二、脱出劇

 「こんなことではいけないと分かっているんだ」


 手入れの行き届いた美しい庭園を眺めながら、ジェラルドは言った。普段は国内外の賓客を招いての茶会などに使われる広い庭だが、今ここにいるのはたったふたりだけ――ジェラルドと、婚約者のエポナだけだ。リヒャルトはふたりの少し後ろで用聞きをするために控え、ユージーンはエポナの従者とともに庭園の入り口で見張りに立っていた。


 エポナはバルドラの貴族たちの中でも由緒ある家柄の令嬢だった。彼女は美しい金髪の持ち主で、国中の娘すべてを訪ねてもこれほどのものを持っているものはいないといわれていた。


 未来の王妃候補は他にもいたが、エポナほどジェラルドの心を捉えたものはいなかった。彼女は心優しく、ジェラルドの弱音をいつまでもかたわらで聞いていてくれた。


 候補者が選ばれた時点でジェラルド自身に結婚の意志はまだなかったのだが、いずれ王位を継ぐ立場でそれを言っても仕方がなかった――エポナが候補の中にいてくれ、彼女を好きになれたことは、ジェラルドにとっては幸運なことだったのだ。


 ふたりは庭師自慢の月桂樹の木の前で立ち止まった。季節柄、黄色い花が咲いている――バルドラでは月桂樹の冠をかたどった金の王冠が王と王妃の髪を飾るため、王国の象徴としてどの庭にも必ず植えられていた。


 「辛気臭い話ばかり聞かせてしまってすまないな。……君には何でも打ち明けられる気になってしまって」

 「光栄ですわ、殿下」


 エポナは輝くようなほほえみを浮かべた。陶器のような白い頬に朱がさす――バラがほころんだような可憐な笑顔だった。鮮やかな空色の瞳が優しい形に細まると、彼女は清らかな天の使いそのものだった。


 「辛気臭いだなんておっしゃらないで。英雄のかたわらには、彼が愛する女性がいるものですわ――彼は彼女の前でだけ兜を脱いで、休息を取るのですもの……」

 「ああ……」

 「それに、殿下が〈妖精王〉だなんて、なんて素敵なのかしらってわたくし思うのです……妖精や魔法のお話、大好きなの」

 「君は、〈妖精王〉はどんな王だと思う? 」


 ジェラルドが聞くと、エポナはにっこり笑った。


 「妖精は、人間にはない知恵を持っているものですわ。みずからを律し、気高い叡智と力で、民を率いていくことができる。そんな君主のことではないかと思います」

 「自分を律するのがうまいのは、兄上の方だな」


 ジェラルドはヴェルフリートの顔を思い浮かべた。似たところの少ない兄弟だった――というより、ジェラルドはヴェルフリートと自分がどのくらい似ているのかをよく知らなかった。ヴェルフリートがジェラルドを相手に自身のことを話したことはなかったし、最近など、最低限の言葉を交わす以外はろくに顔も合わせないというありさまだった。そしてその最低限の言葉の半分以上を、挨拶が占めていた。


 少しは望みのありそうな顔の造りですら、父似のヴェルフリートと母似のジェラルドとでは似ていないところの方が多かった。ヴェルフリートの細く鋭いまなじりに、尖った鼻先――主の理性的な気質をよく示す厳格な目鼻立ちは、父王ベアルクと瓜ふたつだ。しかしヴェルフリートのそれが弟に向かって和らいだ表情を作ったことは、ジェラルドが覚えている限り一度もなかった。


 「兄上は、自分にも人にも甘えを許さない。いつも厳しい顔をしておられる。だけど、それは国や民を思えばこそなんだ……」

 「ヴェルフリート殿下は、少し怖い顔をしすぎでいらっしゃるわ」


 エポナが軽やかに笑った。


 「少なくとも、その点はジェラルド殿下の勝ちね」



 最初に気がついたのがいつだったか、ジェラルドは思い出せなかった。物心ついたときには、もう兄は冷たかったような気がする。


 王族だからなのか、それともあの兄だからなのかはさだかではなかったが――二男一女の長男であるユージーンが兄弟でどのように育ってきたかを何気なく話したとき、ジェラルドは初めて世の中の〈兄〉が弟や妹を気にかけたり、世話を焼いたりするものであるのだと知った。ユージーンが兄弟姉妹を愛する兄であることから考えて、ジェラルドは思った――兄はどうやら、自分を嫌っているらしいと。


 それでもジェラルドは兄を慕っていたし、どんなに冷たくされても彼を嫌いにはなれないだろうと思っていた。ヴェルフリートには温かい感情表現こそ希薄だったが、王子としてはこれ以上ないくらいに優秀で、彼の冷静で筋の通った判断は父にも頼りにされていた。


 各地からの報告に目を通し、必要とあらばみずからの足で出向く。日々取り組んでいることは同じなのに、ヴェルフリートはジェラルドほど人の助けを必要としていないように見えた。彼は勤勉で、生真面目で、几帳面で、何事も自分でさっさと終わらせた。周囲からはその厳格さゆえに畏怖されながらも、彼の有能ぶりを知らないものはいなかった。


 王の命で、ジェラルドが管轄している地域の視察にヴェルフリートが出ることもあった。その度ヴェルフリートは淡々と任をこなし、結果を父と弟に報告した。一方で、ジェラルドがヴェルフリートの代わりに仕事を任されることはなかった。


 ジェラルドは気さくな王子として、兄とはまったく違う理由で多くのものに慕われていた。だが、ヴェルフリートの方が時期国王にふさわしいと考えるものたちは、ジェラルドの〈世俗に親しみすぎた〉朗らかさを自分たちの主張の根拠のひとつにしていた。


 やはり第一王子が王位を継ぐべきという一部からの根強い意見は、ジェラルドの誕生以来ずっと王宮にあった。王子たちが成長し、政務に関わるようになって数年が経った今では、以前より勢いが増しているようですらあった。〈第一王子派〉は、対面すればすぐにそうと分かった。彼らはヴェルフリートに対するときの方がずっと丁重だったからだ。


 逆に、次期国王という肩書きだけでジェラルドにおもねる〈第二王子派〉も存在した。彼らはジェラルドがどんなに迷惑そうな顔をしても、お構いなしに第一王子とその取り巻きをこき下ろした。


 ジェラルド自身は、王位を継ぐべきなのは兄だという考えを年々強めていた。今のところ彼を次期国王たらしめているのは、クーナ――もとい、予言者アルトリウスが千年前にしたとかいう予言だけだ。もし父が一言


 「やはりヴェルフリートに跡を継がせる」


 と宣言してくれたらと、期待してすらいた。


 そうしたら、兄の態度も和らぐのではないか――兄の方が才覚があるのに、〈妖精〉〈予言〉などといういかにも彼が嫌いそうな理由で到達できる高みが最初から一段低いのでは、その原因となっている自分に多少冷たくなるのも当然だとジェラルドは思っていた。機会があれば、自分には不当に王位継承順を侵害するつもりはないのだと兄に説明したかった。


 願いが通じたのだろうか――ある日、ジェラルドは中庭の回廊で兄に呼び止められた。彼は余計なことは一切言わず、ずばりと用件を切り出した。


 「父上が、いよいよ譲位をお考えのようだ。近々おまえにもお呼びがかかるだろうから、そのつもりでいろ」


 ジェラルドは緩んでいた頬にひやりと動揺が走るのを感じた。かたわらの側近たちもわずかに反応した。ただ同じ動揺でも、側近たちの方には明らかに喜びの気配があった。


 ジェラルドは絶望に近い気持ちを苦く抱いた。もちろん、生まれてこのかた〈そのとき〉に備えて積み重ねてきたものはある。彼のこれまでの人生は、ただそのことのためにあったといってもいい。


 しかし……。


 弟が絶句しているので、ヴェルフリートは怪訝そうに眉を寄せた。


 「なにを呆けている。返事くらいしろ」

 「………兄上――」

 「なんだ」

 「わたしは」


 それが果たして口に出していい意見だったのかどうか、吟味している暇などなかった。この機を逃したらもう伝えられないかもしれないという焦りが、ジェラルドを急かしたのかもしれない――自分が何を言ったのか理解するよりも早くに、言葉が飛び出していた。


 「わたしは、兄上が王位をお継ぎになるべきだと思います」


 側近たちがぎょっと身を引いた。ヴェルフリートですら、わずかに目を見開いて硬直した。兄が心底驚くとそんなふうなのだということをジェラルドは生まれて初めて知った。そして、自分がいかに衝撃的な発言をしたのかということが、人々の反応によって遅れてジェラルドに知れた。


 「わたしは」


 ジェラルドは、話し方を忘れてしまったように不自由な唇をなんとか動かそうとした。失言は失言だったが、ジェラルドはかえってすべてを打ち明ける決意を固めた。なぜなら、意思に反して言葉になってしまっただけで、先の失言は紛れもなく彼の本心だったからだ。


 「わたしは、王たる才覚が自分にあるとは思えません。長じてから、なおさらそう思うようになりました。兄上を押しのけてまでわたしが即位する意味がどれほどあるのか、分かりません……」

 「――なるほど」


 長い沈黙のすえ、ヴェルフリートは言った。静かで、ジェラルドと話しているときにしては普段より穏やかですらあるその口振りに反して、彼の声はかつてないほど冷ややかだった。側近たちが、咄嗟にジェラルドの前へ出ようとしたほどに。


 「おまえ、わたしを侮っているな」

 「えっ」


 ジェラルドはうろたえた――まったく、予想もしない言葉だった。


 おれが兄上を侮る? まさか! 


 ヴェルフリートはそれまで見せたこともない怒りに満ちた顔つきで――いつもの顔は怒っていたわけではなかったのだとジェラルドは思った――、苦々しげに吐き捨てた。


 「おまえにやる気があろうがなかろうが、次の王が別の誰かになることはない。……おまえにすれば、それは万人にとっての不幸ということになるな」

 「ジェラルド! 」


 振り向きもせずに去っていくヴェルフリートの背が曲がり角に消えたところで、ユージーンがジェラルドの腕を掴んだ。


 「バカ! どうしてあんなこと言ったりしたんだ! 」

 「どうして? ……」


 ジェラルドは訳が分からなかった。ヴェルフリートは、なぜあんなに怒ったのだろう? なぜ、自分はこんな思いをしなくてはならないのだろう? なぜ? なぜ? 


 「どうして自分が本当に思っていることを口に出したらいけないんだよ? 」


 ジェラルドは自分の境遇を理不尽だと思った。目の前に展開されている状況に、ジェラルドが望んだものは何ひとつなかった。


 彼とて失言は失言だと分かっていた。だからこそ、これまで何があろうと本心を胸に秘めてきたのだ。父のため、兄のため、臣下のため、民のため、それに、ジェラルド自身のために。


 だが、それなら何のためにジェラルドは生きているのだろう? 自分を押し殺し、周囲のために演じている偽りの姿が世間的に望まれている〈ジェラルド〉であるならば、彼には何のために心があるのだろうか? 


 これまで窮屈に折りたたまれていた想いが、自由になった途端に怒りとなって発露した。


 「どうして、おれが即位したいと思っていなきゃならないんだよ? おれが何も感じないで生きているとでも思っているのか! 」

 「落ち着いて」


 リヒャルトがユージーンを下がらせ、ジェラルドの背を宥めるように叩いた。だが、実はリヒャルトも、いつもの彼ほど落ち着いているわけではなかった――だから、普段ならばジェラルドからも頼りにされているリヒャルトの〈説得〉も、このときばかりはうまく機能しなかった。


 「君は一国の王子だ。その身分でしか受け取れないものは、城下町の商人には計り知れない。その代わり耐えなければならないものだって、大きい。君の一言で国全部が動かせるんだから。……それに、君は〈妖精王〉じゃないか。ヴェルフリート殿下では代わりはできないんだ」


 ジェラルドは、リヒャルトの言うことが正しいと分かっていた。ジェラルドが王子として振る舞ってこられた理由が、そこにはあった。


 だが、どうしてもいつものように溜飲を下げて〈王子〉に戻ることができなかった。リヒャルトがジェラルドを説得するために〈妖精王〉を持ち出しながらも、その言葉が持つ効力を疑問視しているのが分かったからだ。


 彼らが以前妖精の娘に出会い、魔法を目撃したことは事実だ。だが、あのときクーナに言われたような〈もうひとつのバルドラ〉や〈魚の災厄〉が現実のものとしてバルドラに現れる兆候は、この三年間まったくなかった。


 リヒャルトやユージーンがジェラルドの本心に賛同できる立場にないことなど分かり切っていたから、おまえたちだって信じていないくせに、という言葉だけは辛うじて飲み込んだ。


 「分かった」


 熱がこもってぼんやりしはじめた頭の奥から、ジェラルドは自分の声がそう話すのを聞いていた。


 分かった? いったいなにを?


 「おまえたちの言うとおりだ。おれが悪かった」

 「ジェラルド」

 「ついてくるな。部屋にいる。どこへも出ないから。――命令だ」


 リヒャルトとユージーンが従ってこようとする気配を察して、ジェラルドは言った。彼は知っていた。彼らの立場では、〈王子〉の命令には逆らえないということを。



 ――怒号。


 夢か現か、ふと耳をかすめたようなその遠い声で、ジェラルドはぼんやりと目を覚ました。窓の外は真っ暗だ。ようやく理解と記憶が追いついてきた――側近たちと別れたあとで頭を冷やすために自室に引きこもったあと、なんとなく寝台に横になったまま眠ってしまっていたらしい。


 寝室の間仕切りの向こう側が騒がしかった。あの怒号は、夢ではなかったのだろうか……。


 ジェラルドが自室の扉の前で廊下の気配に耳をそばだてた途端、その扉が乱暴に開き、リヒャルトが駆け込んできた。もはや礼儀もへったくれもなかった――あまりに彼らしくない慌てぶりに、ジェラルドは一瞬相手がだれなのか認識できなかった。


 「襲撃だ! 」


 リヒャルトはジェラルドの無事を確かめると、有無を言わせず彼の腕を掴んだ。


 「急げ! 城から出るぞ! 」


 部屋の外では、ユージーンが剣を抜いて背中を向けていた――彼の肩越しに、ジェラルドは見た。黒っぽい服に同じ色の覆面をして、廊下の暗がりから三人に対峙するものたちを。


 「ふたりとも行って、早く! ……くそっ、立ち番は何してるんだ! 」


 叫びざま、ユージーンが剣を振った。乾いた音とともに、切り払われた矢が落ちた。


 黒覆面の何人かが、剣を抜いて飛ぶように駆けてきた――速い――ユージーンが止めたが、目ではとても追えないような剣の応酬のさなかにひとり倒し、ふたり退けしているうちに、彼は一瞬の隙をつかれて足を払われ、黒服の群れの中に消えた。


 「止まるな! 」


 思わず足を止めたジェラルドの肩を、リヒャルトが押した。


 「僕たちのために君が死ぬなんて、許さないぞ! 」

 「――なんだよ、それは」


 ジェラルドの足が、ほんの一瞬緩んだ。


 おれのためにおまえたちが死ぬのはいいのかよ? 言いかけたとき、突然リヒャルトがジェラルドを突き飛ばした。うまく受け身を取って起き上がり、振り向くとそこには、肩に矢を受けて崩れるリヒャルトがいた。


 「早く行け! 逃げるんだ! 」


 彼のうしろで、黒覆面が次の矢をつがえるのが見えた。彼らの狙いは、十中八九ジェラルドだろう。だが、ジェラルドを守ろうとしたリヒャルトやユージーンが無事で済むのだろうか……。


 迷うジェラルドの脇に剣が飛んできて、廊下に飾られていた絵画に突き刺さった。リヒャルトの剣だった。彼は鬼のような形相で叫んだ。


 「行け! 」


 ジェラルドはついにその場を離れた。矢が追ってくるのが分かったが、彼を捉えることはできなかった。………


 やがてジェラルドは自分がたったひとり、城の中で息を潜めていることに気がついた。地上階の、中庭に面した回廊だ。夜間は人通りの少ない場所なので見張りの兵も配置されておらず、辺りは静まり返っていた。


 バルドラ城は、三交代制の精鋭たちによって堅牢に守られているはずだ。彼らの目をくぐり抜けて王子であるジェラルドの自室近くにまで襲撃者がやってくるなど、誰が想定できるだろう? 


 悪夢さながらの状況だ。待っていれば、そのうち夢が覚めるのではないか――ジェラルドは願ったが、空しい期待だった。


 ジェラルドは考えた。中庭には隠れられそうな木立や茂みがあったし、実は、王族しか知らない脱出口もいくつかある。城下へ脱出し、城で何が起きたのかを把握した上で戻る手立てを考えるしかない。朝が来ればジェラルドたちの身に非常事態が降りかかったことが明らかになり、何らかの対策が取られるはずだ。まずは、それまで何としても命を守らなくては……。


 暗がりに身を潜め、膝を抱えて、彼は覚悟を決めようとした。恐怖や不安、迷いを押し殺したかったが、うまくいかなかった。


 何か、心を落ち着かせる言葉がなかったろうか……子どもじみたまじないでも詩の一節でも人生訓でも、なんでも構わないから……。


 「〈わたしは水、わたしは風。

   わたしは焔、わたしは土。

    わたしは、この世のすべて。

     誰もわたしを見られない。〉」


 すべてを口に出して唱えたあとで、ジェラルドはふと我に返った。今のはなんだ? 一言一句正確に、頭から繰り返すことができた――にもかかわらず、ジェラルドはこの詩句にいつ出会ったのだか思い出せなかった。かつて一度も聞いたことがない気すらした。だがともかくこの詩句の不思議のおかげで、ジェラルドは恐怖をいっとき忘れた。


 ところが、いざ覚悟を決めて中庭の木立に向かって飛び出したとき、ほとんど正面からぶつかるような形で、ジェラルドはあの黒覆面と出会った。ジェラルドが迂闊にも待ち伏せられていることに気づかなかった……というわけではなさそうだった。相手もジェラルドにぶつかりそうになり、思わずといったように足を止めた。


 黒覆面はふたりいた。そして、ふたりともがじっとジェラルドを見ている気配があった。万事休す。ジェラルドは身構えた。


 だが――。


 「……まさかな」


 失礼した、と呟いて、黒覆面はあっさりジェラルドとすれ違った。その声には、なぜか嘲るような色があった。


 「新しい道化か何かだろう。第二王子は演劇やら何やら、よく城へ招くそうだからな」


 呆然と彼らの背を見送るジェラルドの耳に、そんな言葉が遠く聞こえてきた。新しい道化? ジェラルドは、どうやら自分を指していたらしい呼び名を頭の中で何度か復唱した。ふたりともジェラルドの顔をはっきり見たはずだ……ジェラルドが、ジェラルドの姿に見えなかった? まさか、そんな馬鹿な。


 ジェラルドは周囲を見回し、今度こそ中庭に入った。木立には誰もいなかった。


 この木立の中には、昔から小さいが美しい泉があった。銀色の月明りが鏡のような水面にきらきらと反射している。ジェラルドはふと泉を覗き込み、そして――。


 最初は、さざ波で水面が乱れているせいだと思った。そうなのだと信じたかった。


 たるんだ頬、ずんぐりした鼻、大きな口、尖った耳。そして、異様な金色の光を放つ、虚ろなぎょろ目。水面からジェラルドを見つめ返してきたのは、彼とは似ても似つかない、ひどく不気味な醜い男だった。……


 それからのことは、よく覚えていない。中庭の脱出口に入り、城下の路地裏へ出て酔った男にぶつかられたとき、ジェラルドは相手に絡まれるのも構わずそのガラの悪い男に縋りついた。


 「教えてくれ……おれはどんな顔をしている? 」

 「な、なんだよおまえ」


 男は気味悪がり、ジェラルドを振りほどいた。そしてそのままどこかへ行ってしまいそうだったが、ジェラルドの顔をちらりと一瞥したその顔つきはみるみる驚愕と嫌悪に歪み、それ以上何も言わずに足早に去っていった。


 今は一体何時なのだろう? おれは、まだ夢を見ているのだろうか? 商店も露店も市場もそのほとんどがとっくに店じまいを終え、賑やかなのは酒場くらいのものだった。


 リヒャルトはジェラルドがひとりで酒場へ行くなどと言えば、きっといい顔はしない(彼は下戸なのだ)。ユージーンならおれも一緒に行くと言って、嬉しそうについて来るだろう。そもそも、市井の声を聞きたいなら酒場が一番だと言って、ジェラルドに酒場の酒の味を覚えさせたのは彼だった。だが、今はそのどちらもジェラルドのそばにはいなかった。


 ひとりきりで町へ出たことなど生まれてこのかた一度もない。買いものの仕方くらいは知っているが、財布を持ち歩く習慣はなかった――もし人並みにそんな習慣があったとしても、寝起きすぐにこんなことに巻き込まれた彼が外出の準備など整えているはずがなかった。


 だが幸いにも、ジェラルドは自分が常に値打ちのあるものを身につけていることを知っていた――当初は寝入るつもりなどなかったので、装飾品の類は外していなかったのだ。彼は縋る思いで近くの酒場へ入った。とにかく、〈起きている〉人間と話がしたかった。


 「いらっしゃい」


 給仕の娘がにこやかにこちらを見た――そして、すぐにジェラルドから目を背けた。彼女は彼を席に案内してくれたが、もしそれが彼女のすべき仕事でなかったなら、絶対にジェラルドに近寄らなかっただろう。そういう態度だった。


 ジェラルドはあえてそちらに目をやりはしなかったが、客たちがちらちらとこちらを見ているのを頬の辺りに感じた。つい数分前まであんなに盛り上がっていたのに、気づけば店の中はずいぶん静かになっていた。


 「これで足りるものを何か」


 ジェラルドは耳飾りを給仕の娘に渡した。具体的にどのくらい価値のあるものかは知らなかったが、酒の一杯くらいなら出してもらえるだろう。


 娘は耳飾りを受け取り、奥へ引っ込んだ。そしてややあって、酒――ではなく、訝しげな顔をした店の主人とともに、再びジェラルドのところへやって来た。主人の手にはジェラルドの耳飾りがあった。


 「このお客さんです」


 娘がジェラルドを指して言うと、店の主人は厳つい顔をますます険しくした。


 「これは、あんたのもんかい」


 と主人はジェラルドに尋ねた。ジェラルドは頷いた。いまや、店中の人間の目がこちらへ向いていた。主人は重ねて聞いてきた。


 「どこで手に入れた? どうやって? 」

 「どうやってと言われてもな……」


 ジェラルドは困惑した。衣類については係のものにある程度好みを伝えているが、宝飾品の類は完全に任せきりで、入手経路など知る由もなかった。なぜそんなことを聞かれるのかも、さっぱり分からなかった。


 やはり金でなければだめだったのだろうか? それとも、思っていたほどの価値がなかったのか? 


 「それでは足りないのか? 」


 と尋ねた声は、ジェラルドが思っていた以上にうろたえて聞こえた。


 「今は、他に払えるものを持っていないんだ――」

 「なるほど」


 店の主人は眉を吊り上げた。


 「今、あんたについておれが思っていることはふたつ。――貴族か、コソ泥か、だ」

 「〈コソ泥〉? 」


 ジェラルドは一瞬、〈コソ泥〉が何なのかを考えた。聞き慣れない言葉だった。店の主人はさらに眉を寄せた。


 「あんた、バルドラの人間じゃねえのか? あんたがこの耳飾りをどっかから盗んできたんじゃねえかってことだよ」

 「……まさか! 」


 ジェラルドは思いもよらない疑惑に口をぱくぱくさせた。


 「な、なぜおれがそんなことをしなくてはならないんだ! 」

 「そうは言っても、あんたの持ちものに見えねえんだよ――こりゃあそこらに出回るようなチャチな代物じゃねえ。これで酒を一杯なんてイカれてるぜ――この店に置いてある酒樽の半分は買えちまわあ。どうやって手に入れたもんか、説明できねえならおれだって面倒はごめんだ。……こいつは返す。出てってくれ」


 店の主人は耳飾りをジェラルドの手に押しつけると、彼を立たせて追い出してしまった。


 「価値も分からずに簡単に人に渡すなんざ、悪党にしちゃ詰めが甘ぇやな。だから、役人には黙っておいてやる。命が惜しけりゃ、よその店で同じことするんじゃねえぞ」


 主人はそれだけ言って扉を閉めようとした。


 「おれは」


 ジェラルドは思わず、そう言っていた。


 「おれは、バルドラの第二王子だ」


 店の主人はちらりと彼の顔を見て、首をふりふり呟いた。


 「気の毒に」


 そして、扉は閉められた。


 *


 この酒場の主人は実はかなり情に厚かったのだと、ジェラルドはじきに悟ることになった。


 一晩中さまよい歩いても夢は覚めず――つまり彼の姿は元に戻らず、彼の正体に気づくものは誰ひとりいなかった。すれ違う人々はジェラルドから目を背け、あるいは不躾にじろじろ眺め、ときには彼が誰なのか分かっていれば決してしなかったであろう迫害を加えた。大通りを歩いているときに、どこからか小さな堅いものがジェラルドの頭に飛んできて潰れ、どろりとしたものが首筋を伝った。手をやると、それは腐った卵だった。


 ジェラルドは窓や水に自分の顔が映るたび、はじめこそ見慣れず何度もぎょっとしていたが、そのうちにこの醜い顔こそが自分の本当の顔だったのではないかと思いはじめた。目には見えない身分という厚い壁がこれまでジェラルドの姿を歪めて見せていただけで、この姿こそが自分にはふさわしかったのではないか? 変わったのは姿だけなのに、たったそれだけのことでこれほど見える景色が違うとは……。


 昨日の今頃、とジェラルドは惨めな気持ちで自分が出てきた城を遠く見上げた。まだ何の気兼ねもなく城にいた頃が、すでに懐かしかった。昨晩から今に至るすべての記憶に現実味がなかった。ジェラルドは今まで自分の境遇を幸福だと感じたことはほとんどなかったのだが、今にして思えばここまで本当に〈困った〉ことだけはなかった。もっとも、部屋で休んでいただけだったのに突然誰とも分からないものたちに襲われるという立場が、今と比べて贅沢だったかと考えるとやはり疑問ではあったが。


 あの黒覆面たちは、何だったのだろう? 城のものたちの、父や兄の、リヒャルトとユージーンの安否は? ……


 (……! )


 虚ろに考えながら通りを曲がったとき、たまたま目に入った人物がわずかに残されていたジェラルドの気力を一気に奮い立たせた。しなやかな白馬の背に横を向いて座る、美しい金髪の娘――エポナだった。彼女は恐らく、まだ昨夜のことを知らない。いつもと同じようにジェラルドに会いに行こうとしているに違いなかった。


 ジェラルドは大急ぎで人込みをかき分け、勢いエポナの馬前に飛び出した。城で何が起きたのかも分からない以上、エポナを行かせるわけにはいかない。


 それに、エポナは優しい女性だ。ジェラルドは人々の視線を浴びながら、もはや何の惨めさも感じなかった。エポナの空色の瞳が、すぐにジェラルドを救ってくれる……誰にも分け隔てのない優しさと愛とを注ぐ、天の使いもかくやのエポナのまなざしが――。


 「止まれ! なんだ、おまえは! 」


 馬を引いていた従者が転がるように出てきたジェラルドを脅した。知った顔だ、とジェラルドは思った。ジェラルドとエポナが城で会っているとき、ユージーンとともに見張りに立つのはいつもこの従者だった。


 ジェラルドの側近たちと親しくしているような場面は見たことがなかったが、ジェラルドはエポナの従者の精悍なところを買っていた。誠実で、礼儀正しい青年だと思っている。だから、そのまま話そうとした。


 「追い払って。切り捨てても構わないわ」


 美しいが冷ややかな声がした。エポナが言ったのだ――彼女は馬上で目を背けているように見えた――なにから?


 「汚らしい。わたしのことを見たわ……なんて卑しいのかしら」

 「聞こえたか」


 従者がジェラルドに向かって言った。〈精悍〉な唇が、嘲笑に歪んだ。ジェラルドがぼんやりしていると、彼は手綱を取ってさっさと行き過ぎようとした。ジェラルドは思わずエポナのドレスの裾を掴んでしまった。


 「……待ってくれ! 今、城は――」


 エポナは凄まじい悲鳴を上げた。ジェラルドは驚いて手を引き、立ちすくんだ。それが良くなかった。


 従者はジェラルドを乱暴に主人のそばから引き離し、石畳に投げ出した。彼はそのまま不届きものを斬り捨てようとしたのだろうが、その必要はなかった。したたか背を打ち、呼吸もままならずうずくまるジェラルドに、騒動を見物していたものたちが群がった。彼らにとって今のジェラルドは、貴婦人に手を出そうとした薄汚いもの貰いであり、美しい都の排除すべき汚点であり、気兼ねなく制裁を加えられる標的に他ならなかった。


 いっそひと思いに剣で斬られた方が苦しみ少なく済んだかもしれない。打っても蹴っても反応がなくなった頃、善良な民衆たちはようやくジェラルドを解放する気になり、彼を引きずって町の外へ放り出した。ジェラルドが生きていようがそうでなかろうが、彼らにはどうでもよかった――どちらにせよ、日が落ちたあとで町へ受け入れてもらえないものの運命は限られていた。


 ジェラルドは辛うじて生きていた。だが明日の朝まで命があるとは思わなかったし、それで構わないと思った。ままならないことばかりの人生だったが、まさかその終わりがこんな形になろうとはと、少しおかしくなっただけだった。


 ジェラルドは腫れて塞がった右目の狭い視野に小さく滲む夕焼けを、妙に安らかな気持ちで眺めていた。顔の左半分は、土に伏していて何も見えなかった。仰向けになるために寝返りを打つ力も、彼には残っていなかった。


 これほどあからさまに悪意ばかりを向けられたのは初めてだった。いわゆる政敵にあたる人々からそれに近いまなざしを浴びたことはあるが、彼のかたわらには常に側近たちがいたし、そうでなくても王子に殴りかかってくるものなどいなかった(暗殺を考えるものはいたのかもしれないが、と黒覆面たちを思い浮かべながらジェラルドは思った)。


 味方も、安全も、愛も、ジェラルドがこれまで手にしてきたものは彼が王子だったから与えられたものにすぎなかったのだ。おれには何も見えていなかったのか、とジェラルドは半ば夢を見ているような気持ちで考えた。それとも、周りの連中がちゃんと見ていなかったのかな。おれは……。


 鮮やかな夕焼け空を背に、町から出てきた誰かの影がジェラルドを見て立ち止まるのが見えた。ほっそりとした体型というだけで、男か女か、いくつくらいの人物なのかも逆光のせいでよく分からない。その人はしばらくジェラルドの様子を眺めていたようだったが、どうやら粗大ゴミではなく人間だと分かったのだろう。近づいてきた。


 黒覆面だろうか? ジェラルドの変貌を察知して、追いかけてきたのか? だが、ジェラルドにはもはやどうでもいいことだった。たとえ誰かの手にかかろうと抗うすべはなかったし、こちらに力が残っていないと見て近づいてきているらしいその人がジェラルドに触れるより、ジェラルドが意識を失う方が早かったのだから。


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