5th. 聖典と神話
ケマがある三つめのダンジョンは、沼地だった。
南域特有の温度と湿度の高い森に分け入り、しばらく歩いたところにそれは出現した。否、モモには判らなかった。サワタリが足を止めたため、首をかたむけたのだ。
「どうしたんだ、ご主人」
「ここから先が──かなり広い沼地になっている」
「沼地」
「この臭いは泥炭だな。足を踏み入れると、沈む。一度沈むと、自力では抜け出すことができない、底なし沼だ」
モモは眼を瞠る。ご主人の指す地面を見てみるが、下草の生えた森の地面──今まで歩いてきた地面と何ら変わりないように見える。サワタリが、手近な木の枝をナイフで折り取った。枝は、サワタリの身長ほどもある長いものだった。サワタリはそれを縦に持つと、眼下の地面に突き刺した。
ずぶりと、抵抗なく枝の先が地面に沈んでゆく。そのままずぶずぶと沈んでゆき──ついにすべてが沈みきってしまった。つまり、ご主人の身長よりもずっと深い──底なし沼、とサワタリの云った言葉を思いだし、モモは身震いする。
「草が生えているように見えるのは、水草なんだな」
「そうだ。一つ前の町で、この森の噂を聞いたろう。森に入ったきり行方不明になる者が続いたため、立ち入りを禁じるようになったと。おおかた、この沼に足をとられ、溺れ死んだのだろう」
モモはサワタリの肩でもう一度、ぶるっと震えた。もがいてももがいても、ずぶずぶと身体が沈んでゆく、そのうち口からも鼻からも泥土が入りこんでくる恐怖。命が尽きても、死体は沈みつづけ、弔われることもない。
神妙な顔で沼地──と思われる地面を見ていると、サワタリがザックからケマのカップをとりだしている。モモは沼地に足をつかないよう、慎重に人のすがたに化ける。
「湖の時のよう、沼の水を掬えばいいのだろうか」
「やってみろ」
「はい、ご主人」
サワタリから白いカップを受けとったモモは、膝を折る。よくよく眼を凝らすと、森の下草と、沼を多う水草の境目が見えた。カップで沼の水を掬う。水と云うより泥である。黒くて、嫌な臭いがする。どろどろとした泥土が──カップに掬われると、不意にそのなかで、かたちを変える。固まったのだ。
しゅう、と空気が抜けるような音をたて──実際に、水が蒸発し空気となって抜けていったのだろう、泥土は固形となり、そして色が白へと変わっていった。それと同時に。
「なるほど」
短く云ったサワタリが見ていたのは、沼地だった。沼地にも、カップの中の白い固形と同じものが浮き上がっていた。サワタリが、再び枝を切りそれを突き立てる。沼に浮き出した白い部分は、枝を弾く──固い地面へと変わっていたのだ。
即ち、沼の中に人の足で通行が可能な、白い道ができていた。
「ここを歩いてゆけ、ということらしい」
そこからは、湖の白い階段、塔の同じく白い階段と同じだった。途中に番人のごとく立ち塞がる魔物がいるところも同じである。ただし、ひとつだけ違うのが──。
「ファンジュドフィッシュが厄介だな」
階段の道程では、番人たる魔物以外とは遭遇することはなかったのだが。この沼地の道では、たえず魚の魔物が
「ご主人、足が血まみれだ。手当てを──」
「おまえはそのまま、モモンガのすがたで飛んでいろ。下に降りるな」
「でも」
「命令だ」
「……はい、ご主人」
サワタリのナイフでさえ一撃がやっとなのだ。モモの弓など当たるわけがない。それどころか、モモが地面に降りれば、ファンジュドフィッシュの新たな餌として、囓られ放題になるだけだ。──勿論、そうはさせまいと、サワタリが庇ってくれるだろうから、つまりご主人に余計な負担をかけることになる。ちゃんと考えれば判る。だから、モモはぎゅっと唇を噛みしめ、魔物のすがたで空を進んだ。
白い階段も途方もなく長かったが、白い道も長い。うねうねと沼の中を蛇行し進む道は、歩いても歩いても果てが見えない。沼地は霧も濃いのだ。モモの毛皮も湿気を吸い、重たくなっている。冬も終わりにさしかかっているから、重く湿った毛皮が暑い。
「……扉か」
忽然と現れる扉は、白い道の行く手を塞ぐ。そこに、番人たる魔物がいるのだ。今度の魔物は、巨大な鰐の魔物──インジェンスアリゲータだった。
(白い腕輪)
短い腕にも、あの白い腕輪が嵌められている。それをモモが見てとった時には、サワタリのナイフが魔鰐の腹に刺さっていた。魔鰐がその強靱な顎で、サワタリを頭から噛み砕こうとし飛びかかってきたところを、サワタリは下に潜りこみナイフを遣ったらしい。腹に刺したナイフを縦に動かし、抜き放った時、魔鰐は血しぶきを噴き上げ、斃れていた。
「ご主人、足の手当てをしよう!」
モモは音をたて人のすがたに化ける。扉の前は番人たる魔物のためのスペースなのか、やや広くなっていて、中央に陣取れば、ファンジュドフィッシュも飛距離が足りず飛びかかってこれない。モモはポーチを開けるのももどかしく、薬草をとりだした。
そうして夢中になって手当てをしている時だった。
サワタリが顔をあげる。腰のナイフに手をやり、すっと構えるのを見て。モモも、そちらを見た。そちらは──来し方だった。今までサワタリとともに歩いてきた白い道を──誰かが、歩いてくる。
「──やっと、追いつきました」
モモは眼を瞠る。魔鰐の死体を乗りこえ傍にやって来たのは──。
「ゴドフロワ!?」
かつてサワタリを
「どうして、こんなところにゴドフロワがいるんだ?」
「あなたがたを追ってきたに決まっているでしょう」
「おれたちを追うといっても、手懸かりなんかなかったろう」
「あなたがたの旅の目的は、ケマを捜すことだと知っていましたから」
それまで黙っていたサワタリが、ナイフのつかから手を離しながらつぶやく。
「ケマがある可能性のあるダンジョンは、南域に広く散らばっている。そのうちの一つでしかないここが、どうして判った?」
「ケマを求めて王家の資料をあさるのには、俺も加勢したんですよ。候補地のダンジョンは俺とて、すべて覚えていました。だから、その候補地を一つ一つ巡って──と云いたいところですが」
ゴドフロワは、僅かに眉を寄せる。
「サワタリ、人を殺したでしょう」
サワタリはぴくりとも表情を動かさない。
「四肢を切断し、喉をナイフで突かれた惨殺体が方々で見つかっています。とりわけ、パクスアニミの町で、ボレスアフ公爵お抱えの司祭が殺されたと騒ぎになっていました。それを聞きつけ、付近のダンジョンであるここに来てみたしだいです」
背負っていたザックをおろしながら、ゴドフロワが続ける。
「あなたの人殺し業はしばらく休みだと、俺はもう云ってしまっていたのに」
「誰に」
「ジル・マレット氏に」
「ジルだって!?」
思わず声を挟んでしまった。モモにゴドフロワは笑いかける。
「なかなか、とても、味のある人物でした」
「ウトゥラガトス・ニドムに行ったのか?」
「はい。サワタリをアベル殿下のもとへ連行することと引き換えに、俺はあの闇の職人の町に出頭することを約束しました。果たすことが遅くなり、申し訳ありませんでした」
そこで、ゴドフロワはウトゥラガトス・ニドムにて性悪な魔物を殲滅させたこと。その功績と、今まで秘密が守られているという事実を以て、赦されたことなどを話してくれた。そして、間接的にではあるが、自分の身の保証をしてくれたジルに会いにいったことも。
「サワタリが人殺し業を休み、冒険者として旅をしていると云ったら、ジルは一振りのナイフを造りあげました。素人が、傍目から見ても、ありったけの精魂を込めうちこまれたナイフです」
ゴドフロワは、それをサワタリに手渡す。
ナイフは、凝った革細工の鞘におさめられていた。サワタリは無造作につかを掴み、抜く。その刃を見て、無表情だった顔に色がうかぶ。
「これは──」
「フランベルジュのナイフ、とジルは云っていました」
ふしぎなかたちの刃だった。輪郭が、波打っているのだ。禍々しくもうつくしい刃が、沼地に落ちる微かな陽光をはねかえしている。
「……まったく。俺の窮地が判っているようなやつだな」
サワタリが、笑う。その理由はすぐにも明らかになるのだが──。
「モモには、これを」
ゴドフロワが、ザックから取りだしたもう一つの物を、モモに手渡す。
「おれ、に? ジルが?」
「はい」
モモは渡された物を見る。拳に包めるくらいの大きさの球形のボールは──確か、ブッラという名の、あの町の通行証である。
「サワタリのナイフを造ることに並でない集中をしていたのに、モモのブッラもいつのまにか、造りあげていたんです」
「あいつらしいな」
ご主人がまた、笑う。遠く離れた恋人のことを聞けて、うれしいのだ。よかった、とモモは思う。
よかった──と、思うのはつづく戦闘の時に、二度、三度。
扉を開け、再び白い道を歩きだしたら、途端にファンジュドフィッシュが食らいついてきた。サワタリは受けとったばかりのフランベルジュのナイフを抜く。一閃。ナイフは魔魚に一打しか与えていないのに、その体は死体となって沼に浮く。
「どういうことだ?」
「このナイフは、波の部分で体内をじぐざくに切り裂く。傷口が大きく複雑に広がるんだ。かすめるだけでもダメージは通常のナイフの比ではない」
ご主人が、笑っている。遠く離れていても、サワタリの窮地を救うのは、やはりジルなのだ。
モモは薬草ポーチにそっと手を触れる。ジルが造ってくれたブッラが入っている。無能なおれにまで、ブッラをつくってくれた。強くて、優しい人。ご主人の恋人……。
「俺とサワタリがいれば、ファンジュドフィッシュは脅威ではありません。ということで、モモ、魔物のすがたではなく、人のすがたで行きませんか」
ゴドフロワは十字剣を薙ぐことで、魔魚を叩き切っている。聞けば、ウトゥラガトス・ニドムに出頭する際、修道騎士の身分を返上し、帝都を出てきたという。だから、黄色のマントも、ワンズの盾ももう持ってはいない。だが、幅広の十字剣──クレイモアの剣は除隊の時アベル王子の恩寵として賜り、今でもゴドフロワの剣技を最も発揮する武器として装備されている。
「モモのすがたが気に入らないのならば、むりについてくる必要はない」
サワタリがすげなく云うのに、ゴドフロワは顔を顰める。
ゴドフロワは、魔物のすがたのモモ──モモンガという魔物が好きではないのだ。
「俺、あなたがたを捜して半年も旅をしていたんですよ。感動の再会なのに、そんなことを云うんですか」
「俺は誰ともパーティを組む気はない」
「モモとは組んでいるじゃないですか」
「これは俺の従魔だ」
云い合っているふたりを見ながら、モモは小さな手で胸をおさえた。
ジルとご主人のことを思うと、やっぱり痛い。色んなことを思う。でも、そうだ、おれはご主人の従魔なのだ。アイテムがつくった、にせものの思いでもいいと、それでもこの思いを大切にするのだと決めた。決まっていた。だから、痛む胸をぎゅっと押して。大切な思いを抱きしめるようにして、モモはまえを向く。
「あっ、ほら、扉があるぞ! また魔物がいるんじゃないか?」
サワタリの肩にとまり、小さな三つ手で指さす。勿論出現した魔物は、サワタリとゴドフロワに拠って、速やかに斃された。そうして番人たる魔物を斃し、扉をあけることを繰りかえし、また気の遠くなるほどの道を歩ききった時。即ち、白い道の終点にあったのは、洞窟だった。
隙なく周囲をうかがいながら踏みこむ、ご主人の肩でモモも息をつめる。背の高いふたりがらくに立って歩けるほど、洞窟は広い。ずるり、と音がした。瞬間に、そちらに向けナイフと剣がかまえられる。
「騎士さまもついていらっしゃると聞いていたのだけれど。どちらが姫さまの騎士なのかしら」
美声が、ずるり、ぬるりという音に重なる。洞窟の奥から現れたのは、上半身はうつくしい女性のすがた、下半身は太い蛇のすがたを持つ──ラミア。やはり伝説の魔物であり、なよやかな腕に嵌められた白い腕輪も、前の二つのダンジョンと同じだった。
「ここは黄道十二宮か?」
「白羊の宮でございます」
「ならば、おまえがケマか」
「姫さまの騎士が、ケマの解き方を求めていると、姉妹に聞きました。あなたが、姫さまの騎士?」
ラミアは首を伸ばし、サワタリの肩にとまるモモを見る。
「ああ……ほんとうだわ、魔物のすがたでいらっしゃる。あの、もしも、もしもよろしければ、わたくしにも人のすがたを見せてくださいませんか?」
サワタリを見ると、頷いている。モモは音をたて、人のすがたに化けた。
ラミアは嘆息し、地に頭をつける深いお辞儀をした。
「顔をあげてくれ。おれたちは──さっきあなたが云ったように、ケマを求めて旅をする、ただの旅人だ」
「おおせのままに。歌わせていただきます」
ラミアが歌ったのは、兄神の物語りだった。
偉大なる火の神。天地の間に人を創りし創造神。かれは兄神であった。
兄神と妹神の諍いのすえ、かれら彼女ら神がこの世に干渉することが禁忌となって後。執拗に妹神に子を産ませようとする兄神と父神母神を拒絶すべく、妹神はこの世に降りる。むろん、神としての干渉は禁じられていたから、魔物としてこの世に降りたのだ。その妹神を追い、兄神もまた人に生まれ変わりこの世に降りた。妹神は男に蹂躙される女を憐れみ、この世の魔物たちとともに、男を食い殺す。兄神は食い殺される男を結界で守り、魔物を屠る。兄神と妹神の諍いは続いたのだ。人を食い殺しつづける妹神は、神ゆえに疲れも倦みも知らなかったが、いずれそれを知ることになる。疲れ、倦んだ妹神の傍に、ひとりの人間が寄り添っていたから。かれは、男だった。だが、同じ男が女を蹂躙することに憤りをおぼえ、男を食らう魔物を助けていた。助けられ、守られ、妹神はやがて、この男に恋をする。人のすがたをとり、男と寄り添う妹神を見て、兄神は激怒した。兄神の猛烈な攻撃から、男は命懸けで妹神を守る。妹神を庇うかたちで、ついに男は落命する。その衝撃で衰弱した妹神を、兄神は強姦する。妹神は、さんにんの神が望んだとおり身籠もり、子を産んだ。その子こそがこの世を統べる帝国の祖となった……。
「違います」
そう云ったのはゴドフロワだった。例によって、この歌のなかに暗号としてこめられている秘蹟をとりだす作業にかかったサワタリの横で。ぼんやりと己れに刻まれたケマを──神々の歌を反芻していたモモは、声をあげたゴドフロワを振り向いた。
「違う?」
「兄神とは火神のことです。われらが主たる火神は、このケマで歌われる兄神と違います」
「ああ……聖典の神様と乖離があるって、ご主人も云っていた」
「ここが三つめのケマだと云いましたね。あと二つのケマも、同じように神話を歌っているのですか?」
「うん。あと二つのケマが歌った物語りも話そうか? ええと、おれはラミアみたいに綺麗に歌えないけれど」
「お願いします」
モモは頭に刻まれたケマの歌詞を読みあげた。ゴドフロワは、腕組みをして聞いている。
やはり違う、と聞き終わったゴドフロワは云う。
「そんな神話、聞いたこともありません」
「ゴドフロワは修道騎士だったな」
「今はその身分を返上したので、もと、ですが」
「でも、神話にも詳しいんだろう」
「神学は修道騎士に必須の学問ですから、詳しい方ではあると思いますが」
「その神話と乖離がある」
「乖離というよりも、まったく違います」
ゴドフロワはクレイモアの剣のつかに触れる。主に賜り忠誠を示すもの──そういつかかれが云った。修道騎士の証したる十字剣。
「兄神と妹神──火神と水神とふつうは呼称するのですが──の諍いの原因から先ず違います」
「諍いはあったのか」
「火神はご自身ら神に似せ人を創られた。その功績により、父母神である風神、地神の寵愛を一身に受けられた。風神、地神も人を大層愛したものだから、嫉妬にかられた水神が、人を食い殺す魔物を創りだした」
ほんとうに、ずいぶん違う。
「あらがうすべもなく、魔物に食い殺される人をあわれみ、火神は人の肉に降り──つまり人としてこの世に降臨し、魔物から人を守る旅をし、全土を巡った。やがて情け深い火神の子を奉り、全土を統べる王として祀りあげ、現王族の祖としたと、聖典は伝えています」
水神は、邪神なのです。ゴドフロワはそうも云った。
「魔物と人が交わったすがたで描かれる邪神で、火神、風神、地神と異なり、忌み嫌われています。火神は人を、風神は天を、地神は地を創ったのに対し、水神は魔物を創ったからですね」
「水神は、ええと、妹神か」
レイプ被害者である妹神が、邪神として忌み嫌われている……。
「ケマとは、いったい何なのでしょう」
「え……? 真なる秘蹟がこめられたものじゃないのか」
「秘蹟の方が、付属品なのではないでしょうか。歌の表層の──聖書と違いすぎる神話こそ、隠され、それでもこの世に伝えられつづけねばならないものなのでは──」
「神学の講義中にすまないが。暗号の解読が終わった」
ご主人、とモモは跳ねるよう振りかえる。サワタリが会話に割って入ってくることなど珍しいのだが──その理由はすぐに知れた。
「ここが、当たりだった」
サワタリはそう告げた。
「このケマにこめられたいたものこそ、癒やしの秘蹟だ」
ユーグの──ゴドフロワの最愛の兄の呪毒を癒す秘蹟、即ちモモたちが求め遙々と旅してきた目的が、ここで果たされたのであった。
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