一、はじまりの歌

 梢から差し込む陽射しが、木立の中を歩く青年たちに光のまだらをつけている。ひとりは、バルドラの第二王子ジェラルドだ。他のふたりは、彼の側近たちだった――ふたりともジェラルドに仕えるようになって五年はゆうに経つ。ひとりなどは生まれたときからの〈ご学友〉で、兄弟同然に育った仲だった。


 だから、国王すら知らない秘密を三人がいくらか作っていたとしても、なんら不思議なことはなかった。優雅な物腰を持つ〈ご学友〉のリヒャルトが、人目のないところではジェラルドを呼び捨てにしていること。平民出身のユージーンが、貴族の食卓には間違っても並ばないような素朴な焼き菓子の味をジェラルドとリヒャルトに覚えさせたこと。


 そして視察の名目でジェラルドが外出するとき、そのうちの何回かの本当の目的は、彼が森の中で歌うためであるということも。


 ジェラルドは歌が好きな王子だった。城には優れた楽師が何人もいたが、人の歌を聴くよりも自分で歌を歌う方が好きだった。彼の声は、自分自身の慰めにできるほど美しかったのだ――それを知っているのは、今のところリヒャルトとユージーンだけだったが。


 「〈エリーばあさん 岩の上

   幾年待った 波の果て

    大波小波 八重波が

     連れて行ったよ 船に乗せ

     愛しいテディ―、 だけど今頃

       どうせおまえも〉…………」

 「〈霜頭〉だよ」


 歌いさしたジェラルドのために、ユージーンが半歩うしろから助け舟を出した。


 「そんで、続きは――

 〈エリーばあさん 崖の家

  ひとりで待った 晴れと雨

   朝昼晩と 日と月が

     過ぎていったよ 生きただけ

     愛しいテディ―、 だから今頃

       きっとおまえは 波の下〉」

 「結局戻ってこなかったのか、そのテディーは」


 黙って聞いていたリヒャルトが口を挟んだ。


 「それで? どこで覚えてきたんだ? 」

 「船着き場……の酒場。〈黒錨亭くろいかりてい〉っていうんだ」


 リヒャルトの穏やかな口ぶりの中に咎めるような響きがわずかに紛れているのを敏感に感じ取ったユージーンが、素直に白状した。


 「船乗りの連中が教えてくれたんだよ。ちなみに、三番は月夜の晩にテディ―がエリーを迎えに来るっていう歌詞なんだけど……」

 「いい歌だ」


 今度は〈霜頭〉まできちんと歌ったジェラルドは、ユージーンを振り向いて言った。


 「誰が創るんだろうな、こういう歌は……波に揺られていると自然と浮かぶんだろうか」

 「昔は、みんなで船を動かすために歌を歌ったんだってさ。ほら、一斉に櫂を漕いだり、帆の綱を引っ張ったりするでしょ? 一緒に歌を歌ってれば拍が合うから」


 ユージーンが楽しそうに解説するのを、リヒャルトが横目で見た。


 「確かに、宮廷楽師の作る歌にはない良さはあると思うよ。城の中で演奏されているような硬い音楽ばかり詰め込まれるのもどうかと思うしね。……でもさ、ジェラルド」

 「なんだ? 」

 「〈ばあさん〉はやっぱりまずいな。歌詞なら仕方ないけれど、うっかり誰かの前で言わないようにしてくれよ。君が口汚くなって、叱られるのは僕らなんだから」

 「ああ、ギュンターだろ……〈父さん〉〈母さん〉にすら目くじら立てるもんな、おまえの〈父さん〉は。おかげで、おれは〈父さん〉が何のことなのかユージーンに会うまで知らなかったんだから」


 これを聞いてユージーンが唇を尖らせた。彼はリヒャルトの〈父さん〉ことギュンターの物真似が抜群にうまかった。


 「『ユージーン! またおまえか! リヒャルト、おまえがついていながら――』……最初からおれが悪いみたいに言うんだもんな」


 ジェラルドはひとしきり笑ったあとでユージーンを宥めた。


 「仕方ないだろう。普段から父上のことを〈父さん〉とか……そうだ、〈おやじ〉とか言うのはおまえだけだもの」

 「ジェラルドの〈父さん〉は陛下だもんなあ」


 ユージーンは手持ち無沙汰に千切った道端の草をジェラルドに投げつけた。


 「ジェラルドだって〈殿下〉だ。リフィーの父さんにこんなことしてるのバレたら地下牢だよ、おれ」

 「短いつきあいだったな」


 ジェラルドはやけじみた気分になり、〈エリーばあさんの歌〉をもう一度最初から歌った。〈ばあさん〉の歌詞に、怯むことはなかった――城の外で誰の目もないときくらい好きなように歌いたい。彼が自由でいられるのは、森の中だけなのだから。


 それに場所がどこだろうと、三人もいればそれなりに合唱だってできる。


 「〈空はあおあお 気高き峰に

   残る根雪の まぶしさよ

    赤い花咲く 草原くさはら

     金の髪して〉……」


 ジェラルドはまた続きを歌いさした。歌詞を忘れてしまったのではない。一緒に歌ってくれていた他のふたりが、途中で急に黙り込んだのだ。


 ジェラルドは怪訝に思って振り向いた。だが、〈この状況〉を訝しく思ったのはジェラルドだけではなかったらしい。リヒャルトとユージーンの方でも、なにやら不思議そうな顔で彼を見ていた。


 それまで何の屈託もなく話したり歌ったりしていたのに、突然リヒャルトとユージーンが黙り込む。そして今のように不思議そうな顔でジェラルドを見つめ、互いに顔を見合わせる――実は、これが初めてではなかった。


 よく知らない歌だったのだろうと、気に留めたことはなかった。だが今日という今日はそうはいかない。今の歌は、式典のときに必ず歌われるバルドラの古謡だ。宮仕えをしているものが歌えないはずはなかった。


 「――どうした? 」


 ジェラルドは唇がひきつるのを感じたが、無理に笑顔を作った。ふたりは笑わなかった。ジェラルドはむきになった。


 「なんだよ? まさか歌えないわけないだろう? 」

 「そりゃ、曲は知ってるんだけど……」


 一度口を切ると、ユージーンはためらわなかった。彼はジェラルドに詰め寄った。まるで、様子がおかしいのはジェラルドの方だとでも言うように。


 「もしかして、ジェラルドは気づいてないの? あのさ――」

 「ユー」


 リヒャルトがジェラルドとユージーンの間に入った。そして、自分でもひとつ深呼吸してから言った。


 「もう一度歌ってみてくれないか、ジェラルド。今の――〈バルドラ賛歌〉」


 やはり知っているんじゃないか。ジェラルドは不可解だったが、最初からもう一度繰り返した。


 「〈空はあおあお 気高き峰に

   残る根雪の まぶしさよ

    赤い花咲く 草原に

     金の髪して 立つおまえ〉」

 「〈やさしい土よ 野の花よ

  栄えておくれ とことわに〉。……うん、今度は分かった」


 リヒャルトは自分で続きを引き取って歌ってみせてから、ユージーンと頷き合った。ジェラルドは訳が分からなかった。


 「〈今度は〉って……さっきと同じだろう? 」

 「全然違う――最初のは、多分……」


 だが、リヒャルトが自分の推理を披露する余裕はなかった。


 「下がって! 」


 ユージーンに突然肩を掴まれ、ジェラルドは彼の背にかばわれた。今の今まで立っていた場所を貫いて飛んできた矢が、リヒャルトの剣に切られて落ちた。


 「矢なら、一度で決着つけないとね」


 ユージーンは木立の影に向かって自分の剣先をくるくる回した。


 「ほら、どっから飛んできたのか分かっちゃうと不利でしょ? 」

 「おまえらこそ、誰が主人なのかは分からないようにしとかねえとな」


 ユージーンに指された影は、落ち着き払って姿を現した。粗野で大柄な男だ――粗削りな顔に光る青いひとつ目は冷たかった。左手には弓。背には矢筒。さらに、右手には抜き身の剣を持っている。


 彼は剣でまっすぐにジェラルドを指した。


 「あんたが主人だろう」

 「へえ。どうしてそう思う? 」

 「あんたが一番身軽だからさ。いいとこの坊ちゃんは、身なりのしっかりした護衛を連れてて自分じゃ荷物ひとつ持たせてもらえねえもんだ。……どこのボンボンだ? 」

 「あんた、どこの盗賊が聞かれたら答えるの? 」


 ジェラルドの前にユージーンが割り込んだ。盗賊は冷ややかにユージーンの挑発をあしらった。


 「なるほど、よく教育してあるな。主人を庇うために自分に注意を引く。憐れなもんだ……これだから、おれはその坊ちゃんみたいな連中が嫌いなんだよ」


 盗賊の言葉に応じるように、あちこちから乾いた音がした。弓の弦を弾く音だ。三人はいるな、とジェラルドは見当をつけた。


 「目的は? 金目のものか、命か? 」


 リヒャルトが尋ねた。ただでは帰してくれそうにない相手ではあったが、彼は交渉の余地が少しでもあると見ればひとまず挑んでみるたちだった。


 「命狙われるほどのご身分なら、もうちっと護衛連れてこいや……身ぐるみ剥げりゃ、それで用はねえよ。だが、絶対に殺しはしたくねえってほどの善人でもねえがな」


 頭領は呆れたようにせせら笑い、弓で三人に指図した。


 「命が惜しけりゃ、金目のものをそこへみんな出しな。……そっちのあんた。緑の」


 頭領はユージーンを指した。


 「あんた、貴族の出じゃねえだろ……そんな砕けた話し方、一朝一夕で身につくもんじゃねえ。あんたがそのご主人に仕えるのに嫌気が差してるってんなら……ご主人をここで斬って始末してみせるってんなら、あんたたち従者は見逃してやってもいいぜ。腕も立ちそうだし、食うに困るなら仲間に加えてやるぞ」

 「……だってさ。悪く思わないでね、ご主人さま」


 ユージーンは剣を剣帯ごと外し、頭領の足元に投げ出した。


 「新しいの、用意してもらえるかな? 剣と剣帯ね! 」

 「帰ったらな」


 ふたりの呑気なやり取りを、頭領は興味深そうに見ていた。


 「剣士が自分で剣を捨てるなんざ、感心しないぜ。おれたちが射かけたらどうするんだ? 」

 「本当にそうするつもりなら言わない方がいいんじゃない? 」


 ユージーンはポケットを裏返しながら言った。華美なところの少ない騎士の制服には金目のものらしい飾りはほとんどついていなかったので、ユージーンは唇を尖らせた。


 「あんたが今までどんな貴族を見てきたのか知らないけど、おれたちにお互いを売らせようとしても無駄だよ。……うーん、今日は〈森の日〉だからサイフ持ってきてないんだよな………あ、飴が入ってた。ちょっと溶けてるけどこれもあげるよ、ホラ」

 「僕ら、強制されて彼に仕えているわけじゃないからね」


 リヒャルトが上着の飾りボタンを確かめた――すべて銀製のうえ、ひとつひとつに宝石がついているのだ。リヒャルトは上着ごとユージーンの剣の上に投げた。


 「信じるかどうかは好きにすればいい。だけど、この人を殺したら君は後悔するかもしれないよ。この人みたいな貴族は珍しいと思うから」

 「そういうこと。――この手袋もいる? 親指のとこ、穴あきそうになってるけど」

 「どうしてそんなもの。アルテミシア団長に叱られるぞ」

 「だって、新しい手袋って滑るから……」


 頭領は次々と価値のありそうなものを提供する側近たちを呆気に取られて眺めていた。彼の子分も、判断がつかないのか沈黙している。彼が身ぐるみ剥いできたものたちは彼の前でずいぶんな醜態を晒してきたのだろうとジェラルドは思った。


 「おれはこの森が好きだったんだが」


 ジェラルドは髪留めを外した。彼のくせっ毛を留めるには頼りない代物だったが、銀の細工が実に見事で、金目のものには違いなかった。


 「残念だ。次からは裸で来なければならないなんて」


 彼が側近たちの積み上げたものの上に髪留めを置いたときだった。


 「………ん? 」

 「……えっ! 」


 男たちの緊迫した対決にはまったくそぐわない人物がふいにその場に現れたために、敵も味方も双方が呆気に取られた……木立の奥から現れた娘が、ジェラルドと頭領の間にふらりと滑り込んできたのだ。


 どことなく浮世離れした風情の娘だった。その肌はまるで一度も陽にあたったことがないかのように青白く、逆に長くなびく髪は黒く輝く絹糸の束のようだった。うつむき、ぼんやりと開いた瞳は虚ろだった。


 ――美しい人だ。おかしな事態ではあるが、ジェラルドは彼女と目が合った瞬間ついそう思った。青とも紫ともつかない不思議な色の虹彩に銀の縁取り。矢車菊と冬の月を封じ入れたかのような彼女の瞳は森の湖面のように澄んで、確かにジェラルドの顔に焦点を結んだ。


 最初に気を取り直したのは頭領だった。彼は困惑した様子で娘に声をかけた。


 「おい、あー……お、お嬢さん。あんた、いったい――……」


 娘は頭領の方を振り向き、抜き身の剣に目を留めた。そして何を思ったか、止める間もなくふいにその刃を掴んだ。


 頭領が短く


 「………うおっ! 」


 と声を上げただけだったのは、起きた出来事から考えれば賞賛に値する精神力だと言ってよかった。彼の剣は娘に掴まれたところから不思議な変化を見せた――最初にぐにゃりと不自然にくねったかと思うと、頭領が呆気に取られている間に蛇のように彼の腕に巻きつき、縛り上げ、その体を吊り上げた。


 一瞬のことだった。頭領は太く伸びた蔓に締め上げられ、呻きながら唯一手に残った剣の柄を手放した。金属の刃だったものは、完全に巨樹へと変貌を遂げていた。


 盗賊の子分たちはおろおろと隠れ場所から飛び出てきて頭領の周りに群がった。娘を恐れる様子を見せながらも、逃げればいいのか報復すればいいのか、何をしたらいいのかも判断つきかねたのだろう。ともかく頭領だけは救い出さなければとむやみに彼の脚を下から引っ張って、余計に苦しめていた。


 ジェラルドたちにも訳が分からなかった。なんだ、今のは。これではまるで……。


 「……ま、魔法………? 」


 ユージーンの一言に、頭領も子分たちもぎくりと娘を見た。現実離れした発想ではあった。だが、現にそうとしか思えない現象がすでに目の前で起きてしまったのだ。


 娘は彼らの反応にはまるで気がついていない様子だった。彼女はジェラルドの方へ向き直り、薄く唇を開いた。


 「あなたの声――が……」

 「おれの声? 」


 ジェラルドは聞き返したが、娘は何を続けるでもなく、まるで操り人形の糸が断ち切られたかのように突然力を失って倒れた。


 「……今回はまあ、不可抗力としよう。でも次も同じことをしたら僕は怒るからね」


 ジェラルドが思わず抱き留めた娘を自分で引き受けながらも、リヒャルトはちくりとそう言った。ジェラルドは反抗した。


 「そうは言っても、目の前で女性が倒れたら他にどうすればいいんだよ! 倒れるところをぼんやり見ていろとでも言うのか? 」

 「じゃあ、もしそれが倒れる〈フリ〉だったらどうするの? か弱く倒れたその女性が、実は君の命を狙って差し向けられた刺客だったら? どうせ僕たちが近くにいるんだから、任せればいいんだよ。今だって、ユージーンがちゃんと受け止めようとしていたじゃないか」

 「そうだよ。女の子だったら人を殺す力がないとか思ってるわけじゃないでしょ? 」

 「まあ今回は、状況的にこの子が僕らのことを助けてくれたみたいだし……危機管理能力には少し欠けるけれど、目の前で助けを必要としている人に反射で手を差し伸べる優しさも為政者に備わっていてほしい資質ではあるからね」


 側近たちに次々と詰められ、ジェラルドはぐうの音も出なかった。むっすりと沈黙する主をよそに、従者たちは娘を覗き込んだ。


 「なんか、昔っぽい格好した子だね」


 ユージーンが呟いた。彼女の装いは、確かに古代風だった――まるで絵画の登場人物のような姿は美しくはあったがどう見ても異質で、娘が不可思議な存在であることを裏づけているようで不気味でもあった。


 ユージーンは恐る恐る尋ねた。


 「リフィー、どう思う? ほ、本当に魔法だったと思う? 」


 リヒャルトは三人の中で一番理知的かつ論理的な分析力に優れた青年だったので、何か対処の難しい出来事に遭遇したときには、彼の意見が最初に参考にされるのが常だった。リヒャルトは笑った。


 「なにを動揺しているんだ。……賢女の予言どおりに誕生した男が目の前にいるんだ。魔法のひとつやふたつ、どうってことないさ……まあ驚いたけどね、確かに」

 「それはそうなんだけど……」

 「それに、ジェラルド自体が不思議の塊みたいな存在じゃないか。危ない目にあっているときに妖精が助けに現れたとしたって、何もおかしくないと僕は思う」

 「なんだよ、〈不思議の塊みたいな存在〉って? 」


 ジェラルドは訝しんだが、残念ながらこの問いは無視されてしまった。


 「やっぱり、妖精なのかな」

 「可能性は高い。鋼の剣を植物に変えたんだから――錬金術師だってそんなことできないさ」


 ジェラルドが側近たちの柔軟な対応力に呆気に取られていると、リヒャルトがこともなげに


 「どうしようか? 」


 と問うてきた。確信ありげな口調だった。ジェラルドとしても、答えはひとつしかなかった。


 「クーナのところへ行こう。きっと招いてくれる」

 「だよね。ユージーン、この子を――」

 「ま、待って……! 頼む――お頭を助けてくれ。お、お願いします……」


 三人が踵を返そうとしたときだ。盗賊の子分のひとりが青い顔をして近づいてきて弓をその場に投げ出し、膝をついた。


 盗賊たちは蔓に吊り上げられた頭領をなんとか救い出そうとしていたが、成就の兆しはまったくなかった。蔓は彼らの剣や小刀だけでは太刀打ちできないほど太く、表面が多少傷ついただけで緩む気配すらなかった。頑丈な斧くらいのものを持ってこなければ救出は難しいだろう。


 頭領は血の気の引いた顔で言った。


 「おまえら、もう構わなくていい。……あんたたち、頼む。こいつらのことは見逃してやってくれ」

 「お頭! 」


 子分たちは悲痛に訴えた。


 「勝手なこと言うなよ! 」

 「うるせえ。行くあてもなく盗賊稼業なんざやらされてるやつが、お頭に逆らうんじゃねえよ」


 盗賊は子分を黙らせておいて、ジェラルドをじっと見つめた。


 「頼む……あんたは従者を大切にするたちみたいだから、おれの気持ちが分かるだろう」


 ジェラルドはわざとらしく溜め息をついた。


 「おまえら、おれたちの身ぐるみ剥がそうとしたくせに。図々しいな」

 「図々しくない盗賊なんていると思うか? 」

 「はは、それもそうだ。……だが確かに、このままでは近くを通ったものが驚くな」

 「近くにニアール卿の城があるよね」


 すかさずリヒャルトが言った。ジェラルドはユージーンに合図した。ユージーンは頷き、先ほど盗賊に投げ出した剣をちゃっかり拾って、ひとり森の外へ向かった。


 ジェラルドは盗賊たちに言った。


 「近い城から人を呼んでやる。〈魚のひれ〉の辺りだから、馬ならここから三十分くらいだ。そんなに図々しい物言いができるなら一時間くらい辛抱してみせろ。……ときに、おまえの名は? 」

 「……サウィン。〈青片目のサウィン〉だ」


 自分たちの末路になど興味を持たないであろう貴族の青年に名を尋ねられ、困惑しながらもサウィンが答えた。リヒャルトがほう、と顎に手をやった。


 「聞いたことあるね」

 「ああ。……なるほど、おまえがあの〈青片目のサウィン〉か。覚えておこう」


 主が相手に名を尋ねるのがどんなときであるかを知っているリヒャルトのまなざしを頬に感じながら、ジェラルドは黙って歩き出した。リヒャルトが娘を背負い、後に続いた。


 リヒャルトが何か言いたげにしながらも何も言わないのは、賛成と反対が彼の中でせめぎ合い、決着がついていないときだとジェラルドは知っていた――いざとなれば怒鳴ってでもジェラルドを止めることを選ぶリヒャルトがそうして迷っているときは、大抵本心ではすでに賛成しているのだ、ということも。



 マザー・クーナはかつて王室つきの賢女だった。早逝したバルドラ王妃の実の姉、つまりジェラルドにとっては伯母にあたる人で、今は王都近くの森のどこかに人知れず暮らしている……とジェラルドは考えていた。


 クーナがどこに住んでいるのか、どうすれば会えるのかを、正確に知るものは恐らく誰もいなかった。甥のジェラルドですら、会いたいときにいつでも会えるわけではなかった。しかし、ジェラルドが本当に救いを必要としているときは、必ず彼女の家に辿り着くことができた。彼はこのことを〈クーナの招きがある〉と表現することにしていた。


 果たして、サウィンたちと別れていくらも歩かないうちに、ジェラルドたちは小さな美しい家の存在に気がついた。場所でいえば〈エリーばあさんの歌〉を歌っていた辺りだ。そのときはもちろんそんな家はなかったのだが、一度気がつけばその家は確かにそこにあった。クーナに招かれると、いつもそんなふうだった。


 ジェラルドたちが歩いていくと、玄関先で畑の手入れをしていた婦人が顔を上げてほほえみかけてきた。


 「いらっしゃい。よく来たわね」

 「お久しぶりです、クーナ」


 気持ちが緩むのを感じながら、ジェラルドは挨拶した。肖像画の母に通じる優しい面影のためなのか、クーナを前にするとジェラルドは小さな子どもに戻ったかのような素直な心が蘇るのを感じるのだ。


 良いこと、悪いこと、不安、心配ごと、秘密にしておきたいことまで、クーナが相手ならば打ち明けられた。自分ではどうしたらいいのか分からないことも。


 「このお嬢さんのことで、あなたに助けてほしいんだ」

 「まあ、どうしたの……」


 クーナは何気なくリヒャルトが背負っている娘を覗き込み――次の瞬間、彼女らしからぬ驚きの表情を見せた。


 「この子は……! どうして、この子があなたたちと一緒にいるの? 」

 「おれたちを盗賊から助けてくれたんだよ。盗賊の剣を蔓に変えて、そいつを縛り上げたんだ。……魔法、だよね? 」

 「ええ、そうね……妖精の魔法ね」

 「この女性のことをご存知なのですか? 」


 リヒャルトに尋ねられたクーナは、目を閉じて深く息を吸った。肯定も否定もしがたい……とその表情は語っていた。


 クーナは囁くように言った。


 「……とにかく、一度寝かせてあげましょう。中にお入りなさい」


 クーナの家の中は、木の実や薬草の清々しく甘い香りでいっぱいだった。ここは昔から変わらないな、とジェラルドは思った。


 娘は寝室に寝かされた。リヒャルトが娘を横抱きにしたとき、彼女の右手から輝く石がこぼれ落ちた――その色合いが先ほど目にした彼女の瞳の色とそっくりだったのでジェラルドは一瞬ぎょっとしたが、むろん彼女の片目が眼窩から抜け落ちたわけではなかった。


 彼女がずっと握っていたのだろう。ジェラルドは石を拾い上げ、娘の枕元に置いた。


 クーナはジェラルドたちに居間の椅子をすすめ、木製のカップに飲みものを注いでくれた。この白い飲みものはほんのりと甘く、森の中を歩いているような爽やかな風味と新鮮な牛乳の味がした。


 彼女は穏やかに、だが常になく真剣な面持ちで青年たちに問いかけた。


 「最初に聞かせて……あなたたちは、あの子に覚えはない? 」

 「え? いや、おれは………」


 ジェラルドがリヒャルトを見ると、彼も怪訝そうに首を横に振った。娘と出会ったときのユージーンの反応からしても、青年たちの誰もが彼女とは初対面のはずだった。


 クーナはふう、と息をついた。


 「……予言の成就が近づいているのだわ。〈妖精王〉の予言が」

 「ジェラルドの即位が近いということですか? 」


 リヒャルトが怪訝そうに言った。クーナの表情は、明らかに甥の即位を喜んでいるふうではなかった。


 クーナは首を振った。


 「〈妖精王〉の予言は、単にルディの即位を示すものではないのよ――もっとも、今の王宮では正しく伝わっていなくても仕方ないけどね」


 クーナはこともなげに言った。


 「ルディが生まれる前から〈妖精王〉に決まっていたというのは本当よ。正確には、千年前からね」


 千年前! 青年たちは呆気に取られた。


 「しかし、予言をしたのはクーナだと聞いたが……」

 「いいえ、もとの予言者は別の人よ。わたしは彼の予言を間違いなく実現させるために、星を見ながら兆しを告げただけ。必ず成就させなくてはならない予言だったから」


 ふたりの顔を見て、クーナは眉を下げて笑った。


 「〈妖精王〉だなんて、おとぎ話みたいなものだと思っていたんでしょう? 」


 ジェラルドたちは顔を見合わせた――図星だった。


 バルドラ王国は海峡を挟んで大陸から分断されている小さな国だ。島国という特性上、土着の文化と大陸由来の文化が一緒くたになって醸成されたような、肥沃だか混沌だかうまく説明のつかない伝統や伝承がたくさん残っている。


 〈妖精王〉も、ようするにそうしたよく分からない伝承のうちのひとつなのだった。少なくともジェラルドたちはそう教えられた。


 「バルドラはもともと妖精が統治していた国というのは知っているでしょう」


 とクーナは言った。青年たちは殊勝に頷いた――神話を起源とする国は世の中には少なくなく、バルドラも似たようなものなのだ、だから次代の王は〈妖精王〉と呼ばれるのだと、彼らを教えた歴史学者は息巻いたものだったが。


 リヒャルトがジェラルドを見ながら言った。


 「確かに、妖精や魔法に関係するらしいものは今までにも目にしてきました。今日の彼女のことだって、〈魔法〉以外に説明できる言葉は見つからない。でも、なんというか――おっしゃるとおり〈妖精〉は一般的におとぎ話の中のものですし、改めてそれを事実と捉えられるかと言われると、答えに詰まります」

 「おまえ、さっきは魔法のひとつやふたつどうってことないとか言っていたくせに」


 ジェラルドは横目でリヒャルトを見た。彼は先ほど〈不思議の塊〉などと不可解に表現されたことを根に持っていた。リヒャルトは顔色ひとつ変えなかった。


 「ユージーンが動揺していたから、何でもないふりでもしてやるしかなかったんだよ」

 「そうね。もう何百年も前から、この国の人たちにとって妖精や魔法はおとぎ話の中のものになってしまっているわ――他の国と同じようにね。目の前で魔法を見ても納得できないのは仕方ないわ。わたしの魔法だって、まだ信じていないでしょう」


 ふたりは反論しなかった。クーナの〈招き〉の不思議は、勘違いだったかもと考える方が自然なほどにいつもさりげない。こうして改めて〈魔法〉だと明言されると、かえって理解しづらかった。クーナは続けた。


 「昔は歴史を勉強する時間に妖精のことをきちんと教えていたのよ。バルドラの歴史には妖精が必ず関わってくるし、それが王宮つき賢女の一番の役割でもあったのだから」

 「僕たち、教わったことないね」


 とリヒャルトがジェラルドに確かめた。ジェラルドは思わず鼻で笑った。


 「おれたちのフォーガル先生が、妖精のことなんて正史として教えるもんか。――兄上が〈予言〉されていれば、違ったかもしれないけどな」

 「フォーガル卿は立派な方よ」


 クーナが宥めるようなほほえみを浮かべた。


 「彼のように〈現実的〉な目線を持っている人の言葉も、今のバルドラには必要だわ」

 「だが、あなたを追い出したんだろう」


 ジェラルドは伏し目がちに言った。フォーガルがクーナを目の敵にして王宮から閉め出したという事件を、ジェラルドはいまだに許していなかった。おかげで、母と別に暮らさねばならないような寂しさを何度味わったかしれない。


 クーナは眉を下げて笑った。


 「自分が見慣れていないものをうまく信じられない人というのは、どこにでもいるものよ。でも――もう、信じられないという理由だけで真実を遠ざけておくことはできないのかもしれないわ。いい機会だから、〈妖精王〉の予言が本来はどんなものだったのか……どうして必ず成就させなくてはならないのかも、あなたたちには話しておきましょうか。とても大事な話だから」


 青年たちは居ずまいを正した。不可思議な話題に翻弄されて混乱してはいたが、成就必須などと言われては気になった。


 それにジェラルドの経験上、クーナが〈大事〉と言った話はきちんと聞いておいた方がいいものばかりだった。


 クーナはふたりのカップに飲みものを足した。


 「昔々――千年も昔よ。だけど、本当にあったこと。このバルドラの土地には、魔法の力を持った人たちがたくさん暮らしていたの。呼び方はいろいろ――〈賢者〉〈魔法使い〉〈妖精〉そして〈マレビト〉。バルドラはもともと、彼らによって〈隠された〉土地だったのよ」

 「〈隠された〉というのは? 」


 リヒャルトが尋ねた。クーナは頷いた。


 「魔法によって隠されて、外界から干渉できない土地だったの。その頃はそんな妖精の国が世界中にたくさんあって、バルドラもそのうちのひとつだったのね――だけど、あるときバルドラは大きな災厄に襲われたの」

 「災厄………」


 青年たちは顔を見合わせた。記憶の中にそれらしい話を聞いた覚えがないか探ってはみたが、成果はなかった。フォーガルはふたりに〈バルドラが妖精によって統治されていた〉ということも一応教えてはくれたものの、それはあくまで民話や伝承の類にすぎないと強調してもいた。そして、世界から見たバルドラの立ち位置の変遷や歴代国王の功績、将来的な指針といったことばかりを詳しく講義した。


 ジェラルドは尋ねた。


 「災厄というのは……災害とか? 」

 「〈魚〉よ。バルドラの空を埋め尽くすような大きな魚の怪物が、妖精たちを端から食べはじめたの。今でも土地の名前に残っているでしょう――〈魚の口〉とか、〈魚の尾〉とか」

 「ああ……」


 青年たちの反応は鈍くならざるを得なかった。クーナの話はふたりが史実として素直に頷いていられる範疇など最初から飛び越えており、このときさらにもう一段飛躍した感があった――だが、バルドラの王都周辺に〈魚〉とつく地名が多く残されているのは事実だった。海辺だけでなく森や平原の中にまで同じような地名残っているため、さしものフォーガルも長年頭を悩ませているらしい……。


 クーナは構わずに続けた。


 「〈魚〉は妖精の魔法では倒せなかったの。魔法を好んで食べる性質を持っていたからよ。このとき、バルドラの妖精たちは自分たちの中から何人かを選んで〈魔力なきひと〉に変えることにしたわ」

 「僕たちのような? 」

 「そう――彼らなら〈魚〉に近づいても気づかれにくいから。おかげで怪物は封じられたけど、この封印は一時的なものでね――いつかまた、バルドラを脅かすことになるのは明らかだった。そこで、アルトリウスという若者が未来に希望を探したの。彼はとても優れた予言者だったのよ」


 クーナは飲みものをひと口飲んだ。


 「アルトリウスが最初に見たのは妖精と〈魔力なきひと〉の間で大きな戦が起こり、バルドラがふたつに分断されるところだった――だから、今の〈魔力なき人〉のバルドラはこうして普通の国になったのよ」

 「それじゃあ、〈妖精〉だけが住んでいるバルドラもどこかにはあるということですか? 」


 リヒャルトはともかくクーナの話を論理的に理解しようと試みることにしたらしい。だが、クーナの返答はさらに現実感を欠いていった。


 「そう……今のバルドラの上に、重なっているわ。〈魔力なきひと〉の目には見えないけどね」

 「なるほど……」

 「〈魚〉はいつ蘇るかも分からないのに、国は分断されてしまうかもしれない。これは大変なことよ。だけど、アルトリウスはもっと先の未来にやっと希望を見つけ出したの。遠い未来、〈魔力なきひと〉の国に生まれた王子が分断されたバルドラをひとつに統合して、災厄を打ち倒す――〈妖精王〉というのは、この王子のことなのよ。妖精も人間も両方を統治する君主という意味で、いずれは〈妖精王〉と称えられるようになる、てね」

 「………つまり、おれ? 」

 「そう。わたしはこの予言を、未来の王宮に伝えるのを任されたの。〈魔力なきひと〉の王宮だと予言が正確に伝承されるか分からないし……現にあなたたちはこのことを知らなかったし、〈妖精王〉の本来の意味もずいぶん忘れられてしまったんじゃないかしら」

 「――ジェラルドも知らなかったの? 」


 リヒャルトは初めて見るものを見るようにまじまじとジェラルドを見た。ジェラルドは思わず眉間に皺を寄せた。


 「おれとおまえとじゃ、大して知識に差はないよ――おれだって初めて聞いたことばかりだ。……ということは、ふたつのバルドラが統合される前兆として今日のあの子のような妖精が現れはじめたということなのかな」

 「――ええ、そうね。そうなのかもしれないわ」

 「バルドラの王宮には、代々王政を助けた賢女がいたと聞いています。そうした女性たちが、クーナのように正しい予言をひそかに伝承する役割を担っていたということなんですね」


 リヒャルトの言葉にクーナは何か言いたげな顔をしたが、なぜかそれ以上このことについては触れなかった。そして、気を取り直したようにほほえんだ。


 「あの子は、わたしが面倒を見ましょう。心配しなくて大丈夫よ」


 クーナに見送られて、青年たちは森を出た。十歩ほど進んでふたりで振り向くと、彼女の家はもうどこにも見えなかった。


 ふたりともが言葉少なだった。幼い頃から兄弟同然に育ってきたふたりだったが、今日あった出来事に抱いた感想はそれぞれだった。


 〈魔法〉や〈妖精〉は、これまでもジェラルドの人生にまとわりついていた。母が妖精の血を引いていたという話は(主に彼女が持っていたという美貌や愛らしさを称賛するために)よく聞かされたし、伯母のクーナが人智を超えた力で隠遁したり、ジェラルドの前に現れたりしていることもなんとなく察していた。


 〈妖精王〉が単なるおとぎ話ではなく、クーナに言わせれば史実に基づく予言であったことはジェラルドにとってそれなりに衝撃だった。国をひとつにまとめ、大きな災厄を打ち破ることをさだめられた王子。礼讃に値する名君。そんなどこぞの伝説もかくやの人物が自分だという……彼に言わせれば、とんだ暴論だった。


 その次に浮かんだのが、クーナが兄弟の順を取り違えて予言を与えてしまったのではないかという疑念だった。ジェラルドの兄は優秀な王子だ――彼なら〈災厄〉のことを教えられた時点で何か具体的な対策が思い浮かんでいたかもしれないのに。第一、なぜわざわざ兄ではなく弟の方に〈予言〉が紐づけられたのかも不可解だった。


 「今日の話、どう思った? 」


 リヒャルトが尋ねてきた。ジェラルドは正直に答えた。


 「……反応に困った。今も混乱している」

 「だよね」


 リヒャルトはジェラルドが期待していたとおり、あっさりと主を肯定した。


 「正直、今まで僕たちが聞いていた〈妖精王〉とは違いすぎる話だった。……でもまあ、バルドラが妖精に統治されていたから次代の国王を〈妖精王〉と呼ぶ、というフォーガル先生の授業が正しかったとしたら、どうして歴代の国王の中でジェラルドだけがそう呼ばれるのかずっと不思議だったから、納得はできたよ。分断状態の国を統合して災いに立ち向かう王子だなんて、特別視されて当然だ」

 「〈魚〉ってなんだと思う? 」

 「本当に〈魚〉の怪物みたいなものなんじゃないかな。クーナの言い方からしても、何か別の災害の比喩みたいな感じでもなかった。おとぎ話だと〈国を突然巨大な竜が襲って……〉みたいな展開ってよくあるよね。バルドラを襲った〈魚〉っていうのも、きっとそういう化けものが本当にいたということなんじゃないだろうか。なにしろ、魔法で統治されていた国だからね。何が出てきても不思議じゃない」

 「……おまえって、結構頭が柔らかいよな。おれなんか、自分のことなのに全然実感がないんだ」

 「当然だよ。現状のバルドラで妖精の話を本気にしている人はほとんどいない。悪い魔法や妖精に対して魔除けを飾ることはあるけどね。……でも〈魚〉の地名みたいに、クーナの話を踏まえれば辻褄が合うことは今のバルドラにも多い。それに、妖精の女の子が現れて僕たちを救ってくれたのだって本当のことだ。これでまだ現実じゃないというなら、現実なんてみんなおとぎ話さ」

 「……本気か? 」

 「もちろん。君が次期国王に指名されていることがなによりの証拠だ――根拠のない予言なら、兄弟の継承順を入れ替えるなんてことが認められるわけないからね。フォーガル先生が教えてくれなかっただけで、本来の予言を知っている人も王宮にはいるんだろう」


 リヒャルトはジェラルドの沈黙を〈魚〉の存在を深刻に捉えているせいだと思ったのか、明るく彼の肩を叩いた。


 「大丈夫さ。予言は、〈王子が災厄を打ち破る〉というものだ。最初から勝てると決まっているんだもの」


 〈王子〉でいいならおれじゃなくてもよかったんじゃないのか、とジェラルドは思った。クーナと会ったあと、これほど虚ろな気分になったのは初めてだった。なぜ兄の方を〈妖精王〉にしなかったのかと、クーナの家に引き返して尋ねたかった。


 しかし、ジェラルドは立ち止まらなかった。そんなことで、クーナが招いてくれるはずがなかった。


 この日以降、ジェラルドは次期国王としてどんどん多忙になり、森に出かけるということもやりにくくなった。


 以前に増して自由のなくなった王宮で、ジェラルドはなぜかときおりあの日出会った娘の瞳の色を思い浮かべた。もしかしたら矢車菊のようなあの虹彩を思い出すことで、彼が唯一自由を謳歌できた森の記憶を心に蘇らせていたのかもしれない――。


 そうして、いつしか三年が経った

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