EPISODE 5

サミエドロがバクの異変に気がついたのは数年が経ってからだった。

 体の弱いはずのバクが花畑を走り回っていたり、夜中に自分の目を盗んで何かを食べていたりすることに気がついた。

 どうしてもと言われてピオニーと町へ出掛けることを許した日には特に活き活きとしていた。

 嫌な予感がした。

 バクの行動の意味がわかったのは、ピオニーが最後にこの屋敷へ訪れた日だった。



「どうしたの、そんなに目を腫らして」


「お母様の記憶がなくなってしまったの。お母様だけじゃない、町の人のほとんどがそうなってしまったわ」



すぐにバクの仕業だとわかった。



「ねえ、サミエドロさん。みんなの記憶、戻りますよね?」



彼女の目に涙が浮かぶ。



「お母様の記憶戻りますよね?。何とか言ってくださいッ」



スカートの裾を強く握りしめて、泣き崩れそうなのを堪えているのがわかった。



「残念だけど、その記憶はもう二度と戻らない」



兆しがないわけではなかった。それ専用の薬を開発すれば何とかならないこともなかった。でも薬が完成する時にはもう手遅れかもしれない。

先行きがわからない状況で彼女に希望を持たせたくなかった。



「そんな」


「ごめん」



どうして俺が謝っているのか、ピオニーにはわからないだろう。要領を得ない表情で首を傾げると、彼女の頬を涙が伝った。



「ここにはもう来ちゃダメだ。バクに会うのもやめなさい。もちろん俺にも」



なんで、と問い返す言葉を遮る。



「なんでもだよ」



君にもうこれ以上悲しい思いをさせたくないんだ。



「…それじゃあ最後にお願いを聞いていただけませんか?」


「なにかな」



 どうしても、母親を一度診てほしいと頼まれてしまった。

 バクが眠ってから出かけたので、暗く薄気味悪い森の中を、頼りないランタンを持って歩いた。

 動物たちは俺が人間じゃないことを本能で感じ取るのか寄って来ない。バクには喜んで擦り寄って行くのは、やっぱり同じ人間じゃない者でも若干の差異はあるということなのか。

 遺伝子を元に戻してあげた危険生物――もとい今は普通の動物たちには俺も好かれていたけど、最近はすっかり姿を見なくなってしまった。ここら辺にいないだけか、それとも野生で生きていけなかったか…。

 自分だけならランタンなんて荷物でしかないけれど、彼女は人間だから夜目が利きづらい。それに、そもそもこんな夜の森は怖いだろうとランタンを持って来た。

 ピオニーの家はくだんの本屋よりもさらに小さく、みすぼらしかった。それでも壁に沿って牧が積み上がり煙突には煤が見受けられ、生活感のある人間らしい温かさが伝わってくる家だった。

彼女は自分の家を恥じたが、素敵な家だと思う。



「お邪魔します」



 とこに臥す彼女の母親は記憶を失くし、どこか虚ろな表情をしていた。前に会った時とは大きく印象が違っている。

 なんだかよくわからないけれど、これが悲しいってことなのかもしれない。



「おかえりさない」


「ただいま母さん」


「…どなた?」



母親は彼女が自分の娘であることもわからず、首を傾げていた。きっと自分の名前すらわかっていないのだろう。



「ピオニーよ。母さん…ルシアの娘の。ほら」



母親の手を取り自分の頬に当てるも、母親は何の反応も示さない。



「今日は調子がいいみたいです。酷い時は口を閉ざしてしまうので」


「診てみるよ」



彼女は母親の上体を起こし座らせる。



「こんばんはルシアさん」


「誰かしら。ピオニー?」


「サミエドロといいます。ピオニーさんなら今紅茶を淹れに行きましたよ。貴方についていくつか質問させていただいてもよろしいですか」


「ええ」


「ありがとうございます。ではまず、貴女が今口にしたピオニーさんはどのような人ですか」


「娘…だってあの子から聞いています」


「そうですね。では、娘というのは何だかわかりますか」



彼女のペースに会わせて、その他にも色々質問を続けた。



「ありがとうございます。もう結構ですよ」


「私、病気か何かなんですか」


「いいえ。ただ少し元気がないご様子だったので退屈しのぎになればと思いまして」


「お気遣いありがとう、サミエドロさん」



 母親が眠った後、ピオニーの淹れてくれた紅茶を飲みながら少し話をした。どうだったのかと聞かれ、首を横に振る。

 今まで繰り返し行ってきた動作は覚えていても、母親という役割や思い出の一切を忘れている以上元の生活を取り戻すのは難しい。

 正直に話すと、彼女は僅かに声を弾ませた。



「少しでも覚えていることがあるってことですか」



そうだと俺に言ってほしい、そう思わせるような彼女の視線は、悲痛と僅かな希望をのせていた。

 そんな彼女を見ていられなくて、目を逸らすように紅茶に視線を落とした。



「違う…かな。きつい言い方になるかもしれないけど、反服動作であればあるほど体が覚えているというだけだよ。そうしてそういった行動が出来るのか、本人にもわかっていないかもしれない」



木の床に音を立てて雫が落ち、薄暗いシミを遺した。彼女が今どんなかをして言えるのか見ずともわかった。



「…おかえりなさいって言ってくれるんです。それも反復動作、なんでしょうか」



きっと今までの様にピオニーが無事に帰っても、心のこもった優しい声音で「おかえりなさい」とはもう行ってくれないだろう。そう思っているのに、何故か口から紡がれたのはかつて彼女の母親から教わった優しい嘘。



「それだけは本当に覚えていたんじゃないかな。最愛の娘が家に無事帰って来る。それはルシアさんにとって記憶を失くそうが変わらず嬉しいことなんだ。さっき君が席を外した時もキッチンばかり気にしていたよ。どこかに母親の記憶が残っていて、君を想っているんだ」


「サミエドロさん…」

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