近たちはぎょっとしたが、ベアルクがそのままでいいと合図したので従った。


 「王子を守ってくれたそなたたちに罪人の汚名を着せたことを謝りたい。迂闊な牢番めがありもせん噂を真に受けおって、処刑するなどと聞かされて生きた心地もしなかったであろう。傷を負った身で牢になど閉じ込めて本当にすまなかった」

 「もったいなきお言葉――ではあの傷薬は、陛下のお心遣いを賜ったもの」


 澱みないリヒャルトの言葉に、ベアルクは頷いた。


 「あの晩の襲撃は我々にとって実に思いがけないことであったのだ。何が起こったのかすぐには判断できぬことも多分にあったゆえ、おまえたちがジェラルドを襲ったなどという流言も飛んだようでな――兵たちがそなたらを大罪人と思い込み、勅命を発する前に捕らえてしまったのだ。潔白の証が見つかるまで死ぬるでないと念じながらも、あのような薬をわずかに差し入れることしかできなんだ。……そなたらを捕らえた兵たちの行いは城の安寧を守らんがためのものゆえ、耐えがたき仕打ちであったとは思うがどうか許してやってくれぬか」

 「御意。……彼らは非常時に際して、日頃ジェラルド殿下にお仕えする我らにも忖度なく断罪の決断を下せることを示しました。少々判断を急ぎすぎたことは否めませぬが、正義に忠実であろうとするその姿勢はむしろ褒賞に値するかと」

 「検討しよう。王子たちはまこと良き友に恵まれたものよ」


 ベアルクの賞賛にリヒャルトは如才なくほほえんでみせ、ユージーンは相方にならって深く頭を下げた。


 このとき、集まった人々から悲鳴が上がった。ジェラルドたちが海面を見ると、バルドラの近くに現われた巨大な渦が月明かりにゆっくりと浮かび上がったところだった。ソロルが唸り声を上げてそちらを威嚇する。自然の海流によるものではないことは明らかだった――人々は、そこにいるはずのない不可視の魚影を感じ取った。


 「あれが一千年の昔からバルドラを悩ます災厄であるか」


 ベアルクの声色は憂いに満ちていた。ヴェルフリートが弟の頭に手を置いた。本来であれば兄弟の背はほとんど変わらないのだが、今はヴェルフリートの方がずっと背が高かったのだ。


 「ご心配はありません、父上。これなる我が弟は、千年前にみずから申したのです――〈千年後にバルドラに生まれた王子が分たれたバルドラを統合し、厄災を打ち破る〉と。これよりその大言が成就されるさまをお目にかけましょう」

 「………兄上」

 「事実だろう。現にふたつのバルドラが混在すると同時に闇魚も蘇ろうとしているのだから、状況としてはこれ以上ない……というより、今この局面を切り抜けねば〈これ以上〉すらないが」

 「やっぱり当たるわね。アルトリウスの予言は」


 ベアルクについていたクーナが淡くほほえんだ。ジェラルドは彼女の手を取った。


 「クーナ……千年も、おれの予言を待ってくれてありがとう。まさかメリルがおれたちの母になり、君が伯母になるとは思ってもみなかったよ」

 「そうね……そこは、千歳も年上のおばあちゃんと結婚してくれたベアルクにもお礼を言わないとね。まあ、見かけだけは女の子のままだったんだけど」


 クーナは薄く涙の膜が張った瞳で青年たちを見つめた。彼女は昔から年齢不詳な女性だったが、今のジェラルドたちからはかつて妹とともにバルドラへ旅してきた少女の面影がその表情の上にはっきり重なって見えた。


 「千年の間に、闇魚は土の中で消滅してしまうのではないか……あなたたちは何も思い出さないまま、今度こそ平和に生きていかれるのではないか、なんて思ったこともあったけど……そうはいかないのね」

 「やっぱり〈真珠〉を取り出さなければいけないんだろうね」


 リヒャルトが顎に手をやった。ユージーンが絶望的な顔を相方に向けた。


 「………どうやって? 千年前にさんざん解体したのに、見つからなかったんだよ? 」

 「おまえ、闇魚を討ち果たす場面をどのように見たのだ? 」


 ヴェルフリートに尋ねられ、ジェラルドは首を横に振った。


 「あのときは星の動きから先を見ただけだから、そこまで分からなかった……おれの残り時間と体力的に、あれ以上先見が使えなかったんだ」

 「……ああ、確かに。具体的な方法は聞かずじまいだったね」


 僕ら全員結構な博打うちだよ、とリヒャルトが呆れたように笑う。


 「だが星の配置からは確かに、闇魚の滅亡が読み取れたんだ……」


 ジェラルドは必死で頭を働かせた。闇魚に勝利するには、やはり核となる〈真珠〉を取り除くしかない。捕縛して解体するやり方では同じことの繰り返しだ――〈真珠〉の場所をあらかじめ特定し、指の先ほどの粒を直接取り出すしかないだろう。だが、どうやって? どうしたら、そんな海底から砂のひと粒を探し出し、それを拾ってくるような真似ができるのだ? 


 まさか、未来が変わったのか。先見で闇魚の動向を見ながらも、ジェラルドは青ざめた。本当は、もっと早く〈アルトリウス〉を思い出しているべきだったのではないのか? たとえば、メリルの死に目に遭うのは兄ではなく、自分でなければならなかった、とか……。


 だがこのとき、星図には記されなかった希望が思いがけないところから現れた。予言しようがなかったのだ……アルトリウスがバルドラの未来を予言したとき、彼女はこの世に存在していなかったのだから。


 「乙女! 大丈夫か」


 グラードの声にジェラルドたちが振り向くと、それまでぐったり気を失っていたエレニアが目を覚まして起き上がったところだった。ジェラルドは思わず、先行きの不安を一瞬すべて忘れた。


 「エレニア! 」


 エレニアは返事をしなかった。うつむき、青ざめた顔でじっと何かを考えている――目覚めた途端に霧散した悪夢の内容を思い出そうとでもしているように。


 「……エレニア? どうした? 」


 エレニアはゆっくりと顔を上げて青年たちを見つめた。美しい瞳は少し震えていた。


 「思い出したわ――全部。わたし……わたし、何か大きなものに飲み込まれた。だんだん何も……だけど、分かったわ。これがクーナたちの探していた闇魚だって」


 エレニアは自分の体を確かめるように両腕で抱いた。


 「わたし、闇魚の目で外を見ていたの……闇魚の一部になっていたんだわ。……全部が昨日のことのよう」


 ジェラルドはぞっとした。エレニアを慰めようと彼女に触れた手は、隠しようもなくがたがた震えた。


 闇魚の中で、彼女はずっと生きていたのだ。闇魚そのものとなって。ヴェルフリートが彼女の前に膝をついた。


 「それでは、君は闇魚の〈真珠〉がどこにあるかも知っているのか? 」


 エレニアはうつむいて考えていたが、やがて頷いた。


 「闇魚のおでこには上にふたつ、下に三つ並んだ五つの目があるの……でも、下の真ん中の目にだけいつもきらきら光る小さなごみがあって見えにくいのよ。邪魔で仕方ないのだけど、それはとても大切なものだから取って捨てることはできないの……あれがきっとそうだと思うわ」

 「目が五つあるですって! 」


 クーナは泣き笑いのような表情で手を叩いた。


 「それじゃ見つかりっこないわね! 」

 「君は、エレニアの……生まれ変わりなのか? 」


 ジェラルドはそっと尋ねた。エレニアはもともと自分が何者であるかを忘れていたが、もしかしたら〈エレニア〉の記憶と一緒に今の彼女についても思い出したのではないだろうか?


 「わたしはずっとエレニアよ」


 エレニアは青い石の首飾りをジェラルドに見せた。


 「この石、すごい魔除けなの。闇魚に飲み込まれた人は魔力ごと吸収されてしまうのだけど、わたしはこれのおかげでわたし自身を守ったままでいられた……そして、最後には闇魚から離れることができたんだと思うわ。前にわたしの大切な人が――」


 エレニアはジェラルドを見て言いよどんだ。あなたの目。ジェラルドはそっと彼女を抱きしめた。


 「……無粋だが、後にしろ」


 海面を注視していたヴェルフリートが手の甲でジェラルドの背を叩いた。森の人々に動揺のざわめきが走る――海面が蹴立てられることで生じる大波と激しい水飛沫が、不可視の災厄の存在を示していた。


 リヒャルトが雷を撃ち落とした。どうやら闇魚は体の再生を終え、自在に泳ぎ回りはじめたらしかった。


 まといつく雷光が一瞬浮かび上がらせたその姿ときたら――目を凝らしたグラードが、呆然と呟いた。


 「あなたがたは、あんなものを相手に戦ったのか。あんな、おぞましい異形と」

 「千年前はもう少しマシだったような気がするけどね」


 リヒャルトがのほほんと言った。〈真珠〉の場所が明らかになった今、彼にはもはや何も恐れるものはないのだった。たとえ、今残っているバルドラの陸地をひと飲みにできそうな怪異が相手でも。


 闇魚を間近に見た人々は悲鳴を上げ、恐怖によって錯乱しかけていた。海に近いものは押し合いへし合いし、森の奥へ逃げ出そうと躍起になった。ジェラルドは彼らを宥めようとした。この状況で民の統制を失うのは何としても避けたかった。


 しかしジェラルドが口を開くよりも、ベアルクが声を発する方が早かった。


 「静まれ」


 魔法も何も使っていないはずなのに、ベアルクの声は実によく響いた。がちゃがちゃと身動きしていたものたちは、一様にベアルクに注目した――人間も、妖精も。


 ベアルクはかつて聞いたこともないほど威厳に満ちた声で言った。


 「今ここに、予言成就のときは来た。バルドラの地に災厄蘇りしとき、〈妖精王〉立ちて民の手を結び合わせ、災厄を打ち滅ぼす。我らバルドラ王家は、このときのために千年の長きにわたってこの地を守り続けてきたのだ。バルドラの民たちよ。そなたらひとりひとりが、災厄を退ける要となる――どうか王子たちに手を貸してやってほしい」


 べアルクが親しげにジェラルドの肩に手を置いたので、国王の声に耳を傾けていた人間たちの顔が奇妙に歪むのがジェラルドから見えていた。


 そんな顔にもなるだろう、とジェラルドは寛大に考えた。なにしろ〈この顔〉ときたら、一度見たら忘れられない個性的なありさまなのだ。


 だが………そうだ。もう、この姿でいる理由はないのだ。


 ジェラルドは額に解呪のしるしを描いた――今にして思えば、単純な変身の魔法だ。なぜあんなに〈できない〉と思い悩んでいたのかが疑問なくらいだった。


 きちんと元に戻ったかどうかなど確かめるまでもなかった。不可解そうにこちらを窺っていた人々の口があんぐりと開き、愕然とした表情を作る。特に酒場の親父の青ざめようは、見ている方が気の毒になるくらいひどかった。


 「だから言ったじゃないか、店主。〈おれはバルドラの第二王子だ〉って」


 ジェラルドは耳飾りを指して笑いかけたが、酒場の親父の気持ちが楽になったとは到底思えなかった。彼の顔は次第に白っぽく変色し、今にも倒れそうな様相だった。酒場で飲むのが好きなユージーンはこの親父とも顔見知りだったらしく、首を傾げた。


 「あの親父さん、いつもジェラルドのこと『素晴らしい殿下だ』って言っておれにもよくしてくれるんだよ……なんかあったの? 」

 「まあな。闇魚が片づいたらまたもてなしてもらおう」

 「〈片づいたら〉か。いい加減本当にそうなればいいがな」


 ヴェルフリートは腕を組んでジェラルドを眺め、彼の目にかかっていた前髪を直した。


 「〈真珠〉のありかは分かったのだ……まさか、また千年後に託すなどと言わんだろうな」

 「おれだってもうあんな無茶はしないよ――その理由もない」


 そうだ、千年前とは何もかもが違うのだ。ジェラルドは渦巻く海面に意識の焦点を合わせ、指で方角を示した。


 「十分後、闇魚が復活して海から空に舞い上がる。この方角だ。魔法が使えるものは闇魚を狙ってくれ。傷つけることはできないが、短い間でも視認できるようになる。リヒャルト、雷は出るよな? 」

 「いつでも」


 リヒャルトは楽しそうに小さな火花をぱちぱちと弄んだ。ジェラルドは続けた。


 「姿と位置が確認できたら、捕縛だ。体を固定したところで、一気に〈真珠〉を取り出す作戦でいこう……長い時間はかけられない。ユージーン、ソロルと海から攻めてくれ。尾びれにでも噛みついてやれば、さすがに一瞬動きが鈍くなる」

 「了解! 」

 「騎士団長は? 」

 「ここに」


 ジェラルドが探すまでもなく、バルドラ騎士団長のアルテミシアは彼の前に凛とひざまずいた。彼女は妖精には不案内なはずだが、超常現象に巻き込まれようと失踪した王子が突然現れようと、いついかなるときも動じることなく自分のすべきことを見極めることができるこの胆力こそ、彼女を一国の騎士団長たらしめる要因なのだった。


 もしかしたら、従者たちや兄と同じように彼女も早い段階で第二王子の変身に気がついていたかもしれない、とジェラルドは不敵にほほえむアルテミシアを見て思った。なにしろ、兄弟と従者たちにみっちりと剣を叩き込んだのは誰あろう彼女だ。〈誓いの間〉でケネスとエレニアの間に割って入り、剣を取ったジェラルドの動きを目にして、「もしや」とその正体を看破していてもなんら不思議ではなかった。


 「闇魚は魔力を知覚するように造られているから、魔力を持たないものの協力がいるんだ。騎士団か兵士から何人か割いてほしいんだが……誰か、竜に乗ってみたいやつはいないか? 竜の背に乗って、ユージーンと一緒に闇魚を足止めしてもらいたい。頭の上に竜が飛んでいても、闇魚はより多くの魔力を感じられる方へ――おれたちの方へ向かってくる。その隙に闇魚を縛り上げるんだ」


 騎士も兵士も、これを聞いて一様にたじろいだ。当然だ。彼らがいかに勇敢であっても関係ない。馬とはわけが違うのだ。


 アルテミシアだけが違う反応を見せた。彼女は団員たちを見回し、彼らの立候補を十分に待って、それでも誰も手を挙げないと見るとどことなくそわそわした表情でジェラルドに言った。


 「殿下。差し支えなければ、わたくしがじきじきに」

 「もちろん構わないが――ただ、いくらあなたでもひとりで闇魚を止めるのは無理だ。……グラード、人を乗せられる竜はどのくらいいるんだ? 」


 グラードは懐から不思議な形の笛を取り出した。


 「我らが慣らしている竜はこの笛の音に応えて、どんなに遠くからでも飛んできてくれます――三十頭ほどはお力になれるかと。エルピスも近くにいるし、ミラも若いが力があります。ただ、彼らには群れて飛ぶ習性がない。一度に編成できるのは十頭が限界でしょう。……しかしいくら慣らしているといっても、竜はいきなり乗りこなせるものでは――」

 「慣らしてあるなら竜は乗り手を絶対に落としたりしない。首の付け根に少し凹みがあるから、そこにまたがって乗れば大丈夫だよ。手綱はいらないし、両手を離しても大丈夫。むしろ、変なところに掴まると竜が飛びにくくなって安定しないんだ」


 海に出ていきかけたユージーンがソロルの頭を撫でながらこともなげに言った。


 「絶対やっちゃダメなのが、相乗りじゃないのに翼の付け根より後ろに乗ること。羽ばたくときに翼にぶつかって落ちる。あと、怖いからって両腕で首にしがみつくのもダメだ。後ろから急に首を絞めることになって、竜を驚かせる。で、振り落とされる――下手すりゃ噛まれるからね」

 「……詳しいな。まったくその通りだ」


 グラードは目を丸くした。ジェラルドは笑った。


 「あいつは昔、バルドラで唯一野生の竜を乗りこなせる男だったんだ。……そういうわけだから、騎士団長。あと九人必要だ。誰か頼む」

 「お任せを」


 結局、眉間に皺を寄せたサウィンをはじめとして、乗馬の腕を見込まれた九人が選抜された。アルテミシアはグラードの指導のもとミラの背に乗り、闇の中でも輝かに光を弾く銀色の鱗をうっとりとなでた。


 「本当に、物語に出てくる竜と同じ。なんて美しい生きものなんだ」


 最後に、ジェラルドはエレニアに言った。


 「君には、なるべく安全な場所にいてほしいんだが――君は、闇魚の中に千年も閉じ込められていたわけだし……その……」


 エレニアの返事を予知していたわけではなかったが、ジェラルドの口調は勝手にしどろもどろになった。誰に呆れ顔をされるまでもなかった。エレニアはにっこり笑って彼の手を握った。


 「いやよ」

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