EPISODE 2
よく晴れたある日のこと。人知れず少女がサミエドロたちの屋敷のある森へ迷い込んで来た。
開けた場所に出ると少女はそれまで感じていた不安や恐怖を忘れ、目の前の花畑に駆けて行った。
自分と同じ名前の花やシロツメクサ、そこにはありとあらゆる花が太陽に顔を向け日光を一身に浴びていた。
どの花もそうしている者だから、少女も花たちと同じように太陽に両手を伸ばした。手のひらからこぼれる日光に笑みがこぼれる。
愛する母親の元へ花を摘んで帰ろうと、少女はエプロンいっぱいに花を集めた。
躓きそうになったところに、一人の男が横になっていた。
「この人…」
音も立てず少女の肩に蝶がとまった。
「泣いているわ」
サミエドロは夢を見ていた。
自分の手で全てを破壊してしまう夢。
自分の力を恐れれば恐れるほど、同じ夢を見る。
人間とは思えないような美しい顔に、摘んだ花を落としてしまうくらい少女は見惚れてしまった。
「いけない、人の顔をじっと見るなんて失礼よね。眠っているのに泣いているなんてきっと嫌な夢を見ているんだわ。早く起こしてあげないと」
小さな手に優しく揺すられて、目を覚ましたサミエドロは驚いた。
必要な物を買いに行く以外に人のいる町へは行かないようにしていた。なるべく人間との関りを遮断して、自分やバクへの目を避けるためでもあった。
目立ってしまうと自分たちの正体が明るみになり、バクにも秘密がバレてしまうかもしれないと考えてのことだった。
それなのに、今自分の眼前にはこんなにも近くに人間がいる。
いや、朝露のような透き通った瞳に、彼女の傍を舞う蝶たち。彼女は人間ではなく何かの精霊か何かかもしれない。
サミエドロは無意識に彼女の頬へ手を伸ばしていた。
「君は妖精なのかな」
「可笑しな人。寝ぼけていらっしゃるのね」
体を起こして目を擦ってみると、見覚えのある顔だと気がついた。
「紅茶をくれた…?」
「何のことです?」
「いや、何でもない」
あのご婦人の娘さんかもしれない。どこか面影がある。
少女が不意に自分の手を握る。
「お兄さんの手、太陽のような優しい温かさだわ」
涙が流れた。理由はわからなかったけれど、涙が止まらない。
彼女の名はピオニーといった。
それからも彼女は道を覚え、花畑へ来るようになった。
サミエドロはバクの昼寝中や部屋で読書に夢中になっている時間を見計らい、彼女と会うようになった。
バクに会わせたらきっと長話になって体調が悪化する、と自分に言い訳をして。
ピオニーの無邪気な好奇心には頭が下がった。こんな鬱蒼とした森の中で暮らしている自分に彼女は興味を持ったらしい。何かと知りたがるようになった。
「どんな研究をしていらっしゃるんですか」
「難病に効く薬の開発とか…かな」
「素晴らしい研究をなさっているんですね」
「今君が手にしている花もその薬に調合しているんだよ」
「何かこの花に効果があるんですか?」
「いや、薬が苦いからその花で甘い香りづけをしたんだ。子どもでも飲めるように」
「優しいんですね」
ピオニーは特に研究の話を聞きたがった。ずっとこんな難しい話でつまらなくないのかと聞いたこともあった。彼女はいつも首を振ってこう言う。
「サミエドロさんのお話はとてもおもしろいです」
彼女はサンドイッチやビスケットを持って花畑に来るものだから、自分もそれに泡得て紅茶を淹れて待つようになった。
彼女の母親からもらった紅茶を飲んでからというもの、紅茶を好んで飲むようになっていた。
ピオニーの聞きたがる話はいつしか研究の話から俺の話しになっていった。
「サミエドロさんは食べ物は何がお好きなんですか」
「カシスとか、甘酸っぱいものかな」
「まあっ。それなら今度カシスのジャムを作ってそれに合うパンも焼いて来ますね」
食事か…。
バクは食事をしないと生きて行けない身体構造だから、幼い彼に代わって自分が食事を作っていた。
本来なら自分は食べなくても平気だが、人間でないことがバクにばれたら一貫の終わり。だから一緒に食事を摂っていた。
そのことを抜きにしても、一人で食事をさせるのはなんだか嫌だった。
バクが喜ぶものをと思うあまり、料理には凝るようになっていた。
バクが一番喜ぶものは小説だったけれど、自分には書けなかった。料理は執筆と違って実験の要領で上手くいったけれど、出来上がった料理にバクはなかなか喜んでくれなかった。
『兄さんの作る料理は美味しいけど、どれもこう…ぐっとくるものがないんだ』
『そうか。また頑張ってみるよ』
『なら、この小説に出て来るこれを作ってみてよ』
『ザッハトルテ?』
『そう。この話の中ではこのケーキ、主人公に内緒で用意されたサプライズケーキなんだ。主人公はこれを食べた時嬉しくて涙を流したんだ。僕、こういうものが食べてみたい』
バクが読んだ小説に出てくる食べ物を作った時だけ、バクはとても喜んで食べてくれた。
バクに食事を作る中で気がついたことだけど、バクには俺にはない特異な力を持っていた。
バク自身はそのことに気がついていないようでほっとしたけれど、心配だった。
このまま気づかずにいてくれるといいんだけど。
「サミエドロさんは、どんな女性の髪型がお好きですか」
ピオニーは俺に女性の好みを聞いてはそれに合わせて髪型を変えたり、服装を変えたり忙しなかった。
最初はその意味がわからなかった。
自分が人間でないことに感づいて、何か試しているのかとさえ疑った。
だけどバクの持っている小説を漁って読んでみると、彼女がああいう行動をとった理由がわかった。
どうやら彼女は俺に恋心を寄せているらしい。
それを知った途端、なんだか今まで感じたことのない気持ちになった。バクに対する愛しさとはまた別の愛おしさ。
「サミエドロさんはどんな女性がお好きなんですか」
「ピオニーみたいな子かな」
サミエドロも彼女のことを想うようになっていた。
けれど人間ではない自分と、こんなにも純粋で心のきれいな人間である彼女が結ばれるなんて、許されないとわかっていた。
「…妹のようでとても愛らしいよ」
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